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大学入試改革の「後退」は,「破局への道」か「破局を免れる道」か

 大学入試改革の実現イメージが,現行の教育の延長線上にある以上は,およそ「改革」などとは呼べない代物になるのは明らかである。

 世界の教育は「コンピテンシーベース」に移行しようとしているが,たとえば佐賀大学の宇都宮明子さんという方が論文等で分析されているドイツの歴史教育などは,まだまだ「産みの苦しみ」の最中のようである。

 そもそも,たとえば「歴史学習」「歴史教育」なるものに,日本では小中高の一貫性すらない。

 学会の連中も,文科省の無策をけなしているだけで,外国の事例を紹介したり,国内での授業分析をしている程度で,自分たちが「小中高大連携の歴史教育」なるものを提案することはない。

 ドイツでは,パンデルという人が提案したコンピテンス志向の歴史学習がカリキュラム化され,ザクセン-アンハルト州のレアプランでは「10学年段階修了時の到達目標」というものが示されている。

 ちなみに歴史学習のコンピテンスは「資料読解」「解釈」「語り」「歴史教養」の4つで,最初の2つは日本の高校までの学習指導要領でも採用されているものである。

 「語り」の方法は,「時間的に異なる歴史的出来事や過程や構造を互いに結び付け,さらに自ら語り的な意味を与える」というもの。

 「歴史教養」の方法は,「現在において歴史がどのように取り組まれ,説明されるかが見出される表現形式を認識し,評価する」というもの。

 いかにも「アクティブ・ラーニング」らしいコンピテンスであるが,もしこれを日本の学校教育で実現しようとしたら,歴史の授業はもちろん,総合的な学習の時間をすべて費やしても実現が難しいかもしれない。

 現在のセンター試験のような「見方によってはどうでもいい知識の記憶」だけを問う問題は作りようがなくなり,新テストはある時期の史料を3つくらい与えて,そこから現代に通じる意味を探りたくなるような歴史番組の構成を考えなさい,といった問題が出題できるようになれば,本物の「大学入試改革」ができるはずなのだが。

 こういう入試を行うためには,すべての大学の教師を採点に動員しない限り無理だろうし,こういう問題が解けるようになる授業を行うためには,現行のような40人学級では難しいだろう。

 ドイツの教師も相当な苦労を背負っていることと思うが,力量が乏しければ,教育効果はかえって下がり,「破局への道」を生徒たちが(教師たちが,ではない)たどるように見えてしまうことだろう。そういう意味で,「破局を免れる道」とは,今まで通りの入試を行い,今まで通りの授業を続けるということになる。

 もちろん,それが長期的に見たときには,結局は「破局への道」になってしまっている,という話である。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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