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教育の中毒と使命感

 冬休み中に,夢に学校の生徒たちが登場する教師はどのくらいいるだろう。

 小学校の教師たちは,きっと可愛い子どもたちに会えなくてつらい思いをしているだろうから,ちょくちょく登場するのではないか。

 夢に出てくるのは,たいてい,「気にしている子ども」である。

 もちろん,仕事とプライベートをはっきりと区別している教員も多いはずである。

 小学校教員になったばかりの若い男性たちが,窃盗やわいせつ行為などで懲戒免職となったニュースがよく流されている。仕事だけは真面目にやってくれていたと信じたいものであるが,犯罪者となった先生の教え子と呼ばれる子どもたちは本当に気の毒である。

 よく,こういうニュースが流れると,

 「教師としての使命感はどうなっているのか」

 と一般の方は憤るに違いない。

 私としては教師以前に「人間としてどうか」と思うのだが,

 やり玉にあげられるのが教員の採用システムや,大学での養成システムである。

 ただ,「学力」ならまだしも,「人間性」を大学や大学院に進学してから高めるというのは非常に困難だと思われる。

 「人間性」を育てるのは,生まれてから思春期ころまでのその人を取りまく環境であろうことくらい,実感できるからだれでもわかる。

 教師がそれなりの尊敬を受けるチャンスが残されているのは,

 社会で成功した人たちが,親だけでなく,自分によい影響を与えた教師の名前を口にし,

 感謝している場面なり話なりを見たり聞いたりすることができるからである。

 そして,感謝されている教師の中には,

 「それはあんまりだ」というくらい厳しい指導をした人が混じっていることに気づくはずである。

 
 教師の中には,子どもたちを厳しく鍛えることが「中毒」のようになっている人がいる。

 脳内の特別な物質が大量に分泌され,どんなに長時間指導しても全く疲れを感じることがない。


 そういう人が,教師に向いていると断言はできないが,

 勤務時間が終了するとさっさと家に帰ってしまう教師よりも,

 放課後に残って部活動の指導をしてくれたり,何時間でも悩み事の相談に乗ってくれたり,

 よりわかりやすく楽しい授業をするために手の込んだ教材をつくってくれたりする先生を子どもも親も望んでいるのである。

 「使命感がある」と周囲が評価するような先生は,

 きっと自分ではそんな意識をもっていることはないだろう。

 「好きでやっている」だけだからである。

 「仕事だから仕方なくやっている」場合は,口に出さなくても態度で子どもや親に伝わっていく。

 こっちの教員の方が,自ら「使命感をもってやっている」という意識をもっているのではないか。

 だから何か批判や非難をされると,

 「使命感をもってやって『あげて』いるのだから,批判される筋合いはない」という反応を示すことになる。

 だから,もし

 「あなたは教育の仕事に使命感をもって励んでいますか」

 などというアンケートがあったとしたら,愚の骨頂であると言える。

 「使命感をもっている」かどうかは,自分ではなく,子どもを含むまわりの人間が判断・評価することである。

 本当に教育に「使命感をもっている」人の場合は,

 「自分はむしろ中毒なのではないか」という不安を抱くほど,

 自分の子どもではなく,学校の子どもたちのことばかりを考えているに違いない。
 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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