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努力の結果が報われない学校の評価システム

 学校における「評価」は,何のためにあるのか。

 小学校の場合は,受験とは基本的にかかわりがないため,評定の「1,2,3」に一喜一憂する子どもや保護者はそれほど多くないだろう。

 これが中学校になると,高校受験に直結する「内申点」の基礎になるので,「1,2,3,4,5」のどれになるかが合格の成否を決める材料となる。

 今晩のTVのある番組では,小学校の評価に関する説明がフリップをつかってなされていた。

 4観点の説明はでてこないだろうと思っていたが,案の定,実際に行われているはずもない,

 提出物や作品,発言などを点数化したものを,集計し,あとは自動的にA,B,Cに変換されるソフトを使っていると現役の小学校教師が語っていた。

 評定に結びつける前の段階の,観点別学習状況の評価がA,B,Cでつけられるのだが,学期末等で総括するときは,データの単純な足し算でなされるべきものではないことは,周知されているはずのものである。

 わかりやすい例を示すと,かけ算の単元で,ある児童は当初全くできなかったが,単元の学習が終えるころにはしっかりマスターできていたとする。

 5回のテストで,0点,0点,10点,40点,100点という結果だった。

 もし「平均点」で評価がつけられるとすると,「30点」の扱いとなる。

 5回のテストで,40点,50点,50点,50点,60点という結果だった生徒より,「20点も低い子ども」という評価の出され方になる。

 A,B,Cで示す観点別学習状況の評価というのは,そもそも「学習状況の評価」とよばれるように,形成的評価・・・つまり,現在の時点で子どもの学習にどのような課題があるかを教師が把握し,指導の改善に生かすためのものである。

 たとえば,「学習内容に興味,関心がもてていない状況」は,ほとんどが教師の指導力で左右される。

 単元が終わるまで,意欲が見えなかった子どもは,「C」という評価が出されるのだが,これでは「教育活動が行われた」とはよべないわけである。

 学習の成果として,結果的に100点がとれた子どもでもCがつき,ほとんど向上が見られなかった子どもにBがついたら,そもそも学校は何のためにあるかわからなくなってしまう。

 テレビで放映されるにもかかわらず,チェックが入らずあのような状況になっていることは,いかに日本の教育界の「評価」に対する認識が甘いかがはっきりしている証明にもなった。

 学校が説明責任を果たそうとしたときに,もしその根拠となるものが間違っていた場合,どういうことになるか,想像するだけでおそろしい。

 そのために入試で不合格になったことが証明されてしまうおそれがあるからである。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
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