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2016年2月

セロトニン,ドーパミン,アドレナリンでわかる国民性

 三大神経伝達物質と言われるこの3つ。
 
 セロトニン,ドーパミン,アドレナリン。

 人間の肉体や精神の両面に安定を与えるものですが,

 はたらきが強すぎたり弱まったりすると,攻撃的になったり,不安になったりする。

 覚醒剤のような麻薬ではなく,健康的にこれらの物質を制御できるような時代がやってくると,

 日本人が苦手にしていることが得意になったりすることが予想されます。


 ドーパミンの多い民族は,外交上手だといいます。

 これは皮肉もこめた言い方です。

 日本を含む東アジアでは,ドーパミンの分解酵素の分解活性が高いタイプをもっている人が多く,

 ヨーロッパでは活性の低いタイプの人が多い。

 これは意思決定力の違いにも結びついているようで,

 ヨーロッパの人は自分でルールを探し出す・・・・あらかじめ定められたと教えられたルールを変えようとする行動に出る・・・傾向が強く,日本人は定められていると教えられたルールからなかなか抜け出せない・・・・。

 中立条約を破棄して攻め込める国と,そうでない国の違いのようなものでしょうか。

 ドーパミンが分解できずに体内に残り続けるヨーロッパの人の方が,自分で決めることが快感になりやすいとのこと。新しいことに挑戦しやすい脳をもっているということです。

 日本人が外交が下手な理由は,ドーパミンの分解活性の高さで説明できてしまうわけですか・・・。

 意思決定力を向上させるためには,ドーパミンの分解活性を抑える方法を開発すればよいのでしょうか・・・。

 しかし,そもそもそういう性質をヨーロッパの人々がもっているのは,

 相次ぐ戦争を生き残っていくために長い年月をかけて獲得してきたものかもしれなせん。

 より慎重に物事を運ぶのが得意な日本人。

 決定できないという欠点よりも,安易な決断はしない・・・・

 「スピードがすべて」みたいな危険なムードに流されない,腰の据わった慎重さというのが長所になるような生き方はできないものでしょうか。

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切りのいい数字にこだわらない生き方

 1912本で引退。

 あと88本のヒットで名球会入り。

 巨人の井端選手は現役続行の選択肢をとらなかった。

 高橋新監督の数字を意識しての発言だったと思うが,

 2000本安打を記録すれば,みんな「名選手」なのか,そうは思わないと

 井端選手は口にしたらしい。

 「記録にしがみつく」選手とは思われたくない。

 しかし,一方では名球会メンバーへの配慮も必要だろう。

 人は,「切りのいい数字」に弱いところがある。

 自動車を運転している人は,メーターの下2ケタ,3ケタが0でそろう瞬間を目にしたいと思う。

 ただ運転に集中していると,見逃して,悔しい思いをする。

 冠婚葬祭では,小銭がまざるようなお金の包み方をしない。

 消費税増税で苦しんでる商店の人にも,少しだけはみ出した分は値切ってもらおうとする。

 このブログも,アクセス数が70万を超えたときはそれなりの感慨があった。

 記事総数はあと117で4000に達する。

 「カウントダウン」も好きな人が多い。

 こういう生き方とは別の,もっと違った指標を自分の中に持つことが必要ではないか。

 重要な問いかけを教えてもらった気がする。

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木を見て人を見ず

 北海道新聞が昨日配信していた美瑛町の「哲学の木」伐採のニュースは,二重の意味で考えさせられるものだった。

 観光客らが撮影するために集まっていた老木のポプラを伐採したのは,農業を営む土地の所有者だということである。

 その方にとっても愛着のある木であり,苦渋の決断だったと報告されている。

 日本に限らず各地には,実際に現地に訪れて見てみたいものがたくさんある。

 「近くで見てみたい」という衝動が,他の何か大切なものを忘れさせることにより,迷惑を受ける人がいる。

 「鳩が大好きだ」といって,住宅街の中でエサやりをしたら,どういうことになるか。

 何かを見ることで,別の何かが見えなくなる,ということはよく起こる。

 木を見て森を見ず,という教訓があるが,

 心の視野まで失ってしまうことを避けるための方策を考えておきたい。

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「小学生レベルの作文しか書けない大学教授」とはだれか?

 あるブログで「小学生レベルの作文しか書けない大学教授」を責めるべきだという主張が行われている。

 同時に,「小学生レベルというだけで,レベルが低いと決めつけるのは,決めつける人の脳のロジックがおかしい」と主張している。

 私は「小学生レベルの作文しか書けない大学教授」と書かれているので,

 「(ある)大学教授の作文のレベルは小学生と同じである=レベルが低い」と主張していると解釈した。

 「小学生レベルというだけで,レベルが低いと決めつけた」わけではない。

 「小学生レベルというだけで,レベルが低いと決めつけ」た人は,いったいどこにいるのだろう。

 まずは,大学教授の作文を実際に紹介し,それが「小学生レベル」であることを証明していただきたい。

 また,「責めるべき」というなら,直接ご自分が本人に対してなさるべきである。

 ただし,侮辱罪に問われないように。

 侮辱罪(ぶじょくざい)とは,事実を摘示しないで,公然と人を侮辱することを内容とする犯罪である(刑法231条)。

 「侮辱」とは,他人の人格を蔑視する価値判断を表示することをいい,態様を問わないとされている。

 「脳のロジックが壊れている」という表現を使う人を,皆さんはどう思いますか?

 
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「アクティブ・ラーニング」だけが表看板の研究会

 個人的には,「アクティブ・ラーニング」を表看板にした研究ほど情けないものはないと考える。

 日本の教育は,「内容の充実」を中心に進められてきたが,

 「内容よりも方法を学ぶことに力点がある」研究は,だいたいどこかのモノ真似でしかない。

 国立教育政策研究所はHPで公開している研究報告を単行本にして売り始めたが,

 ここでまとめられているのは,内容,学習活動,資質・能力をつなぐ学びのサイクルをつくりだすのが課題・・・というごくごく当たり前のものであった。

 「学習活動」の方法そのものを学んでも何にもならない。

 内容と「資質・能力」への問いかけとその議論こそが大切である。

 「学び方」などは,小学生で十分にやっている。

 ただ成果が出ていないだけ。

 「学び方」で成果を出していると胸を張れる学校の数はわずかである。

 「内容」を問われたときに口をつぐまない学校となると,さらに数は減っていくだろう。

 さらに数が減るのは「本当に資質・能力は育っている」と実証できる学校である。

 本当に自分自身が「アクティブ・ラーニング」をしたいと思ったら,何をすべきか。

 ドリルをひたすらやり始めたりする人の方が,高い能力を発揮できてしまうことをどう説明したらよいのか。

 「内容」自体に「アクティブ・ラーニング」の推進力があることを,本気で語れる教師がいなくなってしまったら,今の学校制度や教師など必要なくなる。

 素人集団の『学び合い』万歳である。


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本日の都立高校入試(社会科)の記述問題について ~近江の大津・坂本の馬借とアフリカの森林減少~

 本日行われた東京都立高校の記述式の入試問題について,気づいたことをメモしておく。

 歴史では,中世における大津と坂本の馬借が果たした役割を,地図と2つの資料をもとに述べるものであった。

 問題文に「大津と坂本で活動した馬借」とあるが,馬借は言うまでもなく運送業者だから,

 「大津と坂本を拠点として活動した」とか,「大津と坂本に住んでいた」とした方が適切だっただろう。

 正答例は,「主に琵琶湖の水上路を利用して,」から始まっているが,

 「水上路を利用」したのは馬借ではないから,「利用して」の後ろの読点はない方がよかったかもしれない。

 この問題は,「馬借の役割」を問うよりも,
 
 「大津や坂本」が物流の拠点になっていた理由を問う方が,「考える」きっかけができただろう。

 地図がなくても正答できてしまう点が最も気になる点である。

 また,教科書等では「馬借たちが起こした一揆」が紹介されているため,「一揆を起こした」と解答した生徒がいたと考えられるが,これは減点対象となるのだろうか。

 高校ごとに採点基準は定めてよいので,聞いてみたい点である。


 もう1つ。アフリカ州の森林面積の減少と農地面積の変化を人口の増加と結びつけて答えさせた問題だが,

 正答例は,次のように示されている。

 「森林面積は減少し,農地面積は増加した。その理由は,人口の増加に伴い,食料等を増産するために森林を伐採し農地にしたから。」

 前半はグラフを読み取っただけだから間違いない。

 問題は後半である。

 アフリカの人口増加は,食料生産の増加を上回る勢いである。

 食料が増加したから人口が増加しているというわけではない。

 実際,食料の輸入も増えている。

 森林の減少の原因はさまざまだが,アフリカの森林伐採は,薪にするための木材をとるためと,木材を輸出にまわすために減少している。

 いも類は火を通さないと食べられないため,人口増加に伴って煮炊き用の薪が大量に必要になっている。

 伐採した森林がみんな農地になっているかのように読める答えはいかがなものか。
 
 さらに,教科書では輸出用農産物で外貨を稼ぐというアフリカの農業の特色も説明されている。

 増えた農地のうち,アフリカの人々の胃袋を満たすためのものがどれくらいあるのか,疑問である。

 
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手のひら返しが好きな人間の弱さ

 気の弱い人ほど,強気な発言を発してみるものの,

 ちょっと批判されると躍起になって反論し,自分を守ることに専念してしまう。

 余計に攻撃的になるあたりは,荒れた学校にいる手の付けられない子どもと同じである。

 「本当に弱いんだな」「精神がか細いんだな」と思われてしまうようなみじめな大人を間近に見て育つことができれば,自分を余計にみじめにさせる行動はとらずにすんだはずである。

 気の弱い子どもの行動パターンを観察していると,

 手のひら返しがよく発生する。

 さっきまでバカにしていた相手を,自分の都合が悪くなると急に褒め出す。

 少しでも自分が有利になる方に,機敏に行動の舵をきる。

 一方の頑固で強気な子どもは,間違ったことでも揺るがない。

 どちらがやっかいかと聞かれれば,前者は状況設定によってはよい方向へと導けるから,

 後者が悩ましいと答える。

 ただ,どこか「残念」な気はしない。

 「自信」さえ感じる人間の意固地な態度というものは,異文化の人たちと接するときには違和感なく受け入れられる可能性もある。

 まるでカメレオンのように,さっきまで書いている文章が残っているのに,
 
 そのことと逆のことを平気で書けてしまうような人,

 さっきまで言っていたことと逆のことを相手に合わせて主張したりする人は,信用されるはずがない。

 人間の「弱さ」は,悪循環にはまりやすい。

 蟻地獄から救ってあげる方法の開発が,教育現場に求められている。


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「小学生レベル」となめてはいけない

 人の悪口を書くことに熱意を燃やすネット住民がいるが,

 本来,攻撃対象ではない「周辺部分」に飛び火する言葉使いが少なくない。

 かつて,「小学生以下」などという侮蔑語を使うことの無神経さを指摘したが,

 「小学生レベル」とけなす言葉も考えものであうことも言っておきたい。

 なぜなら,大人顔負けの文章を書く「小学生」はいくらでもいるからである。

 中学受験をする児童が多い小学校にいた教師はよくわかるだろうが,

 文章力を塾で鍛えられている子どももたくさんいる。

 私が小学校の先生とTTを行うため,研究授業に訪れた小学校の児童はみな優秀だった。

 中学生顔負けの文章表現ができていた。

 高等学校の国語で,「表現力」が磨かれるように学習指導要領の内容を変えていく方針のようだが,

 読むことをしなければ,書くこともできない。

 書けないだけでなく読めない高校生が増えていくと思われる。

 ちなみに,小学生でも5年生や6年生になれば「歯舞」は読める。

 小学校の教師の中には,「小学生ならこの程度でよい」などと「ハードル」を思い切り下げて,自分の指導力のなさを誤魔化そうとする人がいる。

 もっともっと鍛えてほしい。

 子どもの成長には限界はない,という思いを込めて。

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もし担任教師に「子どもを見れば親がわかる」と言われたら

 何通りかの返し方があります。

 「あなたの親も非常識な人だったんですね」

 「校長先生も同じ意見ですか」

 「幼稚園のときに,そういうことを言う人もいましたが,何でも小学校にあがると,担任の先生の影響を強く受けるようになるのだそうです」

 「今まで家族でだれも言ったことのない他人の悪口を,先生のクラスになって家でするようになりました」

 「教育環境ってこわいですね」

 「こういうことを言われない学校があったら教えて下さい」

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教師も親も,子どもと一緒に成長する~成長できない教師たちの共通点からわかること~

 教師には,子どもと保護者をセットで罵倒する言葉がある。

 問題行動を起こした生徒に対して,「親に似たんだな」。

 「子どもを見れば親もわかるんだぞ」。

 言われた保護者は,当然教師や学校に抗議する。

 教師の中にはこうしたトラブルを防げない人がいて,管理職はこわくて担任を持たせられない。

 それこそ「お前の親がどんな非常識な人間か想像できるぞ」なんて心の中で思いながら。


 中学校の教師には,さらにここに小学校の教師を罵倒する言葉をもっている。

 挨拶ができない,係の活動に責任をもてない,授業態度が悪い,提出物を出さない子どもに・・・

 「小学校の担任はどういう先生だったんだ!」

 「授業中お菓子を食べていても,ゲームしていても,注意しませんでした・・・」

 
  
 保護者の側にも,教師を罵倒する言葉を持っている。

 「子どももいないのに,何がわかるの?」

 「結婚もしていないのに・・・・」

 教師の側からすると,経験を重ねれば,とても数多くの子どもと親に接しているが,

 年に2~3回の保護者会で顔を合わせる程度のことでは,

 親がどういう人か,わかるはずもない。

 一方の保護者は,今日,先生はこういうことを言った,だれだれにこういうことをした,・・・などという報告を子どもから聞くことができる。

 教師が親の情報を知るよりはるかに多くの教師の情報を,親は手に入れることができる。

 それも,職場での行動の情報である。

 「子どもを見れば親がわかる」なんていう教師の言葉は,多くは罵倒用の言葉であり,

 「私のせいではない」ことを単に納得したいだけの理由付けにすぎない。


 人間は,人と自分を比べたがる傾向をもっている。

 日本人は特に,「多くの人たちと同じこと」が好きな傾向をもっている。

 家具や家電量販店で「何が一番売れていますか」という質問が多いのもこのせいだろう。

 それだけだったらまだいいのだが,

 「自分や自分の子どもは,他人の子どもやその親と比べて悪くない,少しはましである,優れている」などという印象を持とうとしたら,ろくなことはない。

 親も教師も,常に未熟である,という大前提に立って,子どもと一緒に成長しようとする心がけが必要である。

 親も担任の教師も,子どもの「欠点」(多くは未熟な点)を見つけたら,それを克服するための環境を整えてあげることが必要である。

 学校にはそもそも多くの未熟な点を育てていけるための環境が整っているはずだが,個人差に対応した教育のことを「個に応じた教育」といい,それを重視すると「教育課程届」でうたっているところがほとんどである。

 教育関係者なら,親がどうこうという前に,学校で何をどうすべきかを論ずるべきである。 


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自分スルー型コミュ障

 よく「時間を守れ!」とか生徒に言う割に自分は時間を守らなかったりする教師がいるように,

 社会人でも「人にするなと言っていることをしている自分のことはスルーしている」人はいませんか。

 そういうことばかりするので,人とのコミュニケーションがうまくいっていない人。

 私の造語ですが,これを

 「自分スルー型コミュ障」と呼びます。

 「自分のことは棚上げして,他人の批判ばかりをしているために相手にされない人」のことです。

 
 自分自身は何か特別な存在だと勘違いしやすいのは教師の職業病の一つで,

 他人にだめだと言っているまさにそのことをその瞬間に自分がしていても,何も感じないですむ「殿上人」は傍目で見ていても哀れでなりません。


 自分が「コミュ障」であるという自覚がないほど,他人と自分との関係がわからないというか興味がないというか自己反省能力がない人が,これから求められている「グローバル人材」の資質能力なのかもしれません。

 「発言しない」ことに安心感を覚えてしまう日本人は,外からの見ようによっては「KY」でしょう。

 「自分スルー型」に人間や,授業で指名されないことを祈る「スルー熱望型」を減らしていくのも教育現場の仕事です。


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トイレを見ればよい○○かどうかわかる

 学校が落ち着いているかどうか,きめの細かい指導が行われているかどうかは,

 下駄箱を見ればわかる,という「学校の常識」があります。

 下駄箱,トイレ,ゴミ捨て場,職員室の教員の机の上の4つがきちんとしていれば,教室や廊下の掲示物などで誤魔化されることなく,学校の教育力をはかることができます。

 日本のトイレの清潔さに胸を打たれた中国の観光客によって,中国国内の店のサービスが変化しつつあるという記事を読みました。

 よいレストランかどうかは,トイレを見ればわかる,という話だそうです。

 入社試験で,トイレ掃除がきちんとできるかどうかを試した,という話や,

 社長自らがトイレ掃除をしているという企業の話を聞いたことがあります。

 ある大学の体育会も,下級生ではなく上級生がトイレ掃除をしていることで有名でした。

 最近,子どもにトイレ掃除をさせたくない,という親が増えて,学校によっては生徒がトイレを掃除していないところもあるようで,これは考えものだと感じました。

 家庭のトイレはだれが掃除しているのでしょう。

 家でも「勉強」「勉強」「勉強」としか言わない親の子どもがそのまま成長してしまったら・・・・

 日本が中国に追い越されるのは,単なる数字上の話だけではなくなってしまうような気がしています。


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能力や態度の評価は難しい・・・なぜなら

 今日,できるようになったことが,次の日にはできなくなっている。

 またしばらくしてできるようになる・・・・「能力」の評価は難しいのです。

 できたりできなかったりするから。

 ですから,評価は客観性が大事というより,そもそもできたときはこう,できなかったときはこう,と示すしかない。

 だんだんとできるようにはなっているけれど,またできなくなるかもしれない。

 道徳の面の評価をこれからするようになったとしたら,正直に書けばそういうことになります。

 2勝8敗が,3勝7敗くらいになれば,「少しは進歩している」と言える。

 出発点が低ければ,「進歩」の幅も大きくなる。

 人より「進歩」したはずなのに,能力は全然低いまま。出発点がゼロに近かったから。

 一体だれが,どのような「評価」を必要としているのでしょう。

 高い「評価」をもらった次の日に,正反対の悪いことをした場合,

 「評価」は出し直さなければならないのでしょうか?

 「教育」の難しさの一端が垣間見えませんか?


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学校はなぜ法令で定められていない「通知表」を作成するのか

 学校は,学校教育法施行規則の第1章「総則」の第3節「管理」に示されている第28条の4の定めにより,
 
 「指導要録」をつくることになっていますが,「通知表」に関する規定はありません。

 法令の規定はないのに,なぜ「通知表」(規定がないので,書式等もこうでなければならない,というものはありません)を作成しているのか。

 答えは簡単ですね。

 子ども本人にしてみても,保護者にしてみても,学校の教育の成果として,子どもにどのような評定(評価)がつけられたのかを知る権利があるでしょう。

 その評価が,正当なものであることを納得する権利がある。

 欠席,早退,遅刻,見学,欠課などの数は,法令で定められている出席簿を見ればわかるのですが,こちらも確認したい。

 通知表があれば,チェックすることができるわけです。

 前後期制なら2回,3学期制なら3回,評定が出される仕組みになっています。

 指導要録に記載される評価・評定は学年末だけのものなので,年に1回出されればよいとも考えられるのですが,区切りになる時期に評価を受け取った方が,励みになったり目標を確認できたりする。

 1クラスの人数が少なければ,成績関係のデータなどは,毎月示すことも可能だし,極端に言えば毎日でも不可能ではありません。

 子どもに学習成果のフィードバックを行う頻度が高いほど,目標と実力とを自覚した学習を進めることが期待できると考えることができます。

 そういえば,以前にとても手の込んだ通知表を考案した話を書きましたが,アナログにこそ意義があると考える人の割合は減っているでしょう。

 将来の学校では人工知能で動くプログラムにより,帰宅後15分程度で学習内容がどれだけ理解できたかを確認することができるようになって,評価の手間も省かれるようになるかもしれません。

 昔は,通知表のない学校もありました。

 うらやましいと思う子どももいると思いますが,

 「評価すべきことだけが書かれたもの」に通知表が変われば,

 「何も書かれていない通知表」よりは,「何かが書かれている通知表」をもらいたくなり,

 少しは勉強もがんばれるようになるかもしれませんね・・・。

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「コミュニケーション能力だけ」が高い子どもが増えたその先は・・・

 言語活動を充実させることが重要だ,という言われ方をしたときに,

 やれ「話し合い」だ「学び合い」だと騒いでいた人たちも,

 「言語活動を充実させる」ことのねらいをきちんと見極めて,思考力や判断力,表現力を高めていかなければならない,なぜなら試験にも実際の仕事にも,こういう力がついていないと危ないからだ,

 と目が覚めて,

 「ただ子ども同士でやらせておけばよいものではない」ことに気づき始めている。

 
 「コミュニケーション能力を向上させることが大事だ」と言われたときに,

 「振り込め詐欺技術の高度化が進みそうだ」と揶揄してくれた人たちがいたが,

 これから,「口だけが達者」な子どもが増えていったときの反動が私は心配である。

 
 その1つは「道徳教育の充実」だが,これは「道徳の教科化」が決まってもはや先行きが怪しいことが明らかになっている。

 「嘘でも良い言葉を発したもの勝ち」「嘘をついた方が得をする」という空気が蔓延しない対策を立てなければならない。

 あとの1つは「教育内容の充実」で,振り子現象の1つである。いわゆるグローバル社会に対応した教養主義が求められていくことになろう。

 しかし,こちらの解決方法もなかなかに難しい。

 「知識基盤社会」だと言いながら,「知識」が疎かであることに社会は涵養である。

 大学のセンセイまでもが(自己防衛のためだとも考えられるが)知識はすぐに陳腐化するものだ,と「知識重視」を唱える人を批判し,「知識詰め込み教育はよくない」などと言い出すが,大学を卒業しても教科書レベルの知識がない教師がいることへの責任を完全に放棄している。

 こういう大学を卒業して教員免許を取得してしまった人が教師になってしまった場合は,ICTに頼るしかなくなってしまう。

 多くの国や地域の学校教育というのは,能力は異なるものの,年齢は同じである子ども集団が同じ内容を学ぶところである。

 同じ年齢であることを優先する結果,簡単に言えば「お友達」同士の会話が生活の中心となる場所が学校である。

 しかし,「お友達」同士の会話ができるようになれば,「コミュニケーション能力が高まった」と言えるわけではないことは,学校のセンセイでなくてもわかる話である。
 
 中学校や高校の場合,部活動に入っていれば,先輩や後輩,顧問の先生,対戦相手の生徒や顧問の先生などとのかかわりが生まれる。

 挨拶程度の内容から,技術的な面でのアドバイス,お互いの課題の確認など,コミュニケーションの内容は多岐にわたってくる。

 ただ教科の内容を消化させているだけの普通の教科教育では,身につかせることが困難な力がある。

 お互い同士,「わかりあえる」ことが前提の授業では,必死に「わからせよう」とする心や努力そのものの価値が下がってしまう。

 「わかりあえない困難さ」を乗り越えるタイプのコミュニケーション能力を育成するのは,教科学習の中では難しいのである。

 グローバル化が進む社会に対応できる子どもを,1人の担任が40人の同年齢の子どもに対峙する学校社会で育成することがどの程度で可能なのか。

 「コミュニケーション能力だけ」が高い子どもが増えてきたときの,次のことを考えておくべきだろう。
 
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子どもに「気をつかわせる」教師

 学級王国の人間関係は,当事者的な立場で考えなければ非常に興味深い。

 以前にも紹介した話だが,ある小学校で参観した,

 担任ではない教師の研究授業では,担任教師が前方から腕組みしながら子どもの様子をながめていた。

 子どもは授業に集中しなければならないのはもちろんだが,あれでは気が散ってしかたがないだろうと同情してしまった。

 私も授業者の動きより,担任教師の目配せというか視線の動きがやたらに気になった。

 参観したクラスでは,関係する子どもにだけわかる目による合図がどうやら存在していたようだ。

 リモートコントロールの手段はいろいろあるかもしれないが,部外者から見ればちょっと露骨すぎた。

 四六時中生活をともにしなければならない小学校の教室空間では,こういう子どもの「気働き」が担任教師を楽にするのだろう。

 ベテランほど口ではなく目でものを言うようになるが,担任教師が子どもがこうした阿吽の呼吸で過ごせるコミュニケーション能力は,言語を伴えないだけに,非常に高度なものであると言える。

 ただ,こういうタイプの能力は,長い歴史の中で培われてきたもので,核家族化が進む前までは,家庭でも十分に学べたものかもしれない。

 いちいち褒め言葉を口にするのは日本では「わざとらしい」ことで,微笑めば十分に気持ちが伝わったはずである。

 日本におけるコミュニケーションは,このように言葉を介さず「空気」を介して行われるものが多い。

 「呼吸」の方が「言葉」よりも重要だったりする。

 だからこそ,「空気」が変わると子どもの態度や話す言葉が一変する。

 全くの「別人」に生まれ変わることが可能となる。

 授業の分析を言葉で徹底して行う研究をしてくださっている方々がいらっしゃるが,

 実際の教室には,言語化されない無数のコミュニケーションが存在する。

 特に「コの字」型の座席配置では,子ども同士が表情をうかがえる関係に置かれながら,実際に言葉を発することができる子どもは1人しかいないから,その間の「情報交換」が頻繁に行われる。

 本来は,その「情報」の分析も行わないと,授業の総体が見えたことにはならない。

 1時間の授業の後,「ぐったり」するほど疲労する子どもがいる原因をぜひとも理解してあげてほしい。

 中学校では,「気疲れ」状態から解放されることで安心できている生徒を見ることができるが,やがて勉強についていくのがやっとになり,「気働き」している場合ではなくなっていく。

 どちらの方が幸せかは,何とも判断しにくいのだが・・・。

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教師集団が子ども集団と個人としての教師や子どもを育てていく

 中高で苦労する生活指導の対処法として,対象の子どもと対峙するときに,「外見的」「雰囲気的」な部分での威圧を武器にしようとする教員が,かつては大勢いた。

 内面的な弱さをカバーするためにわざといでたちを派手にしたり,言葉使いを荒くしたりしている子どもに対して,このような・・・いわゆる「力で押さえる」・・・・方法は,逆効果であることは言うまでもない。

 子どもの内面的な弱さを少しでも強くしてあげる手立てが教師たちに必要とされる。

 内面が強い教師は,若い教師に限らず,内面的な弱さをもつすべての教師を支える役割も果たさなければならない。

 もし教師が人としてのロールモデルとして子どもに対峙しようとするならば,人間としての弱さを見せつつも,芯が本当に強いことを示せる場面がほしい。

 ただそのような状況設定はすぐにつくれるものではない。

 こういうときに発揮すべきものが,教師集団のチームプレーであり,小学校では実行不可能な方法である。

 小学校では子どもにとって担任教師と過ごす時間があまりに多すぎて,チームプレーは発揮しにくい。だからこそ学級崩壊に歯止めがかからず,いくら教頭や副校長や校長が授業に入っても,それは決して「チームプレー」ではなく「尻ぬぐい」にすぎない。

 中学校や高校の場合は(これも学年に1クラスとか2クラスしかない小規模校では難しいのだが),1つの学年の中でもさまざまなキャラクターを演じることができ,役割分担が可能になる。

 年齢が若いある教員は,子どもの主張を学校側に伝える「橋渡し」になり,ベテランの教員は自治的な動きの不十分さなどを指摘して,子どもに現状以上の頑張りを要求する,子どもにとっての「壁」となる。

 乗り越えるべき「壁」の前にある「溝」を子どもたち自身が埋めるような行動を,また別の教員がフォローしてくれる。

 教師集団がみんな同じレベルでだれに何を相談しても同じような答えしか返ってこなければ,子どもは教師に相談しようなんて気をなくしてしまう。

 教師集団といっても,ベテラン教師に他の教師が絶対服従的な態度をとってしまえば,それと同じような上下関係を子ども集団でも「学習」してつくってしまう。

 ぶつかるところはぶつかり,任せるところは任せる。

 アドバイスすべきところはアドバイスし,見守るところは見守る。

 教師集団の中でこうした人間関係が確立できると,それを見ている子ども集団も同じようなチャレンジをしやすくなっていく。

 ときに上下の関係を重んじる(廊下でかわすレベルの単純な挨拶など)面を子どもに見せつつ,行事主任など経験不足な教員に任せていくところは任せていく。

 人と人の関係のこうした柔軟な多層構造を,自分自身という個人の生き方自体の中に織り込んでいけるような人間にしていくことが,学校という教育に特化した社会でできることだ。

 組織からいったん抜けてしまった後に,別人のようになってしまう人間を作り出さないためにも,組織は人を育てるものになっていないといけない。

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部活動の存在しない学校づくり

 私たち40代の教師は,自分たちより若い世代が少ないために,部活動の指導にノンストップで当たり続けているが,何やら雲行きが怪しくなってきた。

 団塊の世代の退職後にやっと入って来始めた新・大量採用世代の若い教師たちが,部活動の指導を「ブラック」扱いして,避けようとする動きを示しているらしい。

 あの日教組の組合員ですらつとめていた部活動の顧問をやりたくないという。

 10年以上前に,自分が子どものときに部活動の経験がない教員が増え始めていることに危惧を抱いていることを人事担当の職員に相談したことがあるが,テストと面接の結果で合格してしまう「新しい大量採用」の若い教育公務員が残念なのは,「古い大量採用」の団塊世代が「やる気満々」だったのに,全くその逆だということだ。

 中学生や高校生にとって,部活動にはどのような意義があるのか,残念ながら自分自身に経験がなければ想像できないに違いない。

 私のように大学まで体育会(運動会)活動をしてきた人間としては,本当に多くの人たちに支えられてきたという感謝の念があるからこそ,自分もその恩返しをしたいと思って教育現場に立っているのである。

 もちろん100%の人が経験しなければならないものではないが,部活動を通しての先輩後輩や教師たちとの交流こそが,日本の学校文化の土台を支えていることに異を唱える人はいないだろう。

 カリキュラムよりも意義があるヒドゥンカリキュラムの代表格が部活動なのである。

 公立学校における教師としての自らの存在意義を失うことを怖れずに,子どもとかかわれる時間を削ろうと努力する姿は,やはり「教育」の成果なのだろう。

 もはや公立学校の教育の存立の危うさは,管理職のなり手がないという以前のレベルから進行しているようだ。

 当然のことだが,法律を盾にとれば,管理職が部活動の顧問を強制させることなどできない。

 法律を盾にしてまで「嫌がる」人間が教育現場にいることの違和感に耐えられない教師も多かろうが,

 今まで「我慢して顧問をしていた」教師たちが,調子にのって「おれもおれも」と部活動から遠ざかってしまえば,置いてきぼりになるのは子どもたちである。

 子どもを置いてきぼりにする議論ができるあたり,経験の浅い人にしかできないことかもしれない。

 ご存じない方もいらっしゃるだろうが,公立学校の教師たちが部活動の指導を熱心にしてくれるような国は,日本以外にはほとんどない。

 韓国の先生が視察に見えたときも,心の底から驚かれていた。

 アジアの中でも日本は特殊なのである。

 その教師たちの献身に対しては,感嘆や賞賛の声がかけられる。

 そこまで子どもたちのために尽くせる教師が日本には多いのかと。

 どうやら終わりが近づいているようだ。

 「法的な正しさ」からすると,部活動の顧問をしたがらない若い教師の言うとおりである。

 部活動の顧問として採用されたわけではない。

 「法教育」の輝かしい成果の一つだろう。

 そろそろ日本も部活動の存在しない学校づくりを進めたらだろうか。

 なお,右へならえが大好きな日本だから,全国の学校から部活動が消え去るということになろうが。


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自分が学んで本当に楽しいと思えることを教えられる幸せ

 昔と違って,教育実習で学校現場に来る学生や若い先生たちには,多くの「遠慮」がある。

 これでいいのか,誤っていないか,適切なことを言っているかなど,

 とても心配で仕方がないような雰囲気のある人が多い。

 「アクティブ・ラーニング」を進めたいが,子どもたちが予想もしなかった反応をどんどんすうようになる。

 それに対する適切な応対というか指導ができるか不安だ,という声もよく聞かれる。

 教師が「遠慮」がちに授業を進めているうちは,学習内容というのは子どもの身に入っていかないような気がする。

 昔は,明らかに間違っている内容でも堂々と語る「図々しい」教師が若い人にも多かった。

 よほどいい加減な・・・というか,大学でろくな勉強をしなかった人だろうな,という教師が大きな顔をすることができた時代があった。

 今は,そんな「はったり」教師は現場に立ちにくくなっている。

 ここのところ,いくつの論文もどきに目を通しているが,大学院の論文らしきものの中にも,明らかな誤りがすぐにたくさん見つかる。

 こういう論文でも,一応「業績」になってしまうのが大学という場所らしい。

 私の言葉で表現すれば,「逆コンピテンシー業績」であるはずだ。

 日本語としてよく練られていないために何を言いたいのかよくわからない論文も少なくない。

 何か偉そうなことを書いているようでも,現場ではほとんど経験がなさそうな雰囲気が漂ってくる。

 言葉の意味そのものが非常に曖昧なものが多い社会系の論文の質は,だれがどのように担保しているのか,全く不明である。

 大学は今でもそれで成り立つところらしいが,公立学校の現場はもはやそんな隙は見せられない。

 学校の先生が教えた「まちがい」「うそ」を,塾の先生がきちんと正してくれてしまうような時代である。

 「確からしさ」への不安というのは,こういう情勢を背景としたものと考えてよいだろうが,

 子どもにとって何が許容できるマイナスで,何が取り返しのつかないマイナスかというと,

 知識が曖昧だったり,いい加減なものしか身につかない場合は,どうせすぐに忘れてしまうようなものだから,マイナス度はたいしたことない。

 しかし,いかにもつまらなさそうに,機械的に,不安そうに授業を進める教師の態度こそが,子どもに限りない悪影響を与えていると私は考えている。

 はったりでも堂々としていた方が,グローバル社会で生きていくにはよほどためになる。

 そういう姿を学校で見続けることができるのであれば,自分自身が同じように生きることがしやすくなる。

 子どもは大人の似なくてもよいところほど似やすいものである。


 大学生や若い教師は,学習を本当の意味で楽しまないといけない。

 学習そのものを楽しもうとする姿勢こそが,子どもによい影響を与えてくれる。

 楽しんで学んだことを,同じように教えて「楽しさ」を子どもと共有できるような教師が増えてほしい。


 子どもだけがわいわいやっている姿を見るだけで楽しそうにしている教師は邪魔にならなくてよいが,

 そういう大人に自らなろうと思う子どもはいるまい。いてもいなくても同じだから。

 そういう教師になれたときには,すでに定年退職間近になってしまっていることだろう。
 

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経済産業省と満10歳を迎える「社会人基礎力」

 総務省が「主権者教育」に,金融庁が「金融経済教育」,法務省が「法教育」にと,

 「教育」の分野に各省庁が積極的に乗り出し始めている。

 経済産業省は「社会人基礎力」の育成を支援し,創価大学の中にある「社会人基礎力協議会」が開催している「社会基礎力育成グランプリ」の梃子入れも行っている。

 「社会人基礎力」を構成する3つの能力は,

 「前に踏み出す力」(アクション)

 「考え抜く力」(シンキング)

 「チームで働く力」(チームワーク)とされている。

 教育現場で一般的に使われている言葉を使えば,

 主体性,課題発見力,協働性に対応するのだが,

 「働きかけ力」「実行力」「計画力」「創造力」「発信力」「柔軟性」などの12の「能力要素」も合わせて示されている。

 興味深いのは,「チームで働く力」の要素の中に,「情況把握力」という,いわば「空気を読む能力」が入っていることである。いかにも日本らしい能力である。

 この「社会人基礎力」は,今から10年前に定義づけされたものらしい。

 社会は大きく変化しているが,10年間変化しないものを掲げ続けているあたり,

 不易の部分を大事にしているようにも見える。

 学習指導要領も,同じようなスタンスでつくればよいのではないか。

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主権者教育のためにお金を使うのは是か?非か?

 主権者教育の手始めに,「主権者教育」のための資料作成・配布に10億円以上の税金を使うことは是か,非かを議論させてみよう。

 まずは,資料の表紙に「総務省」と「文部科学省」が並んでいることに注目させる。

 「文部科学省」が作った資料を子どもが直接受け取るという仕組み自体,疑問が生まれるところだが,教育関係の省庁だから,理解できなくはない。

 では,「総務省」がなぜからんでいるかというと,ここは「選挙」や「政治資金制度」を担当する省庁だからである。

 18歳選挙権の開始に当たって,間もなく高校を卒業する生徒たちに,資料が配布された(はず)。

 メッセージは理解できる。

 「選挙に主体的に臨める主権者になってほしい」ということだろう。

 20代の投票率は,30%台前半,60代は70%近い。

 18歳,19歳の有権者の投票率が低いと,「制度を変えた意味がない」と批判される。

 だから投票率をUPさせたい。

 そのメッセージを資料にこめている。

 学校関係者としてすぐに思い浮かんだ疑問は,次の3つである。

 高校はこの資料を使った授業をする時間があるのだろうか。

 いつ,だれが,どのような方法で活用するのだろうか。

 担任か。公民科の教師か。

 行政経験者として予想できる動きは次の2つである。

 配布したかどうか,活用できたかどうかの調査が入る。

 主権者教育を学校としてどのように進めていくか,方針をたずねられる。

 20歳選挙権のときにはなかったことが,

 18歳選挙権のこれからは使命として課せられる。

 さて,最初の提案に戻る。 

 ネット上には,無料で配布できる教材がいくつかある。

 それでも冊子を配布することが必要なのか。

 テレビコマーシャルに10億円かけるのと,どちらがよいか,という問いはいけない。

 両方ともダメだという判断ができなくなる。

 いずれ,他の省庁が顔を出し始め,

 投票のかわりに「地域振興券購入引き替え券」を配るなどといった「呼び込み商法」が登場しそうでこわい。

 「罰則」で教師の動きを制限することではなく,

 政治に関する自由な議論が学校でもできる空気づくりの方がよほど大切であろうに・・・・。

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「一人も見捨てない」という心を育てる方法

 「一人も見捨てない」という「きれいな言葉」は,菊池省三さんの実践では「子どもが語り始めたこと」だそうだ。

 それなら意義があると思える。

 おせっかいなやつが増えた,と煙たがられても,いざというときに頼りになりそうだ。

 教師が言い出したり,やり出したりするようなことではなく,子どもが抱くことができるようになった「一人も見捨てない」という意識。

 一歩間違えば,「玉砕」にも結びつきかねないこういう言葉がはやることには,危惧もある。

 ただ,子ども自身が語ったり,抱き始めることには大きな意義があろう。

 どうしたらそのような思いが抱けるのか。

 実は,そう簡単な話ではない。

 壮絶な経験を経て,そんな思いを強く抱くパターンの方が多いだろう。

 教員の立場から言わせてもらえば,「一人も見捨てない」なんてことは当たり前すぎてわざわざ口に出すまでもない言葉である。

 もしそんな言葉が教員の口からもらされたとしたら,それだけわざとらしさ,胡散臭さを感じるのを禁じ得ない。

 「当たり前だろう」という反応しかない。

 難しいのは,そういう気持ちを子どもに「伝染」させることである。

 教員の側からすると,一歩間違えば,一部の子どもへの「えこひいき」になる。

 中学校では,一見すると「放り投げている」かのように思わせるような「引きつけ方」が必要である。

 鬱陶しさを味わわせずに,できるところまで挑戦させ,目立たないフォローをするような教師の技は,もしかしたら子ども時代にしか習得できないものなのかもしれない。


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体のあとに心がついてくる

 イチローの言葉として,雑誌に紹介されていたもの。

 心理的に積極的になれないときは,

 積極的であったときと同じ動きをとりあえず体でやってみる。

 体を動かすことで,心がついてくる。

 不登校のはじめは,「学校に行きたくない」といって,玄関から先に進めなくなってしまう。

 校門までたどりついても,中に入れなくなる。

 心のブレーキをなくしてしまう方法の一つが,

 とにかく颯爽と学校に向かって歩いてみるというもの。

 すると,いつの間にか「行きたくない」という気持ちが消えてしまう場合がある。

 一方では,心が拒絶しているときには「無理をさせない方がよい」と言う人がいて,

 また一方には,このように体の動きが心を変えてくれると言う人がいる。

 「もしものときの保険」として,イチローの言葉をしまっておくのはどうだろう。

 子どもだけではない。

 教師にとっても似たような心になることはある。

 子どもは,教師の歩き方で,異変に気づいたり,好調を察したりしてくれる。

 子どもを裏切らない行動力が教師にはほしい。

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東京アスペ大学と「障害」のハードル

 東京大学にはアスペルガー症候群の学生が多いというニュースがネットに出て,さまざまな反応があるようだが,さすがに4人に1人というのは多く見積もりすぎだろう。

 私の在学中は,語学の教室に一緒にいた学生や体育の授業を受けた学生の中に,そのような人はほとんどいなかった。

 体育会で一年中一緒に過ごした先輩・後輩・仲間にも,アスペの人はいなかった。

 最近はそういう学生が増えているのだろうか。

 アスペの人には,並外れた集中力や記憶力がある,という一般常識が「それらしさ」を補強しているようだが,集中力や記憶力があるだけでは,さすがに合格は難しかろうと思われる。

 私の教え子で東大に進学した生徒たちも,高度なコミュニケーション能力を持っていた。

 とはいえ,「一人もいるわけがない」とはさすがに言えない。

 また,「アスペルガー症候群」と誤解されるような言動をする学生が多くいるであろうことは予想できる。

 障害と判断するときのハードルを社会全体で下げていってくれるご時世というのは,それほど悪いものであるとは思わない。

 むしろ歓迎したい。

 みんな,それぞれの程度の障害をみんなもっているという感覚の方が,障害への差別意識が和らぐのではないか。

 もし,アスペの診断を受けて悩んだり苦しんでいる人の気が少しでも楽になるのであれば,東京アスペ大学という呼び名も捨て去らなくてよいと思う。

 
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『学び合い』による跳び箱指導

 『学び合い』の跳び箱の指導方法は,子どもたちに安全の確保を担わせるというものらしい。

 得意げに「大勢が跳び箱を跳べる方法」を語る人の動画を拝見させていただいた。

 「教師一人で安全を確保するのは無理である」とのこと。

 組体操よりむしろ,こちらの方こそ規制すべき対象である。

 自分の補助ミスによって,目の前で友達が脊髄を損傷する重症を負うリスクを子どもに負わせる授業はあってはならない。

 安全管理について,頭で理解できていることと,実際に体で実行できることの間にどのくらいの「距離」があるかをわかっていない。

 同様に,「口で言うこと」と,実際に頭の中で理解できていたり,体を使って実行することの間にも大きな「距離」があることも忘れてはならない。

 
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容疑者「K」の落とし方

 覚醒剤所持の現行犯で逮捕された容疑者「K」さんは,入手先については口を閉ざしているという。

 取り調べのベテランは,いくつかの「落とし方」の技をすでに試しているのだろうが,成功に到っていないということは,それだけ容疑者の心の闇が深いということではないだろうか。

 同じレベルで比較することはもちろんできないが,学校の教師にも,「落とし方」の常套手段がある。

 今回の件で共通するところがあるとすれば,

 「孤独にさいなまれている容疑者が,本当に親身になって自分のことを考えてくれていると誤解した相手をかばっている」ケースか,

 「ばらしたらとんでもないことをされる」と脅されているケースのどちらかである。

 落としやすいのは前者の方で,「誤解」に気づかせることに成功し,学校の場合は「先生方の方が味方なのだ」と思わせることができれば,「本当に反省すべき生徒」を突き止めることができる。

 後者の場合でも,脅していた生徒の方の指導に成功すれば,解決に結びつくこともある。

 キーワードは,「本当の意味で頼れる存在とは何か」に気づかせることであり,

 学校の場合,警察と違うのは,いつも生活をともにする「仲間」であり「家族」のようなものであることを実感させられる場であるということである。

 警察にお世話になった方は,いずれ,社会への復帰を果たさなければならない。

 社会の方でよいかたちで受け入れることができれば,再犯の可能性が下がるだろうが,ここが学校と社会の一番の違いである。

 「心を入れ替えた」つもりになっていても,やがて以前と同じような自暴自棄の気持ちだったり孤独に襲われたりすると,元の木阿弥になりかねない。

 頂点と最底辺を経験した容疑者「K」さんの振れ幅の大きさは想像もできないが,頂点に立てた環境の中にいた分,まだ希望は捨てずにすむと思われる。

 賭博に覚醒剤。

 プロ野球界は「お楽しみ界」ではないことを思い知らせてくれた。


 母親,子ども,野球少年・・・・・「落とし方」はいくらでもありそうだが,すでに復帰後の「回想録」を書き始めているゴーストライターがいそうなのも怖い。


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運動会の組体操に対する国の規制の是非と,管理職のなり手がいなくなっていることの関連性

 文科省が運動会の組体操に対する規制を行うかどうか,行うとしたらどのようにするかの検討に入るらしい。

 日本は民主主義の国だから,文科省が調査したデータに基づき,国会できちんとした議論が行われ,最終的に新たなルールがつくられることになる可能性がある。

 国としての「逃げ」の手段もある。

 それは,「校長の適切な判断に委ねる」という通知を行うこと。

 職員会議は「決定機関」ではないために,教職員の8割が組体操X段廃止に反対していても,校長が廃止と決定すれば廃止にできる。

 しかし,慣例として,校長は教職員の能力や自主性を重んじる経営をしているから,大多数の反対を押し切って廃しすることは難しかろう。

 だから,気の弱い校長たち,そして責任を取りたくない教育委員会は,ぜひ国に「基準を設けてくれ」とせがむ。

 かつて,こうしてできた「ルール」の一つが何であるか,教職員ならすぐに想像がつくだろう。

 これから,文科省→都道府県教育委員会→市町村教育委員会→学校という経路で,調査がまわってくる。

 組体操を行っているか,いないか。

 最大で何段のピラミッドやタワーを行っているか。

 過去何年間で,事故があったか,なかったか。

 あったとしたら,どのような事故だったか。

 指導の過程,実施の状態は適切だったか。

 事前の練習での怪我の発生件数とその症状は。

 大学のセンセイでは集めきれない全国の学校のデータが,2週間もすればすべて集められる。

 優秀な管理職がいる学校では,報道後にすぐに調査を開始するはずだから,回答までの時間はさほどかからないはずである。

 データをどのように分析するか,結論をどうするか,文科省ではすでに「下書き」ができあがっているだろう。

 私の予想は,上に書いたとおり,「学校の判断に任せる」というものである。

 その場合は,「適切な指導のもとに行うこと」という指示。

 もちろん,学校側はとても困る。しかし,学校には自律的な経営が求められているし,学校の教師もそれを求めている。だから,文句は言えない。

 重大事故が発生する確率が,ピラミッドやタワーが高くなるほど上がる。

 これこれの事故の発生の確率は0.1%以下,この程度の怪我の確率は0.3%・・・・・

 学校側としては,そんなデータは何の参考にもならない。

 職員会議が長引き,話し合いでは決着がつかず,最終的には多数決で決めたくなってしまうが,

 多数決をとる行為自体が禁止されている・・・・。

 組体操にかわるほどの「教育的効果が高い事例」を添えてくれるだけで,校長の精神的負担は軽くなるはずだが・・・・。

 国が規制をかけるべきかどうか。
 
 ネット上のアンケートでは,4割が賛成,5割が反対という状況のようだ。

 私もこうしたケースで国の規制が必要という事態になれば,

 今後ありえないほどの「規制」によって,学校が,がんじがらめにさせられてしまう危惧を抱く。

 危険を取り除くための努力をいくら行っても,子どもたちがいくら頑張りたいといっても,

 実施する権利を奪うのが規制だからである。

 「管理職のなり手がいない」という学校現場の苦しみが,少しわかっていただける事例にもなっている。


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再生可能エネルギーが破壊するもの

 風力発電のために設置された風車が引き起こす騒音や振動,太陽光発電のために設置されたパネルの反射光による高温などによる健康被害が各地から報告されている。

 国立公園内の樹木を無許可で伐採し,太陽光パネルを設置した業者も摘発されている。

 原子力発電も同様に,導入時は「化石燃料の代替エネルギー」として注目され,期待を集めたが,再生可能エネルギーの場合は,負の側面があまり重視されてこなかった気がする。

 国土にしめる居住に適した平野の面積の割合が小さい日本では,居住者を犠牲にしないエネルギー開発を進めていくべきなのだが,「お金で解決」されてきた面が大きい。

 健康をお金で売ってまで,化石燃料の消費をくいとめる必要があるのだろうか。

 「エネルギー環境教育」という分野があるようだが,このような教育を進めるための「お金の出所」には注意が必要である。

 「ナントカ教育」を推進するとき,よく行われるのが「作文コンクール」である。

 優秀賞の景品など副賞が異常に豪華だったのが,「原子力発電の意義」をテーマにした作文コンクールであった。

 原子力発電がそうであるように,今後,再生可能エネルギーの負の側面も教科書にははっきりと明記すべきである。

 「教科書に書いてあることしか知らないと不利益を被る可能性がある社会的事象リスト」を内閣府か消費者庁で作成していただきたい。

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「問題解決学習」という名称の亡霊が真のアクティブ・ラーニングの足を引っ張る日本の教育

 日本語で「問題解決学習」とよばれる経験主義的な学習活動を実践している方々がいらっしゃる。
 
 耳あたりのよい理念ばかりが先行し,現実としては教師にとって都合のよい「問題」しか「問題」になっていない実践が多く,しかも教師にとって都合のよいかたちで「解決」したことにするものばかりがめだつため,

 学習指導要領の解説等では,「問題解決的な学習」といって厳密な定義が不可能な呼び方がなされている。

 「子どもたちの疑問」の多くは「仕立て上げられたもの」であり,なぜか「指導案」に載ってしまっていたりする。

 たとえば40人の学級で授業をしていて,本当は何人の子どもが「自らの」「心から」その疑問を抱いていたかを,同調性圧力が強い学級王国で探索することは不可能である。

 そもそも「子どもたち」とは,一体何をさしているのか。AさんとBさんなのか。AさんとBさんとCさんなのか。それとも10人くらいの子どもか。40人全員のことか。

 「子どもたちが自分たちで自分たちの疑問を出発点にして,様々な知識や技能を習得し,また新しい見方・考え方を得ることができたと実感できるように学習活動を導く」ことが,どこの国のどのような学校や教師が実現できるのか。

 「子ども」はいつの間にか「子どもたち」という名の「複数形を装った単数形」にまとめ上げられ,「だれかの疑問」を「私たちの疑問」として出発させられる。

 これ以上,善人ぶった「やらせ」はない。

 アクティブ・ラーニングと「やらせ」の関係を見破る簡単な方法がある。

 最近では,子どもがボイスレコーダーを教室に隠し持っていることを教師たちは想定していなければならない。

 授業の復習は,親子で教師や子どもたちの肉声を聴きながら自宅で行えてしまう。

 ITの発達は,誤魔化すことを許さない人にとって,「秘密兵器」となる。 

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大学入試改革の「後退」は,「破局への道」か「破局を免れる道」か

 大学入試改革の実現イメージが,現行の教育の延長線上にある以上は,およそ「改革」などとは呼べない代物になるのは明らかである。

 世界の教育は「コンピテンシーベース」に移行しようとしているが,たとえば佐賀大学の宇都宮明子さんという方が論文等で分析されているドイツの歴史教育などは,まだまだ「産みの苦しみ」の最中のようである。

 そもそも,たとえば「歴史学習」「歴史教育」なるものに,日本では小中高の一貫性すらない。

 学会の連中も,文科省の無策をけなしているだけで,外国の事例を紹介したり,国内での授業分析をしている程度で,自分たちが「小中高大連携の歴史教育」なるものを提案することはない。

 ドイツでは,パンデルという人が提案したコンピテンス志向の歴史学習がカリキュラム化され,ザクセン-アンハルト州のレアプランでは「10学年段階修了時の到達目標」というものが示されている。

 ちなみに歴史学習のコンピテンスは「資料読解」「解釈」「語り」「歴史教養」の4つで,最初の2つは日本の高校までの学習指導要領でも採用されているものである。

 「語り」の方法は,「時間的に異なる歴史的出来事や過程や構造を互いに結び付け,さらに自ら語り的な意味を与える」というもの。

 「歴史教養」の方法は,「現在において歴史がどのように取り組まれ,説明されるかが見出される表現形式を認識し,評価する」というもの。

 いかにも「アクティブ・ラーニング」らしいコンピテンスであるが,もしこれを日本の学校教育で実現しようとしたら,歴史の授業はもちろん,総合的な学習の時間をすべて費やしても実現が難しいかもしれない。

 現在のセンター試験のような「見方によってはどうでもいい知識の記憶」だけを問う問題は作りようがなくなり,新テストはある時期の史料を3つくらい与えて,そこから現代に通じる意味を探りたくなるような歴史番組の構成を考えなさい,といった問題が出題できるようになれば,本物の「大学入試改革」ができるはずなのだが。

 こういう入試を行うためには,すべての大学の教師を採点に動員しない限り無理だろうし,こういう問題が解けるようになる授業を行うためには,現行のような40人学級では難しいだろう。

 ドイツの教師も相当な苦労を背負っていることと思うが,力量が乏しければ,教育効果はかえって下がり,「破局への道」を生徒たちが(教師たちが,ではない)たどるように見えてしまうことだろう。そういう意味で,「破局を免れる道」とは,今まで通りの入試を行い,今まで通りの授業を続けるということになる。

 もちろん,それが長期的に見たときには,結局は「破局への道」になってしまっている,という話である。

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学び合えない『学び合い』の授業をされる懸念が増していく

 自分の言いたいことを言っているだけで,他の生徒の意見を聞こうとしていないな,というのが見え見えの生徒が多い学校の授業を参観したことがある。

 少し訂正しておこう。

 「自分の言いたいこと」ではないのかもしれない。

 「自分が言えばよいこと」を口にしているだけで,他の生徒が何を言おうがほとんど関心がない生徒が多い学校の授業を参観した。

 これを「アクティブ・ラーニング」と講師の人は言っていたが,とんでもない。

 ただ4人組になって,調べた内容を読んでいただけである。

 「言語活動の充実が大事だ」とか「これからはアクティブ・ラーニングだ」とか囃し立てられることによって,「何かしたことにしたいだけ」の学校で,『学び合い』もどきがこれからも各学校ではやっていくことだろう。

 私としては,子どもがそんな授業の「被害者」にならないですむことを願ってやまない。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より