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教師も親も,子どもと一緒に成長する~成長できない教師たちの共通点からわかること~

 教師には,子どもと保護者をセットで罵倒する言葉がある。

 問題行動を起こした生徒に対して,「親に似たんだな」。

 「子どもを見れば親もわかるんだぞ」。

 言われた保護者は,当然教師や学校に抗議する。

 教師の中にはこうしたトラブルを防げない人がいて,管理職はこわくて担任を持たせられない。

 それこそ「お前の親がどんな非常識な人間か想像できるぞ」なんて心の中で思いながら。


 中学校の教師には,さらにここに小学校の教師を罵倒する言葉をもっている。

 挨拶ができない,係の活動に責任をもてない,授業態度が悪い,提出物を出さない子どもに・・・

 「小学校の担任はどういう先生だったんだ!」

 「授業中お菓子を食べていても,ゲームしていても,注意しませんでした・・・」

 
  
 保護者の側にも,教師を罵倒する言葉を持っている。

 「子どももいないのに,何がわかるの?」

 「結婚もしていないのに・・・・」

 教師の側からすると,経験を重ねれば,とても数多くの子どもと親に接しているが,

 年に2~3回の保護者会で顔を合わせる程度のことでは,

 親がどういう人か,わかるはずもない。

 一方の保護者は,今日,先生はこういうことを言った,だれだれにこういうことをした,・・・などという報告を子どもから聞くことができる。

 教師が親の情報を知るよりはるかに多くの教師の情報を,親は手に入れることができる。

 それも,職場での行動の情報である。

 「子どもを見れば親がわかる」なんていう教師の言葉は,多くは罵倒用の言葉であり,

 「私のせいではない」ことを単に納得したいだけの理由付けにすぎない。


 人間は,人と自分を比べたがる傾向をもっている。

 日本人は特に,「多くの人たちと同じこと」が好きな傾向をもっている。

 家具や家電量販店で「何が一番売れていますか」という質問が多いのもこのせいだろう。

 それだけだったらまだいいのだが,

 「自分や自分の子どもは,他人の子どもやその親と比べて悪くない,少しはましである,優れている」などという印象を持とうとしたら,ろくなことはない。

 親も教師も,常に未熟である,という大前提に立って,子どもと一緒に成長しようとする心がけが必要である。

 親も担任の教師も,子どもの「欠点」(多くは未熟な点)を見つけたら,それを克服するための環境を整えてあげることが必要である。

 学校にはそもそも多くの未熟な点を育てていけるための環境が整っているはずだが,個人差に対応した教育のことを「個に応じた教育」といい,それを重視すると「教育課程届」でうたっているところがほとんどである。

 教育関係者なら,親がどうこうという前に,学校で何をどうすべきかを論ずるべきである。 


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より