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部活動の存在しない学校づくり

 私たち40代の教師は,自分たちより若い世代が少ないために,部活動の指導にノンストップで当たり続けているが,何やら雲行きが怪しくなってきた。

 団塊の世代の退職後にやっと入って来始めた新・大量採用世代の若い教師たちが,部活動の指導を「ブラック」扱いして,避けようとする動きを示しているらしい。

 あの日教組の組合員ですらつとめていた部活動の顧問をやりたくないという。

 10年以上前に,自分が子どものときに部活動の経験がない教員が増え始めていることに危惧を抱いていることを人事担当の職員に相談したことがあるが,テストと面接の結果で合格してしまう「新しい大量採用」の若い教育公務員が残念なのは,「古い大量採用」の団塊世代が「やる気満々」だったのに,全くその逆だということだ。

 中学生や高校生にとって,部活動にはどのような意義があるのか,残念ながら自分自身に経験がなければ想像できないに違いない。

 私のように大学まで体育会(運動会)活動をしてきた人間としては,本当に多くの人たちに支えられてきたという感謝の念があるからこそ,自分もその恩返しをしたいと思って教育現場に立っているのである。

 もちろん100%の人が経験しなければならないものではないが,部活動を通しての先輩後輩や教師たちとの交流こそが,日本の学校文化の土台を支えていることに異を唱える人はいないだろう。

 カリキュラムよりも意義があるヒドゥンカリキュラムの代表格が部活動なのである。

 公立学校における教師としての自らの存在意義を失うことを怖れずに,子どもとかかわれる時間を削ろうと努力する姿は,やはり「教育」の成果なのだろう。

 もはや公立学校の教育の存立の危うさは,管理職のなり手がないという以前のレベルから進行しているようだ。

 当然のことだが,法律を盾にとれば,管理職が部活動の顧問を強制させることなどできない。

 法律を盾にしてまで「嫌がる」人間が教育現場にいることの違和感に耐えられない教師も多かろうが,

 今まで「我慢して顧問をしていた」教師たちが,調子にのって「おれもおれも」と部活動から遠ざかってしまえば,置いてきぼりになるのは子どもたちである。

 子どもを置いてきぼりにする議論ができるあたり,経験の浅い人にしかできないことかもしれない。

 ご存じない方もいらっしゃるだろうが,公立学校の教師たちが部活動の指導を熱心にしてくれるような国は,日本以外にはほとんどない。

 韓国の先生が視察に見えたときも,心の底から驚かれていた。

 アジアの中でも日本は特殊なのである。

 その教師たちの献身に対しては,感嘆や賞賛の声がかけられる。

 そこまで子どもたちのために尽くせる教師が日本には多いのかと。

 どうやら終わりが近づいているようだ。

 「法的な正しさ」からすると,部活動の顧問をしたがらない若い教師の言うとおりである。

 部活動の顧問として採用されたわけではない。

 「法教育」の輝かしい成果の一つだろう。

 そろそろ日本も部活動の存在しない学校づくりを進めたらだろうか。

 なお,右へならえが大好きな日本だから,全国の学校から部活動が消え去るということになろうが。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より