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【再掲~地理の存在意義をたしかめるために】 フィールドワークの教育効果

 以下の記事は,7年前に書いたものですが,社会科や「地理」の存在意義をたしかめる意味でも,重要な内容だと思われましたので,ここに再掲させていただきます。

>フィールドワーク 社会科 意義

 という検索語で当ブログを訪問していただいた方,ありがとうございました。

 中学校の社会科の地理的分野では,「身近な地域の調査」を実施することが学習指導要領で求められていますが,多くの学校では実施されていないようです。

 私の勤務校では,カリキュラムの関係で,1年生の5月に実施しています。教育実習生が指導にあたり,調査地域では,毎年多くのボランティアの人たちに協力していただいています。

 「できない」のではなく,「やる気がない」と思われても仕方がないのが「身近な地域の調査」「フィールドワーク」です。

 ぜひ,教師は実践することで,子どもは自分が体験することで,「フィールドワーク」の素晴らしさを実感してほしいと強く願っています。


**********************


 「知の技法(東京大学教養学部「基礎演習」テキスト)」(東京大学出版会)第Ⅱ部「認識の技術」の最初の項目でこのフィールドワークが紹介されています(執筆担当:中村雄祐)。

 冒頭で,フィールドワークの魅力について,以下のように語られています。
 

 何気ないささやかな差異の認識から出発して,それが,最終的には,世界史的な文脈を問うことにつながり,さらには,研究主体の文化的立場そのものすら揺らいでくるほどの衝撃になる。フィールドワークは,その意味で危険な,驚くべき出会いの場なのです。


 フィールドワークを特に重要な研究手法としている学問には,たとえば文化人類学があります。

 文化人類学という学問の世界では,たとえば研究対象としている地域に比較的長期間滞在し,衣食住をはじめとした様々な生活の様子,地域の文化などを調査することになります。
 そういう意味では,マラソンのように,「知の筋力」だけではなく,「知の持久力」も求められるのがフィールドワークです。

 フィールドワークは,図書館などでの調査と異なって,たとえば自然条件や政治状況の変化などによって,ときとして思い通りに調査を進められない事態に陥ることが予想されます。
 そのような場合に臨機応変に対応できる力も求められるのがフィールドワークという手法の特質です。 

 フィールドワークによって意義のある研究成果を生み出すために,以下のような専門の研究者の言葉も胸にとどめておく必要があるでしょう。
 

実際に,(フィールドワークで)驚くためにはある程度の知識,経験も必要です。最初のうちは「なんか妙だな?」とちょっと引っかかる程度のことだったのが,いつのまにか恐ろしく手強い問題に化けていたり,ということもあります。そうなると,問題自体,もはやフィールドワークの枠内で論じ切れるものでもなくなり,フィールドワークが終わった後も研究者にずっとついてまわることになるのです。


 全くの無の状態からフィールドワークを始めることはまずありません。

 学校教育での「座学」の意義がよくわかる話でもあります。

 そして,「基礎」と「基本」の違いを説明できるエピソードにもなります。

 フィールドワークという研究方法は,学問(学者)の世界だけではなく,小学校や中学校という教育現場での実践でも,非常に高い学習効果が期待できるものです。
 
 地図をもって知らないまちを歩く

 その準備として,まちの情報をのせた資料や,そのまちの地図から読み取ることができる情報をあらかじめインプットし,フィールドワークを実施する目的・問題意識をしっかりもつ。

 このときに,そのまちの特殊性や課題を資料や地図から読み取れる技能がなければ,そもそもフィールドワークが「行き当たりばったり」のものになり,可能性としてはかなり低い「現場で課題に気付く」ことにかけるしかなくなってしまいます。

 ただ地図をもって歩くことが「フィールドワーク」ではありません。

 「基礎学力」には,地図から情報を読み取ること,地図を使って目的地にたどりつけることなどの学習技能が含まれます。

 基礎がなければフィールドワークの「基本」的な学習が成立しません。

 学問一般にもあてはまる問題構成の主要な要素としては,

1 「問い」があること。

2 研究対象がはっきりしていること。
   ここでは,地域的特色,別の言葉で言えば特異な固有性をもつ対象と,「問い」の一般性がどう結び付けられるかどうかが研究の成否をかぎを握っています。

3 関連対象を選択すること。
   どのような文脈の中で,研究対象を扱うか,特異な固有性を際立たせるために,あるいは,一般性も発見していくために,対象をさまざまなものと関連させていくことが求められます。

4 問題意識を反映した方法論をもつこと。
   研究成果を形にするときに,ただの主観的な記述ではなく,一般化が可能な方向に開いていく方法が,「知の行為」の基本となります。そのためにも,「自らを知る」ことも大切な作業です。

5 双方向的な「出会い」を意識する「主体」を確立すること。

 フィールドワークによる筋力強化を図っていく上で,このような様々なメニューを想定していくことで,「フィールドワークのためのフィールドワーク」「研究のための研究」に陥らずにすみます。

 そして,その手法は学校教育でフィールドワークを実施するときも同じです。

 フィールドワークは,研究の手法としてだけでなく,教育現場でそれを活用すると,その他の教育的な目的を果たすための手段にもなります

 たとえば,グループで調査するとき。

 聞き取り調査を特定の地域の住民等に対して行うとき。

 その二つを想定しただけでも,「教育的な目的」が何かは明らかです。

 私が実感しているフィールドワークの魅力には,「想定外の発見」が多いということもあります。具体的には別の機会でご紹介したいと思います。

 教師にとってのフィールドワークは,子どもに対する学習指導という側面ではなく,「教育とは何か」を教師として問う上で,つまり,自らの教養や教育への使命感を高めていく上での効果も期待できます。

 私の場合は,行政の立場で多くの学校を訪問できたことは,まさに学校という場での「フィールドワークの機会」をたくさん得たことにもなり,勉強になりました。

 教育現場を主なフィールドにしている教師ですが,実は自分がかかわっている現場と,同じ校種の学校ですら,実際に入ってみると全然「同じよう」ではないことに気付きます。

 ましてや異なる校種では,ほとんど「異文化体験」に近い感覚を味わうことすらあるのです。

 異なる校種における授業の実態をふまえた児童・生徒理解というものは,免許更新講習でも大きなテーマにしてもらいたいくらいです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より