ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「だれも見捨てない」というのは,まずは教師から教師へ向けられるべき言葉である | トップページ | 教師は「子どもを一人も見捨てないこと」より,自分が「子どもに見捨てられない」ための努力をすべきである »

目的意識が欠如しすぎるダメ教師と,目的意識に縛られすぎるダメ教師

 以前に学会で「ダメな教師の分析方法」を発表したときに,一番険しい表情で聞いていたのは大学教師たちであった。

 自分たちがどれだけ教師として「ダメ」なのか,具体的な指標に基づいて明らかにされてしまったのだから,仕方がない。

 その「ダメ」な状況からいかに自覚し,地の底から這い上がっていくかが「教育失敗学」の訴えたかったところである。
 
 当時は,大学には全く縁のない,しかし教育現場では非常に切実な課題を突きつけたのである。

 (今はようやく大学でもアクティブ・ラーニングが重視され出した。小中学校では半世紀以上前からやってきたことである。)

 私としては,それだけで満足し,学会での役割を終えることとした。

 頼るべき相手が見つからなかった,と言えばそれまでである。
 
 当時,名刺を交換させていただいた先生が何人かいらっしゃったが,その後,お元気だろうか。


 教員養成の仕事は難しい。

 だから,大学ではあまりまともに学生に向き合っていない人が多いのだ,

 という嘆きの声を最近も耳にした。


 「ダメ」な状況から「優秀だ」と思われる状況までは,とてもとても遠い道のりがある。

 ただ,スタート時点から「優秀」な状況から始まる要素もある。

 年月がそれを「ダメ」な状況に陥れていくケースもあり,

 教員集団によって一気につぶされるケースもある。

 公務員でもある教師がするべきことは,はっきりと法によって規定されている。

 そのことを忘れがちになっていく・・・自分がルールだ・・・なんていう思い上がりが増えるのが

 教師の特徴でもある。

 真逆に,あまりにも法の表面的な理解に立って,融通の利かない出来損ないの教師になっていく場合もある。

 指導主事になって,そういう危険な立ち位置にいる人を大勢見てきた。

 幸いにも,私の身近には,優先すべきことを見失っていない人ばかりしかいなかったが,

 ちょっと職場から離れると,「危険人物」たちが目についた。


 たとえば,教育基本法は,だれのためにあるのか。

 子どものためなのか。大人のためなのか。

 未来の大人のためなのか。現在の大人のためなのか。

 法律によって,教育の目標はしっかりと定められている。

 そのことを忘れてしまう教師がいる。

 一方で,その文字面しか理解できないまま,目標とかけ離れた姿を生み出そうとしている教師がいる。

 両方とも本当に迷惑なダメ教師である。

 ダメ教師が学校で果たせる役割が全くないのかと言えば,決してそうではない。


 価値観の押しつけはいけないと胸をはっておきながら,

 堂々と押しつけてすずしい顔をしている教師に出会うと,

 本当に「人間らしさを地でいく人」に見えて好感がもてる一方で,

 道徳の教材としては適切かもしれないが,教師としてその場にいるのはいかがなものかと思えてくる。


 ただ,こういう「人間らしい人」とも格闘しながら,子どもたちは成長していく。

 自分自身が変わり,人間として成長する姿を子どもに実感させる教師というのが,

 「賞味期限」は短いかもしれないが,大きな存在意義をもつことを忘れてはならない。


 自分の立ち位置が自覚できていない教師に,気づかせる役割をだれがもつのか。

 管理職のなり手が欠乏している学校現場の未来を創造する方法をだれが考えていくのか。

 待ったなしの状態にあることを自覚している人は少なくないはずだが,

 状況は,太平洋戦争に突入していったころと変わらないようである。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« 「だれも見捨てない」というのは,まずは教師から教師へ向けられるべき言葉である | トップページ | 教師は「子どもを一人も見捨てないこと」より,自分が「子どもに見捨てられない」ための努力をすべきである »

教育」カテゴリの記事

ニュースより」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

小中連携」カテゴリの記事

道徳」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

生活指導」カテゴリの記事

『学び合い』」カテゴリの記事

アクティブ・ラーニング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 「だれも見捨てない」というのは,まずは教師から教師へ向けられるべき言葉である | トップページ | 教師は「子どもを一人も見捨てないこと」より,自分が「子どもに見捨てられない」ための努力をすべきである »

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より