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信長を呼び捨てにする秀吉と,「校長」と呼び捨てにする教員の共通点

 社会科の教師たちに,社会で起こっていることを教えさせることは危険である・・・・

 昔はそういう意識をもっている人たちが多かった。

 教育はバランス感覚が大切である。

 あまり政府が右へ右へと動けば,その分だけ他が

 左に重心を移すような動きを示さなければならない。

 ただ本人自身の完全なるスタンスのみで動く教育も多かった。


 朝日新聞にその実践が掲載されたある教員は,

 アメリカ人と日本人との間に生まれた子どもをいじめ抜き,裁判にもなった。

 学校現場が政治活動の場になってしまうことを防ぐ決定的な手立てはない。

 多くは「事故」が起こってから,「事故」として調査が入り,公になる。

 
 小学校6年生のときに社会科で調べ学習を行う「豊臣秀吉」について,

 新しい史料が見つかった。

 元の主君を呼び捨てにする「秀吉」の気持ちはどんなだったのだろうか。

 それを考えさせる授業も登場するかもしれない。

  
 ただ,教員の側にとって,都合の悪い問題も出てくる。
 
 学校外の人間に対しては「校長」でよいのだが,

 校内の児童生徒がいる前でも「校長」という呼び方をしている教員がいる。

 一般的な教師は,児童生徒と同じように「校長先生」と呼んでいる。

 
 役職名だから名前の呼び捨てとは違うわけだが,

 子どもというのは名前の呼び方によって,その人が相手をどのように思っているかを鋭敏に感じ取る能力を持っている。

 社会科の授業で得た知見が,そのまま学校という社会のなかで起こっていることに生かされてしまうという現象が発生する。

 学校が「望ましくない社会」の縮図となる。

 教師が学校現場で「それなり」でいるためには,「権威」をまとっている必要がある。

 「えこひいき」「指導やその姿勢の不統一」「子どもが納得しない評価」を見せた瞬間に,その「権威」は崩壊する。

 ただ,「権威をまとう」ような行為も信用を損なうものである。


 教師と子どもの関係というのは,とてもデリケートなものだと知っておけば,防げるトラブルが多くなる。

 自分の言葉遣いが自分ばかりではなく,教員集団の首を絞めていることに気づけない人は減ってもらいたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より