ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 教師集団が子ども集団と個人としての教師や子どもを育てていく | トップページ | 「コミュニケーション能力だけ」が高い子どもが増えたその先は・・・ »

子どもに「気をつかわせる」教師

 学級王国の人間関係は,当事者的な立場で考えなければ非常に興味深い。

 以前にも紹介した話だが,ある小学校で参観した,

 担任ではない教師の研究授業では,担任教師が前方から腕組みしながら子どもの様子をながめていた。

 子どもは授業に集中しなければならないのはもちろんだが,あれでは気が散ってしかたがないだろうと同情してしまった。

 私も授業者の動きより,担任教師の目配せというか視線の動きがやたらに気になった。

 参観したクラスでは,関係する子どもにだけわかる目による合図がどうやら存在していたようだ。

 リモートコントロールの手段はいろいろあるかもしれないが,部外者から見ればちょっと露骨すぎた。

 四六時中生活をともにしなければならない小学校の教室空間では,こういう子どもの「気働き」が担任教師を楽にするのだろう。

 ベテランほど口ではなく目でものを言うようになるが,担任教師が子どもがこうした阿吽の呼吸で過ごせるコミュニケーション能力は,言語を伴えないだけに,非常に高度なものであると言える。

 ただ,こういうタイプの能力は,長い歴史の中で培われてきたもので,核家族化が進む前までは,家庭でも十分に学べたものかもしれない。

 いちいち褒め言葉を口にするのは日本では「わざとらしい」ことで,微笑めば十分に気持ちが伝わったはずである。

 日本におけるコミュニケーションは,このように言葉を介さず「空気」を介して行われるものが多い。

 「呼吸」の方が「言葉」よりも重要だったりする。

 だからこそ,「空気」が変わると子どもの態度や話す言葉が一変する。

 全くの「別人」に生まれ変わることが可能となる。

 授業の分析を言葉で徹底して行う研究をしてくださっている方々がいらっしゃるが,

 実際の教室には,言語化されない無数のコミュニケーションが存在する。

 特に「コの字」型の座席配置では,子ども同士が表情をうかがえる関係に置かれながら,実際に言葉を発することができる子どもは1人しかいないから,その間の「情報交換」が頻繁に行われる。

 本来は,その「情報」の分析も行わないと,授業の総体が見えたことにはならない。

 1時間の授業の後,「ぐったり」するほど疲労する子どもがいる原因をぜひとも理解してあげてほしい。

 中学校では,「気疲れ」状態から解放されることで安心できている生徒を見ることができるが,やがて勉強についていくのがやっとになり,「気働き」している場合ではなくなっていく。

 どちらの方が幸せかは,何とも判断しにくいのだが・・・。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« 教師集団が子ども集団と個人としての教師や子どもを育てていく | トップページ | 「コミュニケーション能力だけ」が高い子どもが増えたその先は・・・ »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

小中連携」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

生活指導」カテゴリの記事

アクティブ・ラーニング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 子どもに「気をつかわせる」教師:

« 教師集団が子ども集団と個人としての教師や子どもを育てていく | トップページ | 「コミュニケーション能力だけ」が高い子どもが増えたその先は・・・ »

2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より