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『学び合い』のねらいは全員対象のピグマリオン効果か?

 教員だったら知らない人がいないのが「ピグマリオン効果」。

 1964年にハーバード大学の学者が行った「実験」が有名である。

 ニセのテストを行って,実際には得点に関係なく「これから伸びる生徒」を20%だけ選び,先生たちに知らせた。

 結果は,ハーバード大学の学者の言うとおりになった・・・・という理由が,「ピグマリオン効果」として実証されてしまったわけである。

 この実験では,対象の生徒が20%だけだったこと。

 そして,おそらくは,先生方が「この生徒も伸びるんだ・・・」と思えるような意外性のあるものだった(無作為抽出なら当たり前)こと。

 最大の理由は,ハーバードという「看板」=権威があったことだと私は思うが・・・・。

 

 「ピグマリオン効果」は,現実の学校ではどのように作用しているのだろうか。

 私が荒れた学校に赴任したとき,教育委員会をはじめ,多くの教師たちが

 「あそこだけはダメだ」という声を発していたことを覚えている。

 教師としての使命感は,そんな「外野の声」を無視するはずだが,内部からも同じような声ばかりが聞かれた。

 最悪なのは,「親もダメだから」。

 
 天の邪鬼の性格だった私は,「どの子にも希望がある」という信念というか「反抗心」を強烈にもって,

 『希望の星』というタイトルの学年だよりを毎日発行していった。

 その効果は絶大であった。「この子どもたちに期待をかけてくれる先生がいる」という印象だけで,保護者の方々が学校に目と心を向けてくれるようになった。

 早い話,子どもをダメにしているのは教員の意識だったということである。

 「逆ピグマリオン効果」と表現すればよいのだろうか。


 「どうせだめだろう」という意識は,子どもたちに必ず伝わっていたはずである。

 そこへ,「もっとできるはずだ」という感覚をもっている教師が新しく赴任してきた。

 
 当初は,「どうせ最初のうちだけだろう」と,むしろ子どもも「ダメな面」を集中的に見せ始めたようだったが,先に「根負け」したのは子どもの方だった。

 私に「どうせだめだろう」と思わせることに,失敗したというか絶望した子どもたちが,

 「自然体」で行動し始めた。

 偉そうなやつは,「教師の期待にこたえようとした」なんて言うかもしれないが,

 そんなに教育は甘いものではない。

 
 「大人に機嫌をとっても意味はない」ことをよく知っているという点で,この子どもたちは果てしない成長の原動力を失わないでくれていたのだ。

 「評価のために見た目的に良さそうな行動をとる」習慣がない子どもというのは素晴らしい。

 
 「普通」に授業を受け始めると,当たり前だが学力は向上し出す。

 今まで『学び合い』のような教室環境に慣れていた子どもたちが,

 普通の授業の素晴らしさに気づき始めた。


 『学び合い』がねらっているものは,私の想像では,

 ピグマリオン効果をすべての子どもを対象に引き起こさせようとする取組みのように感じられる。

 
 しかし,現実の学校現場でそれは無理というものだ。

 臨床ナントカ学とか言って,子どもを動物実験の道具のように扱っている人間たちには,

 ベッドの上ではわからないことへの想像力をもつべきだと言いたい。


 「成長を信じなければいけない」という意識と,

 「本当に成長を信じる」意識との間には,埋めようのない差がある。


 そして,それを埋めるための手段が『学び合い』にあるとは思えない。

 「見た目」にこだわる臨床ナントカのセンセイ方には,本物の医師の臨床技能の奥の深さを知っておいていただきたい。

 安易な動機で臨む『学び合い』はむしろ,全く逆の効果を示し出すはずである。

 自らの責任を放棄し出す教師が増えるに違いない。

 そういう危機感を抱いているから,「右へならえ」を自粛しているのだろう。


 ハーバードの実験も,20%という絶妙の数字で示したところに意味がある。

 教師が学校現場で追究すべきなのは,

 「それぞれの子どもに最適な成長の条件を探る」ことである。

 「丸投げ」のどこが教育なのか。

 
 それを探っている教師の行動自体が,子どもたちへの重要な教育の一つの要素となっているのだ。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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