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親に「使命感」が求められることがあるか?

 前の記事を書きながら,教師に求められるとよく言われる「使命感」という語に違和感を覚えていた。

 親に対して,子どもを育てることへの「使命感を持っているか」という言い方はされるだろうか。

 されないとしたら,なぜだろう。

 「使命」の「使」は,「使役」の「使」と考えてみたらどうだろう。

 「使命」の「命」は,「命令」の「命」である。

 と考えれば,「使命」とは「自分」が主体ではなくて,

 「ボス」のために果たすべきものだと考えることができる。

 「ボス」を「神」とか「天」と見なすこともできるが,

 そういう宗教的な感覚がなくても幸福に暮らせている日本では,

 わざわざそういう意味での「使命を持つ」ことを自覚して生きている人は少ないだろう。

 「国を守る,家族を守ることを使命として戦い,死んでいった英霊」の魂は,

 自分と同じことを今の人たちに経験してほしいとは願っていないと思われる。

 
 「親の使命」という感覚がないのは,親には「ボス」はいないからだろうか。

 脱線するが,ごく一部に,「ボス」をもつ親がいる。

 「~家の恥」にならないように,子どもを強烈に育てている教育ママがそれである。


 学校の面談で,自分の息子の名前を「くん」づけで呼んでいた父親がいたが,

 父親にも「ボス」=祖父母がいる場合も考えられる。


 さて,教師の「使命」を考えた場合,

 「教育公務員」として,憲法はもちろん様々な法律を遵守することは当然のことである。

 教育基本法にこれこれと書いている。

 だからそれを具現化するために働くことが「使命」となる。

 もし,教育基本法に「親の任務」が明文化されていれば,親も「使命」を担っていることになる。

 
 ただ,親はもちろんだが,教師が「使命感の欠如」を非難されるとき,

 教育基本法に基づいて問題を指摘する人はあまり多くないのではないか。

 子どもに思考力・判断力・表現力が身に付いていなくても,

 「あなたに教師としての使命感があるか」と問い詰められることは少ない。


 現場にいるとわかるのだが,

 そもそも人間として無責任だと見られる状態をさして「教師としての使命感のなさ」が嘆かれるのが一般的である。

 
 だから,もしこれから教師になろうとする人が,「教師としての使命感」とは何かを求められたら,

 少なくとも2階建て以上の構造をもっていることに言及すべきだろう。

 年月を重ねていき,それが3階建て,5階建て・・・と,高層化していくイメージを

 教師のキャリアアップと重ねていくことが大切である。

 
 やはり,自分から「使命感があります」というのは変なことだいう印象しかない。

 教師として生きていきながら,「あるべき姿」を念頭においた自己反省を繰り返すしかないものと思われる。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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