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「コの字」型の座席配置の問題点

 「コの字型 座席」で検索すると,私のブログの記事が先頭に来てしまうので,訪問された方は問題点を指摘した内容を読まされてしまう結果になるのだが,「よいことばかりではない」のは世の常,ということでご勘弁を願いたい。

 コの字型の座席は,どうやら高校でも導入しているところがあるようだ。

 その成果が,「寝る生徒が減った」というのだから,情けない。

 私は「生徒が生徒を監視できるシステム」には違和感の方が強い。

 「学び合いができる」なんていう表向きの理由ではなく,
 
 「お互いに監視し合える」なんていうホンネを陰で語っている教師がいることがいたたまれない。

 そして,「痛々しい思いをしている子ども」がいることを,検索トップの記事で書いていた。

 
 コの字型座席の問題点は,「学びの共同体」を研究させられている学校からの報告でも知ることができる。

******************************

 ・単元の導入で新しい用語など基本的なことを教える段階では,やりにくい。

 ・抽象的な内容が多い場合は不向きである。
 
 ・説明のときは,座席を前に向けて一斉授業形態とするほうがよい。

 ・コの字型では授業に集中しないことが多い。
 
 ・「学びの共同体」用の教材準備の時間が確保できない。

 ・生徒が自分で考えないで,人に聞けばいいという態度になることがある(友人からの「教えて教えて攻撃」に保護者からも意見)。

 ・個人でじっくり考えて解くことも必要。

 ・自分自身と向き合う学習をさせたいときは適さない。

 ・話し合いに参加しようとしない生徒の指導が問題である(グループへの参加が苦手な生徒も)。

 ・話し合うことで満足してしまうケースがある。

 ・その教科の得意な生徒とグループになりたがる。

 ・生徒に落ち着きがなくなっている。

*****************************
     (東大附属の報告より)ℂ東京大学学校教育高度化センター

 とても貴重な内容である。

 どうやら授業者の力量でどうにでもなる問題も多々含まれているようだが,

 『学び合い』を進めている人たちにとっても参考になることが多いのではないか。

 
 大学の先生というのは,ご専門が「授業論」だったり「社会科教育」だったりすると,

 授業の場での動きがどうこうというのが研究対象となる。

 しかし,学校現場というのは,「授業の場」以外の子どもの関係が非常に重要なところで,「ヒドゥンカリキュラム」と言えば通じる話である。

 「学びの共同体」を教科の授業として語るのも大切な仕事だと思うが,

 別に教科の学習ではなくても,「学びの共同体」を形成することはいくらでも可能である。

 むしろ,教科の時間くらいはじっくりと考えられる環境をつくってほしいと願う子どももいるだろう。


 「大人と向き合えない子ども」が増えている。

 「大人との会話」が成立しない小学校7年生も増えている。

 教員も児童のお友達の中の1人にすぎず,あだ名で呼び合っているような関係で満足している小学校教師は,一度どこかの企業で研修を受けてほしい。

 矯正が必要である。
 
 将来,「一人で本を読むこともできない」人間をつくり出してしまうような授業形態は考えものである。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より