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支援を必要とする大人を相手にしない人間を教育でつくりだすと,どのような社会になるか?

 支援を必要とする人を放置する,放っておく,かまわないでおく,無視する,相手にしない,

 そういう生き方を理想とする人間がどうやらいるらしい。

 こういう人間が増えたら,社会はどうなるだろうか。

 自分の目の前の利益が重要であり,「余計な手間」をすべて排除しようとする

 人間は,教育現場でこそ生まれやすいというのが私の持論である。
 
 手間を省こうとする教師のまわりには,少しずつトラブルが集まっていく。

 一人で抱えきれなくなったときに,周囲の支援を求め始めるが,

 もはや手遅れになっていることが多い。

 教育というのは,いかに手間をかけるかという世界である。

 「ああ,落ち着いた学校にやっと赴任できた。やってこれで楽ができる」

 という感想を述べた教員がいた。

 大間違いである。

 落ち着いた学校というのは,「楽をする」という発想がない教師が築いているものである。

 案の定,似た教師が集まってしまったせいか,まずは学年が荒れ出した。

 学校というのは,荒れ出すとその勢いを止めにくい場所である。

 人間の信用というのは,築くのは容易ではないが,崩壊させるのは一瞬ですむ。

 一言ですむ。

 「楽をしよう」という発想でいることがばれた時点でアウトである。

 教育実習は,よほどのことながない限り,「母校実習」を廃止すべきである。

 「受け皿がないから」という理由は成立しない。

 全国にはたくさんの「附属学校」がある。

 まずは附属学校の受け入れ定員を満たすことが,大学の責務である。

 今は,大学も大学生も「楽をする」「手間を省く」ことを重視して,

 「母校実習」に流れる傾向が強まっているが,

 もちろん「免許をとるだけで,教員になるつもりはない」人なら,それでもよい。

 ところが,「教員になるつもりがないのに,なぜ実習に来るのか」という叫び声も教育現場からは出ている。

 子どもたちとじゃれに来ること,「思い出をつくること」を目標にした実習生など必要ない。

 教育という仕事は,苦労の連続である。

 自ら困難に立ち向かえるような人間でないと,教師などつとまらない。

 教えるのが好きというだけなら,塾や予備校に就職すればよい。

 学校現場としては悲しいことだが,今は塾や予備校にも子どもの相談相手になってくれるような人間性の豊かな人材が集まっているという。学校の先生には相談できなくても,塾の先生なら話せる,という子どももいる。

 これからは,塾や予備校から学校現場が教師をヘッドハンティングしなければならない時代がやって来るのだろうか。
 
 自分が成長できるチャンスがたくさん提供される職場ととらえるか,

 ブラック企業ととらえるかは,本人次第というところだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より