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2016年1月

共感したい相手にだけ共感する人間は,共感能力が高い人間とは言いません

 自分が可哀想だと感じる相手にだけ,本気で心配している気になっているだけで,

 「共感したくない相手」との交流を避ける人間がいます。

 面接ではこういう人間を見破る方法があるので,熟練の面接官はだませません。

 特に,自分から「共感能力が高い」と言っている人間ほど胡散臭い人はいない。

 教育の世界は,この類の胡散臭さで充満しています。

 何でもかんでも成果が求められるも,論文の数でしか成果が出せない世界では,どうしてもうわべの化粧に凝る傾向が強くなります。

 ある大学の先生が自分の所属している学部の紹介で,「日本一」という言葉を何度も使っているのをたまたま見かけましたが,二重の意味で愚かなPRです。


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自分のブログには価値がないと表明する必要はない

 多くの読者を集めている他人のブログの欠点を指摘するとき,その根拠となる具体的なデータをしっかりと挙げているわけでもなく,ただ感情的にこきおろしているだけのブログは「屑」にすぎないのだが,そういうブログを記すことで精神的な安定を保ち,実社会に迷惑をかけない生活が送れるのであれば,社会全体にとっては利益に結びついていると解釈することもできる。

 生活保護を受けている人からパチンコで遊ぶ権利を奪うことに賛成の人が多いようだが,反対する人が主張するさまざまな理由の中に,同じようなものがある。

 教育に関する主張は,百花繚乱で,見識の高さがうかがえる文章から何の意義も見いだせなかったり,感情のまま書かれていると思われるものの中に本質的な良さが垣間見えたりし,どちらかというと権威がある方がうさんくさいという安全なスタンスが確保されているように思える今の日本はまだ健全な国だと思えてくる。

 教育の場合は権威に対して隷従的になっている一部の教員がいたり,担任教師に「人質にとられている」という意識で何の批判もできない保護者がいたりと,現場では危ない面がいくらでも見えてくるが,社会全体としてはまだ健康体に近いと思われる。

 どこで読んだか忘れてしまったのだが,出版の中でも雑誌の売れ行きが伸び悩んでいることに対して,かつてある雑誌の編集者だった人が語っていたことが印象に残っている。

 昔は,とにかく面白いと思ったことを記事にしていた。

 それで売れていた。

 今は,会議をして,「この企画はだめだ」といってつぶされるものがある。

 そもそも雑誌なんて,会議をしてその内容を決めるものなのか。

 実は,本当に読者が読みたいと思われるものは,今でも売れ続けている。

 読者のターゲットをしぼって,そのニーズに合った・・・なんてやり方をすること自体が,実は読者離れを引き起こしているのではないか・・・。

 だから,何か言葉で表現したい人は,本当に自分が語りたいことを自分の言葉で書けばよいのだということ。

 相手の主張の根拠はなんだと読まれてもいない自分のブログで語っても意味はない。

 自分から反証を探してくるとか,自分の足で稼ぐ努力をするべきである。

 ただ妄想だ妄想だと叫んでいるだけでは,自分自身のブログが,価値がないと自分が主張している通りのブログになってしまう。

 価値があるかないかを決めるのは読者なのだ。

 価値がないと思えば,読むのをやめればよい。

 人生の残された時間を無駄にすべきではない。

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努力の結果が報われない学校の評価システム

 学校における「評価」は,何のためにあるのか。

 小学校の場合は,受験とは基本的にかかわりがないため,評定の「1,2,3」に一喜一憂する子どもや保護者はそれほど多くないだろう。

 これが中学校になると,高校受験に直結する「内申点」の基礎になるので,「1,2,3,4,5」のどれになるかが合格の成否を決める材料となる。

 今晩のTVのある番組では,小学校の評価に関する説明がフリップをつかってなされていた。

 4観点の説明はでてこないだろうと思っていたが,案の定,実際に行われているはずもない,

 提出物や作品,発言などを点数化したものを,集計し,あとは自動的にA,B,Cに変換されるソフトを使っていると現役の小学校教師が語っていた。

 評定に結びつける前の段階の,観点別学習状況の評価がA,B,Cでつけられるのだが,学期末等で総括するときは,データの単純な足し算でなされるべきものではないことは,周知されているはずのものである。

 わかりやすい例を示すと,かけ算の単元で,ある児童は当初全くできなかったが,単元の学習が終えるころにはしっかりマスターできていたとする。

 5回のテストで,0点,0点,10点,40点,100点という結果だった。

 もし「平均点」で評価がつけられるとすると,「30点」の扱いとなる。

 5回のテストで,40点,50点,50点,50点,60点という結果だった生徒より,「20点も低い子ども」という評価の出され方になる。

 A,B,Cで示す観点別学習状況の評価というのは,そもそも「学習状況の評価」とよばれるように,形成的評価・・・つまり,現在の時点で子どもの学習にどのような課題があるかを教師が把握し,指導の改善に生かすためのものである。

 たとえば,「学習内容に興味,関心がもてていない状況」は,ほとんどが教師の指導力で左右される。

 単元が終わるまで,意欲が見えなかった子どもは,「C」という評価が出されるのだが,これでは「教育活動が行われた」とはよべないわけである。

 学習の成果として,結果的に100点がとれた子どもでもCがつき,ほとんど向上が見られなかった子どもにBがついたら,そもそも学校は何のためにあるかわからなくなってしまう。

 テレビで放映されるにもかかわらず,チェックが入らずあのような状況になっていることは,いかに日本の教育界の「評価」に対する認識が甘いかがはっきりしている証明にもなった。

 学校が説明責任を果たそうとしたときに,もしその根拠となるものが間違っていた場合,どういうことになるか,想像するだけでおそろしい。

 そのために入試で不合格になったことが証明されてしまうおそれがあるからである。

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「考える力」を問う大学入試新テストの傾向と対策

 ただ記述式にしただけで,「考える力」を問う良問になるというわけではない。

 全国の公立高校の入試問題をご覧になっていただきたい。

 記述式問題には,単語で答えるもの,10字程度で答えるもの,2~3行で答えるものなどがある。

 これらの多くは,「覚えていればできるもの」と「覚えていなくてもできるもの」に大別でき,「本当に考える力を問うていると言えるもの」はごくごくわずかである。

 与えられた資料を見れば,おそらく中学校で一度も授業を受けたことがない小学生でも解けそうな問題もたくさんある。

 「考える力」を問うとは言っても,答えがAパターン,Bパターン,Cパターンのいずれかが正解,という問題は出題しにくく,おそらく基本的な「正解」があって,そこと何が違っていればどれだけ減点するとか,あるいは小さいパーツごとに細かく点数をつけて重ねていく,という採点方法となるだろう。

 「ふたを開けてみたら,こんなテスト,やるだけ時間と労力のムダだった」と言われないように,作問には細心の注意が払われることになるだろうが,制度設計者が最も困るのは,記述式問題の得点と,その後のマークシートの問題の得点の相関がきちんと出てしまうことだろう。2種類行う意味がなくなってしまう。

 あるいは,記述式問題はさっぱりだが,マークシートの問題が非常によくできた,という受験生が出てくるのも都合が悪かろう。

 「そんな学力ではダメだ」というのがテストの仕組みを変えるそもそもの理由なのだから。

 さらに言えば,記述式問題がとてもよくできるのに,マークシートのできが悪い学生というのはどう評価されるのだろうか。

 得点の配分にも工夫が必要になるだろう。

 新テストが始まると,問題の難易度も,前年の結果を受けて,次年度以降は調整されていくに違いない。

 大学は,どのような学力のタイプの学生を合格させるのか,頭を悩ませるところもでてくるだろう。

 小学生の子どもをもつ親としても,中学校1年生の担任をしている教師としても,先行きは不安である。


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原理・原則・法則にしがみつくと,すぐに思考停止に陥ることになる

 「複雑系」・・・そんな言葉が広く認知されるはるか以前より,

 社会で起こっていること,教育に関することは,複雑きわまりない。

 人間が単純な生き物ではないというのがわかりやすい理由かもしれないが,そもそも人間に限らずありとあらゆるものは「複雑」だからこそ存続できていると言えるのだろう。

 だが,「単純化」しないと「存在権」が認められない世界というものがある。

 「単純化」しないと成功させられないという信仰がある。

 こういう世界の価値観に染まった人に教師が影響を受けると,ろくなことはない。

 最も危険なのは,「うまくいく」「うまくいった」気になりやすい小学校の先生たちである。

 ベテランの中には,「あの人は勘に頼った教育をしている」と批判される人もいるだろう。

 しかし,「ベテランの勘」が子どもの窮地を救うという場面はいくらでもあったはずだ。

 「こうすればうまくいく」という思い込みが,子どもを窮地に陥れてしまったことに,気づけないままでいる教師が増えないことを祈る。

 学校現場では,時間はかかるのだが,さまざまな思考,感性,それに基づく実践の「組み合わせ」を工夫し続けるべきである。

 「本当の答え」は,永久にでない。

 「答え」を求め続けるという姿勢こそが,今,学校現場に必要なものである。


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『学び合い』のねらいは全員対象のピグマリオン効果か?

 教員だったら知らない人がいないのが「ピグマリオン効果」。

 1964年にハーバード大学の学者が行った「実験」が有名である。

 ニセのテストを行って,実際には得点に関係なく「これから伸びる生徒」を20%だけ選び,先生たちに知らせた。

 結果は,ハーバード大学の学者の言うとおりになった・・・・という理由が,「ピグマリオン効果」として実証されてしまったわけである。

 この実験では,対象の生徒が20%だけだったこと。

 そして,おそらくは,先生方が「この生徒も伸びるんだ・・・」と思えるような意外性のあるものだった(無作為抽出なら当たり前)こと。

 最大の理由は,ハーバードという「看板」=権威があったことだと私は思うが・・・・。

 

 「ピグマリオン効果」は,現実の学校ではどのように作用しているのだろうか。

 私が荒れた学校に赴任したとき,教育委員会をはじめ,多くの教師たちが

 「あそこだけはダメだ」という声を発していたことを覚えている。

 教師としての使命感は,そんな「外野の声」を無視するはずだが,内部からも同じような声ばかりが聞かれた。

 最悪なのは,「親もダメだから」。

 
 天の邪鬼の性格だった私は,「どの子にも希望がある」という信念というか「反抗心」を強烈にもって,

 『希望の星』というタイトルの学年だよりを毎日発行していった。

 その効果は絶大であった。「この子どもたちに期待をかけてくれる先生がいる」という印象だけで,保護者の方々が学校に目と心を向けてくれるようになった。

 早い話,子どもをダメにしているのは教員の意識だったということである。

 「逆ピグマリオン効果」と表現すればよいのだろうか。


 「どうせだめだろう」という意識は,子どもたちに必ず伝わっていたはずである。

 そこへ,「もっとできるはずだ」という感覚をもっている教師が新しく赴任してきた。

 
 当初は,「どうせ最初のうちだけだろう」と,むしろ子どもも「ダメな面」を集中的に見せ始めたようだったが,先に「根負け」したのは子どもの方だった。

 私に「どうせだめだろう」と思わせることに,失敗したというか絶望した子どもたちが,

 「自然体」で行動し始めた。

 偉そうなやつは,「教師の期待にこたえようとした」なんて言うかもしれないが,

 そんなに教育は甘いものではない。

 
 「大人に機嫌をとっても意味はない」ことをよく知っているという点で,この子どもたちは果てしない成長の原動力を失わないでくれていたのだ。

 「評価のために見た目的に良さそうな行動をとる」習慣がない子どもというのは素晴らしい。

 
 「普通」に授業を受け始めると,当たり前だが学力は向上し出す。

 今まで『学び合い』のような教室環境に慣れていた子どもたちが,

 普通の授業の素晴らしさに気づき始めた。


 『学び合い』がねらっているものは,私の想像では,

 ピグマリオン効果をすべての子どもを対象に引き起こさせようとする取組みのように感じられる。

 
 しかし,現実の学校現場でそれは無理というものだ。

 臨床ナントカ学とか言って,子どもを動物実験の道具のように扱っている人間たちには,

 ベッドの上ではわからないことへの想像力をもつべきだと言いたい。


 「成長を信じなければいけない」という意識と,

 「本当に成長を信じる」意識との間には,埋めようのない差がある。


 そして,それを埋めるための手段が『学び合い』にあるとは思えない。

 「見た目」にこだわる臨床ナントカのセンセイ方には,本物の医師の臨床技能の奥の深さを知っておいていただきたい。

 安易な動機で臨む『学び合い』はむしろ,全く逆の効果を示し出すはずである。

 自らの責任を放棄し出す教師が増えるに違いない。

 そういう危機感を抱いているから,「右へならえ」を自粛しているのだろう。


 ハーバードの実験も,20%という絶妙の数字で示したところに意味がある。

 教師が学校現場で追究すべきなのは,

 「それぞれの子どもに最適な成長の条件を探る」ことである。

 「丸投げ」のどこが教育なのか。

 
 それを探っている教師の行動自体が,子どもたちへの重要な教育の一つの要素となっているのだ。


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自分の身を守るための武器の携帯を許すことは,一人で多くの人間を殺害できる条件を与えることと同じ

 銃撃事件によって一般市民が犠牲になる可能性が高い国を挙げてみるとどうなるだろうか。

 なぜそれらの国では銃撃事件が起こりやすいのだろう。

 そのような条件ができてしまったのは,どんな歴史的経緯からだろうか。

 アメリカの場合は,南北戦争の時代にさかのぼってしまったりする。


 冒頭の問いは,一応,社会科の「学習課題」として成立はする。

 アクティブ・ラーニングを実践にうつそうとすると,小学校でもこのような「学習課題」はいくらでもつくれる。

 教室に新聞をおいておけば,毎日どれくらいの数の「学習課題」ができるだろうか。

 子どもが主体的に学ぶ環境を整えると,

 カリキュラムにしたがった授業など受けている暇はない。

 世の中ではありとあらゆる問題が毎日発生している。

 残念ながら教師は,「そういうことには目をつぶれ。今は,日本の自動車工業の話をしている」と言わなければならない。

 学校は子どもが本当に「主体的に学ぶ」場であるべきかどうか,本気で議論する必要はなかろう。

 学校に来なくても,「主体的に学ぶ」ことはいくらでもできるのである。

 何の話かわからなくなってしまった。

 タイトルをつけて書こうとした内容は,

 「世の中の安全・安心」を生み出す方法に対する日本とアメリカ・カナダなどとの考え方の違いを子どもにどう認識させるか,という課題についての考察だった。

 日本でもし,小学生が「私は日本でも銃所持を認める法律をつくるべきだ」と主張する子どもが出てきたら,どうするのだろうか,と考えている。

 教師から,子どもから,どんな評価が下されるのだろうか。

 圧倒的多数をしめるはずの反対派から集中砲火を浴びせさせるのか。

 教師が「訓戒」を行うのか。

 「道徳科」の先生にぜひお伺いしてみたい。


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信長を呼び捨てにする秀吉と,「校長」と呼び捨てにする教員の共通点

 社会科の教師たちに,社会で起こっていることを教えさせることは危険である・・・・

 昔はそういう意識をもっている人たちが多かった。

 教育はバランス感覚が大切である。

 あまり政府が右へ右へと動けば,その分だけ他が

 左に重心を移すような動きを示さなければならない。

 ただ本人自身の完全なるスタンスのみで動く教育も多かった。


 朝日新聞にその実践が掲載されたある教員は,

 アメリカ人と日本人との間に生まれた子どもをいじめ抜き,裁判にもなった。

 学校現場が政治活動の場になってしまうことを防ぐ決定的な手立てはない。

 多くは「事故」が起こってから,「事故」として調査が入り,公になる。

 
 小学校6年生のときに社会科で調べ学習を行う「豊臣秀吉」について,

 新しい史料が見つかった。

 元の主君を呼び捨てにする「秀吉」の気持ちはどんなだったのだろうか。

 それを考えさせる授業も登場するかもしれない。

  
 ただ,教員の側にとって,都合の悪い問題も出てくる。
 
 学校外の人間に対しては「校長」でよいのだが,

 校内の児童生徒がいる前でも「校長」という呼び方をしている教員がいる。

 一般的な教師は,児童生徒と同じように「校長先生」と呼んでいる。

 
 役職名だから名前の呼び捨てとは違うわけだが,

 子どもというのは名前の呼び方によって,その人が相手をどのように思っているかを鋭敏に感じ取る能力を持っている。

 社会科の授業で得た知見が,そのまま学校という社会のなかで起こっていることに生かされてしまうという現象が発生する。

 学校が「望ましくない社会」の縮図となる。

 教師が学校現場で「それなり」でいるためには,「権威」をまとっている必要がある。

 「えこひいき」「指導やその姿勢の不統一」「子どもが納得しない評価」を見せた瞬間に,その「権威」は崩壊する。

 ただ,「権威をまとう」ような行為も信用を損なうものである。


 教師と子どもの関係というのは,とてもデリケートなものだと知っておけば,防げるトラブルが多くなる。

 自分の言葉遣いが自分ばかりではなく,教員集団の首を絞めていることに気づけない人は減ってもらいたい。


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「コの字」型の座席配置の問題点

 「コの字型 座席」で検索すると,私のブログの記事が先頭に来てしまうので,訪問された方は問題点を指摘した内容を読まされてしまう結果になるのだが,「よいことばかりではない」のは世の常,ということでご勘弁を願いたい。

 コの字型の座席は,どうやら高校でも導入しているところがあるようだ。

 その成果が,「寝る生徒が減った」というのだから,情けない。

 私は「生徒が生徒を監視できるシステム」には違和感の方が強い。

 「学び合いができる」なんていう表向きの理由ではなく,
 
 「お互いに監視し合える」なんていうホンネを陰で語っている教師がいることがいたたまれない。

 そして,「痛々しい思いをしている子ども」がいることを,検索トップの記事で書いていた。

 
 コの字型座席の問題点は,「学びの共同体」を研究させられている学校からの報告でも知ることができる。

******************************

 ・単元の導入で新しい用語など基本的なことを教える段階では,やりにくい。

 ・抽象的な内容が多い場合は不向きである。
 
 ・説明のときは,座席を前に向けて一斉授業形態とするほうがよい。

 ・コの字型では授業に集中しないことが多い。
 
 ・「学びの共同体」用の教材準備の時間が確保できない。

 ・生徒が自分で考えないで,人に聞けばいいという態度になることがある(友人からの「教えて教えて攻撃」に保護者からも意見)。

 ・個人でじっくり考えて解くことも必要。

 ・自分自身と向き合う学習をさせたいときは適さない。

 ・話し合いに参加しようとしない生徒の指導が問題である(グループへの参加が苦手な生徒も)。

 ・話し合うことで満足してしまうケースがある。

 ・その教科の得意な生徒とグループになりたがる。

 ・生徒に落ち着きがなくなっている。

*****************************
     (東大附属の報告より)ℂ東京大学学校教育高度化センター

 とても貴重な内容である。

 どうやら授業者の力量でどうにでもなる問題も多々含まれているようだが,

 『学び合い』を進めている人たちにとっても参考になることが多いのではないか。

 
 大学の先生というのは,ご専門が「授業論」だったり「社会科教育」だったりすると,

 授業の場での動きがどうこうというのが研究対象となる。

 しかし,学校現場というのは,「授業の場」以外の子どもの関係が非常に重要なところで,「ヒドゥンカリキュラム」と言えば通じる話である。

 「学びの共同体」を教科の授業として語るのも大切な仕事だと思うが,

 別に教科の学習ではなくても,「学びの共同体」を形成することはいくらでも可能である。

 むしろ,教科の時間くらいはじっくりと考えられる環境をつくってほしいと願う子どももいるだろう。


 「大人と向き合えない子ども」が増えている。

 「大人との会話」が成立しない小学校7年生も増えている。

 教員も児童のお友達の中の1人にすぎず,あだ名で呼び合っているような関係で満足している小学校教師は,一度どこかの企業で研修を受けてほしい。

 矯正が必要である。
 
 将来,「一人で本を読むこともできない」人間をつくり出してしまうような授業形態は考えものである。

 
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SMAP騒動から「奴隷とは何か」を考え,『学び合い』を検証する

 私は芸能界の内情を知る人間ではない。

 週刊誌やネットの記事を本気で信用している人間でもない。

 ただ,芸能人の姿の一端を垣間見ることはあった。

 父親がある理由で多くの芸能人と交流をもっていたが,どの方も自分の人生を本気で生きている人たちばかりだという印象をもっていたようだ。だからこそ,本気でサポートするための仕事を請け負っていた。

 今回のSMAPによる「生放送謝罪」は,「謝り方の基本」を教えてくれたという点で,

 教育の世界にはそれなりの効果があったが,いくら謝罪とは言っても

 「暗すぎる」その容姿や話し声から,様々な憶測を呼ぶものとなってしまっている。


 SMAPも,やはり普通の「芸能人」であった,・・・それは,「事務所を敵にまわすととんでもないことになる」ことを素人にも思い知らされることになったが,今回,最も印象的だったのは,

 「奴隷制」との共通点を述べていた人のコラムだった。

 「なぜ奴隷は逃げないか」という疑問への答えが,今回の騒動と重なってくる。


 詳細は述べないが,私がその後すぐに想像したのは,

 「主体性を育てる」などといううたい文句を踊らせながら,実は強力に子どもの主体性を奪っていると考えられる教育現場の実践である。

 職場が「奴隷」を育てているという面もあるかもしれないが,

 学校教育で,「奴隷」になりやすい人間を育てている可能性はないか。

 もっともっと教師は自分の実践の「闇の部分」に目を向けていくべきかもしれない。

 「光」に向かって歩かせているつもりでも,実は「真っ暗闇」に向かって進んでいるのを放置しているだけかもしれない,という「不安感」を捨て去ってはならない。

 
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「熱い」厳しさと「冷たい」厳しさ

 よく指導に「熱意が感じられる」「熱がある」「熱が入る」という言い方がされるが,

 指導している側ではなくて,されている側がどう感じているかが大事であることは言うまでもない。

 錦織選手がコーチの厳しい指導への感想を述べた内容の記事が紹介されていたが,

 「教えられる」人と「教える」人の関係は,そう単純なものではないことはよくわかる。

 プロの選手とプロのコーチとの間でも,感情の行き違いが起こることもあるのだろう。

 ただ,選手がコーチに敬意を払う心の持ち方というのは,絶対的に重要だと言うことはわかる。

 とは言え,それが当然のことだとふんぞりかえる人はどうかしているとしか思えない。

 
 学校に通う子どもと教師との関係は,基本的に教師の側に都合のよいように推移する場合が多い。

 子どもから教師をクビにすることはできないからである。

 さらに,子どもは教師によって評価される立場である。

 そういう環境に長くいると,人間としての感性が麻痺してくるようだ。

 
 教師はそのことをよくよく留意しておくべきだろう。

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私たちは,褒められたり叱られたりするから伸びるのではない!

 親や教師は,子どもをどうやって伸ばそうか,と考える。

 褒めて育てるのがよいのか,

 厳しく叱りながら育てるのがよいのか。

 どちらの方が,子どもが伸びるのか。


 私が授業を受け持っているクラスの中学生に聞いてみた。

 「あなたたちは,自分は褒められた方が成長しやすい人だと思うか,

  厳しくされた方がいい人だと思うか?」

 少し意外な反応が多く返ってきた。


 「どちらでもない」という答え。

 滅多に子どもを褒めない私が,

 それはそうだ,と思わず褒めてしまう結果となった。

 自分の成長は,自分自身がコントロールすべきものである。

 
 褒められるからいいことをする人間になるとか,

 叱られるから勉強をするとか,そういうことではない,

 という意識をもっていることが正解だろうと。


 そういう子どもから見ると,「自分が成長させてやろう」なんていう

 気持ちをもって,やたらと褒めてくる大人は,

 「いかがわしいもの」に見えてしまうのかもしれない。

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「部活」でしか教育を語れない人

 「部活」でしか教育を語れない中学校教師はたくさんいます。

 情けない気もしますが,それくらい「部活」は教師と生徒にとって深い信頼関係の絆ができる場であるとも言えます。

 「部活」をしに学校に来ているという生徒はたくさんいるし,そういう教師も少数派ではありますがいることは確かです。

 「部活」の存在の大きさは,良い意味でも悪い意味でも,よく知られているところでしょう。

 とにかく「経験」のある人が圧倒的多数なのですから。

 道徳的実践力を高めるために役に立っているのは,

 「道徳」ではなく「部活動」だ・・・多くの人たちが実感できる話だと思います。

 ところが,今,学校には部活動やサークル活動に参加せず,勉強ばかりしていた経験をもつ人たちの教員採用が増えているようで,現場はたいへん困っています。

 部活の指導ができない教師には生活指導もつとまらない,という経験則が,そのうち,

 部活の指導をしない教師が管理職になっていく,という経験則に変わっていく時代が来るかもしれません。

 子ども時代に部活動でがんばってきた人たちが,自分が教師になってから手のひらを返すように

 「部活は教師の仕事じゃない」なんて言えるわけもなく,

 堂々と「正論」を吐ける人というのは,やはり学校で「お勉強」だけをしてきた「塾型人間」たちなのでしょう。

 採用試験には,やはり「塾」に通っていた方が合格しやすいということで,

 日本はどこまでも「教育」は「塾」がめんどうをみる国になっているようです。

 運動部とかサークル活動に精を出していた人たちは,皆さん企業に就職されていく。

 学校現場としては,本当にピンチ。

 昔は若いだけで期待されるのが当然だったのに,今では若くて部活の指導ができない人が増える恐怖に現場はおびえています。

 授業だけしていればすむ小学校や高校と,決定的に違う中学校。

 1日18時間以上働くことさえ苦にしないような中学校現場の教師でこんなブログをかいている暇人は私くらいなものかもしれませんから,

 本当の教育現場の声は社会には届きにくいのかもしれませんが・・・。

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芸能人の「独立」問題

 ある5人組の人気チームのメンバーが,事務所を離れて独立したいと言い出した。

 あなたは誘いに乗って独立する道を選ぶか,事務所に残ることを選ぶか。

 道徳のアクティブ・ラーニングの課題例である。

 調査すべき項目がたくさん挙げられる。

 給料はどうなるのか。

 仕事の量は増えるのか,減るのか。

 事務所からの嫌がらせはないのか。

 メンバーが解散しても,人気は続くかどうか。

 などなど。

 どのような「道徳的価値」に子どもは気づくだろう。

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廃棄されるはずの食品が不正に転売されていた問題について

 日本では,毎日どのくらいの量の食品が廃棄されているのだろう。

 生ゴミになったり,ディスポーザーで処理されたりしている食品の量まで把握することはできない。

 以前に期限切れ間近の弁当の割引販売をした店に圧力をかけた会社がニュースで話題になったが,

 今度は廃棄されるはずの食品が転売されていたという話である。

 世の中には,こういう「不正」をはたらく大人がいる。

 「金儲け」のために「嘘」をついて「利益」をせしめる大人がいる。

 これが社会の現実である。

 ただ,このような話題が「道徳の教科書」に掲載されることはないだろう。

 「道徳の検定教科書」がつくられ,教育現場では,結果的にその教材にしばられることになるという道筋ができてしまっている。

 社会で起こっている出来事はその背景や原因がけっして単純ではなく,結果や影響もさまざまなかたちで現われくる。

 もし,「道徳でアクティブ・ラーニングを」と本気で考えたいのであれば,

 ニュースが出たらタイムリーにその話題をとりいれ,生徒が頭をフルに回転して考えられるような授業を提供してあげることも,教師のつとめであるはずなのだが。

 そうすれば,たとえば新聞の投書欄への投稿を全校で進めるとか,学校をあげてのキャンペーンをやるとか,子どもの自治的な活動が増えてくるかもしれないのに。

 今回のニュースに関しては,「3万3000枚のビーフカツ」は,ゴミになってはずだ,という観点から,

 「それを廃棄せずにすませる方法はないのか」という追究課題が導き出せる。

 もちろん,「20社以上がかかわっていた,廃棄されるはずの食品を扱う業者とは,いったいどういうものか」という疑問もあるだろうし,「食の安全は何で保証されるのか」という心配も出てくるだろう。

 「持続可能な社会」とは,現実的にはこうやって「不正でも廃棄されるものを利用することが重要なのではないか」なんていう仮説も登場してしまうかもしれない。

 アクティブ・ラーニングを学校の教師たちがしたがらないのは,

 子どもが社会(問題)の本質に迫ってしまう可能性が高く,自分には扱えないレベルのものになることを怖れているからではないだろうか。

 とりあえず,私は来週の帰りの会で子どもたちに投げかけてみたい。


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インチキを見破る方法

 私が学会誌掲載候補の論文の査読をしたとき,二重投稿しているインチキをすぐに見破った話を以前に紹介したが,この著者は今でも,いくつかの大学で非常勤講師をつとめていらっしゃる。

 最近,この方が出された実践を中心にした本を読ませていただいたが,どうしてもいたるところにインチキがあるように思えて仕方がない。

 大学入試には何の役にも立たない実践が中心なので,受験生が読んでも参考にはならないが,社会科の授業論という話題になると,教師の読者が多いに違いない。
 
 ただ,実践をしているこちら側からすると,あまりにも都合の良すぎる「生徒の発言」がきれいに並びすぎており,どう考えてもでっち上げにしか見えてこない。

 生徒が語ったことにして,自分が言いたいことを書いているとしか思えないほど,生徒の発言とされているものはベテランの社会科教師が説明するレベルに匹敵する内容になっている。

 「インチキを見破る方法」とはおおげさなタイトルだが,こういう実践事例というのは「本当に生徒が言ったのか?」を疑ってかかることが大切である。

 そもそも,論文の数を稼ごうと,ほぼ同じ内容のものを2つの学会に出すようなインチキをするような人間は,どうしても信用する気にはならない。

 それなりに高齢だし,学会から姿を消すのも時間の問題だろうから放っておいてもよいのだが,

 読めば読むほど,似たようなインチキを繰り返す教師が生み出されかねないという余計な気苦労を背負ってしまう。 

 大学というところは,こういう教師でも働けるニーズがあるということである。

 たしかに,中学生や高校生に授業をしたことがない大学教員が,

 現場の教師となったときに必要な能力を学生に身につけさせることができるとは思えない。

 現場教師はこれからもっともっと大学生にとって必要となる時代になるだろう。

 児童生徒学生時代にアクティブ・ラーニングをしてこなかった教員に対して,

 いきなり「アクティブ・ラーニングを増やしていきましょう」といっても困るだろう。

 その根拠になるのが,それらしい本が売れていることにある。

 まだそういう本を買う気になった教師は,少しでもアクティブ・ラーニングの経験がある人かもしれない。

 放送大学の講義を何十年と楽しく視聴していても,アクティブ・ラーニングは一生できないのである。

 アクティブ・ラーニングもどきの実践がある人が,大学で紹介する。

 大学生はおそらく自分たちなりにアレンジして,その世代の感性に合った授業をつくりだしてくれるかもしれない。

 著書は残念ながら,私の世代の人間にとっても「とても古いもの」に感じてしまう。

 型にはまりすぎた討論と,教師にとって都合のよい発言ばかりが並んでいる資料は,現場の授業ではあまり参考にならない。

 ぜひ追試をして,失敗を実感してみてほしい。

 著書ではその失敗への批判に対する予防線を張っているが,著者を責めることはもちろんいけない。

 「つくりものの実践事例が,どれくらい役に立たないか」を知ればそれで十分である。


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「バカ」から「 」を取ると何になる?

 世の中には,本心からだれかのことをバカと呼べる人がいる。

 もちろん,本人は目の前にはない。

 面と向かって言う度胸があるかどうかはわからない。

 家族の会話では,~あんた「バカ」ね~という言葉の登場場面があるだろうが,

 言葉の表記には気を遣いたい言葉である。

 言葉への感性を疑われたくない。

 普通の言葉でも,「  」付きで表現するときには,『学び合い』のように,

 特別な意味があることを示唆することができる。

 バカは「バカ」であってほしい。

 教師が子どもにバカと言う場面はなくしたい。

 ただ,「バカ」と言える環境はなくしたくない。

 教育「バカ」にはこだわりがある。


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「教育実践高度化」?呆れるほど低レベルな話

 大学院というところは,何をするところなのだろう?

 大学4年生の教育実習生がつくるよりはるかに低レベルの指導案をもってきて,

 「これで授業をさせてほしい」とやって来た学生がいたことは以前に述べた。

 何でも「教育実践高度化なんとか」という科研費がついた研究なのだそうだが,

 教育実習のやり直しというより,それ以前のレベルに戻ってしまったような指導案を見て,

 教育実習の時よりはるかに多くの時間を費やして「見直し」を求めることとなった。

 教材がダメ。発問もダメ。ねらいは不明確。目的も定かでない「話し合い」活動。

 「教育実践高度化」が聞いて呆れる。

 大学院の試験の合格率はどこかで発表になっているのだろうか。

 定員割れの学校も多いようだから,そういうデータは発表できないのではないか。

 教育関係で言えば,採用試験に合格できないで,就職浪人はしたくない,でもお金はある,

 という学生が大学院に進むという。

 たった1時間の指導案でも目を覆いたくなるような出来なのに,

 教員としてやっていける能力など微塵も感じられない学生に,何が指導できるというのだろう。

 行き着く先が『学び合い』なのだろうか。

 「教えないですむ」人は,大学でも「教えないですむ」のではないか。

 「認知的距離が近い相手としか教え/教えられることは出来ない」とある先生は書いている。

 なるほど。この点はとてもよく納得できる。


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「バカ」を罵るのが大好きな「バカ」

 世の中には,私のようにブログの記事を夜中に打っているような暇な人間がいる。

 何かをしていないと気が済まないという「貧乏性」に悩まされている私みたいな暇人が多いのかもしれない。

 中学校の生活指導では,「どうしてこんな『バカ』なことをしてくれるんだろう」と,怒りよりも

 ため息をつきたくなる場面が多くなる。

 そして,「どうしてこんな『バカ』なことを・・・」という生徒同士が問題を起こしてくれる。

 繰り返し繰り返し。

 以前の記事で「中毒」と表現したが,

 中学校の教員というのは,こういう「問題」がしばらく起きないと,落ち着かなくなってくる。

 昨日まで私もそうだったが,案の定,「問題」が起こってくれて,ほっとしている(?)。

 こういう生徒に共通してみられる特徴は,

 「自分よりバカだ」と思っている相手を対象にして,「バカにするような態度」をとり,ケンカなどの問題に発展する。

 ケンカを売られた側も,相手のことを「自分よりバカだ」と思っているので,黙っていない。

 なだめる方法は,「バカだと思ったら,相手にするな」・・・・これが,案外と効き目がある。

 効果の持続性には課題があるが。

 「バカ」を罵るのが大好きな「バカ」は,「バカ」を相手にしないと言いながら,

 「バカ」の話ばかりする。

 なぜ自分が書いていることとやっていることの違いに気づかないのだろう。

 心理学者はこう言うのだろう。

 「自分を認めてもらいたくてもらいたくて仕方がない・・・でも,自分に自信がなんだろうね・・・」

 そう。自分に自信がある人間なら,「バカな人を見下す話」なんていう低級の行為に労力を費やすことなどしないはずだ。

 ・・・でも,まだまだ自信がもてないから・・・。 


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従来の学習指導要領でも,「アクティブ・ラーニング」が重視されないことはなかった

 今さら書くまでもないことだが,「言語活動の充実」を改訂の柱の1つにした現行学習指導要領も,従来のそれでも,「アクティブ・ラーニング」が重視されていないということはなかった。

 だから当たり前のことが当たり前に行われるようにすることが,改めて求められているということを行政は強調しなければならない。

 不安を煽るようなタイトルの本を出したり,

 「何か乗り遅れているような気分にさせる」ことで本を買わせようとしたりする人間が増えている。

 大学入試を改革するといっても,

 国立大学の2次試験のようなものを最初から行うような改革が実現不可能であることは,

 国立大学の関係者はもちろん,大学入試の知識がある人間だったらだれでもわかっていたはずである。

 採点の基準がブレてしまう可能性がある問題の方が,「書かせる意味がある」ことを想像することはそれほど困難ではないだろう。

 はっきりとした採点基準ができ,だれが採点してもその基準をしっかり満たすような問題に,

 どれほど書かせる意味があるのか,実証的に示すことも難しくはない。

 結局,「知識がなければわからない」問題に落ち着いてしまえば,知識を問えばすむという話になっていくし,

 「知識がなくてもわかる」問題が増えれば,そもそも勉強する必要もなくなってしまう。

 「たまたま答えられたにすぎない」といった問題を出せば,非難囂々となることは容易に想像がつく。

 作問経験がある人間ならば誰でもわかる話が,

 政策を立案する側にはそういう人間がいなかったわけようだから,混乱するのである。

 受験とは無縁の世界で過ごせる小学校教師には何の関係もないが,

 中学校,高校の先生方は,不安に思うよりもまず,

 定期考査問題を「記述式ばかり」のものに変えていけばよい。

 できれば小学校教師も,業者がつくっている単語で答えればすむようなプリントを使うのをやめて,

 すべてまとまった文章で答えるようなテストを自作していけばよい。

 子どもが上級校に進学して,戸惑うことがなくなる。

 今まで時間割と同じ50分で解かせていたテストは,70分とか90分とか長くしていく。

 今年度最後の学年末考査から変えてみればよい。

 ・・・・反対されるからだめ?

 そう。採点に時間がかかる問題は嫌だ?

 学校はそういうところで,教師とはそういうものだから,学力がつかないのである。

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「バカ」の周りには「バカ」が集まり,「支援を必要とする人」の周りには,「人間」が集まる

 幾度となく,自分の目で見てきた風景があります。

 それば,「バカ」の周りには「バカ」が集まっていくということ。

 「烏合の衆」は,集まってもただギャーギャーと鳴いているだけのバカな鳥という評価が烏に下されていたので,できた言葉だとされています。

 今は,烏は知能の高い鳥として知られていますが。

 「有象無象」「野次馬」なども似たニュアンスの言葉でしょう。

 ただ集まっているだけのように見えるものを,「バカ」なものと見るか,

 そうではない何かを持っているものと見るかで,「見る側の人間性」がわかるというものです。

 教育の世界にいる人間としては,「バカ」という言葉を使うのは非常に大きな抵抗感を覚えます。

 冷静さを欠いているときには出てしまう言葉かもしれませんが,

 少なくとも論理的な文章を書くときには使用しないことばでしょう。

 
 新年の5日にある研究会に参加させていただいたのですが,

 「低学力の生徒」の指導のあり方が話題になりました。

 私は「学力が低い」という言葉ではなく,「これからものすごく伸びる可能性がある」というイメージで向き合うべきと主張しました。

 生徒の立場から見れば,「自分のことを学力が低い生徒という目で見ている先生」より,

 「これから学力が飛躍的に伸びる生徒という目で見ている先生」でいてほしいのは明らかですから。

 問題は「どう伸ばすか」であることには変わりはないのですが,

 「低い」というネガティブな言葉から出発するのではなく,

 「本当の出発点にいる」というイメージを持つことで,授業の構想,構成自体が変わる可能性があるのです。

 
 相手を「バカ」と言ってしまうというのは,その相手からは恨まれる,憎まれる存在になってしまうという

 「バカ」な行為をしてしまうということになります。

 
 そもそも「困っている人」を助ける,「支援を必要とする人」に自立のチャンスがつかめる何かに気づいてもらう,そういう発想がない人間には,教師などつとまらないのです。


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【再掲~地理の存在意義をたしかめるために】 フィールドワークの教育効果

 以下の記事は,7年前に書いたものですが,社会科や「地理」の存在意義をたしかめる意味でも,重要な内容だと思われましたので,ここに再掲させていただきます。

>フィールドワーク 社会科 意義

 という検索語で当ブログを訪問していただいた方,ありがとうございました。

 中学校の社会科の地理的分野では,「身近な地域の調査」を実施することが学習指導要領で求められていますが,多くの学校では実施されていないようです。

 私の勤務校では,カリキュラムの関係で,1年生の5月に実施しています。教育実習生が指導にあたり,調査地域では,毎年多くのボランティアの人たちに協力していただいています。

 「できない」のではなく,「やる気がない」と思われても仕方がないのが「身近な地域の調査」「フィールドワーク」です。

 ぜひ,教師は実践することで,子どもは自分が体験することで,「フィールドワーク」の素晴らしさを実感してほしいと強く願っています。


**********************


 「知の技法(東京大学教養学部「基礎演習」テキスト)」(東京大学出版会)第Ⅱ部「認識の技術」の最初の項目でこのフィールドワークが紹介されています(執筆担当:中村雄祐)。

 冒頭で,フィールドワークの魅力について,以下のように語られています。
 

 何気ないささやかな差異の認識から出発して,それが,最終的には,世界史的な文脈を問うことにつながり,さらには,研究主体の文化的立場そのものすら揺らいでくるほどの衝撃になる。フィールドワークは,その意味で危険な,驚くべき出会いの場なのです。


 フィールドワークを特に重要な研究手法としている学問には,たとえば文化人類学があります。

 文化人類学という学問の世界では,たとえば研究対象としている地域に比較的長期間滞在し,衣食住をはじめとした様々な生活の様子,地域の文化などを調査することになります。
 そういう意味では,マラソンのように,「知の筋力」だけではなく,「知の持久力」も求められるのがフィールドワークです。

 フィールドワークは,図書館などでの調査と異なって,たとえば自然条件や政治状況の変化などによって,ときとして思い通りに調査を進められない事態に陥ることが予想されます。
 そのような場合に臨機応変に対応できる力も求められるのがフィールドワークという手法の特質です。 

 フィールドワークによって意義のある研究成果を生み出すために,以下のような専門の研究者の言葉も胸にとどめておく必要があるでしょう。
 

実際に,(フィールドワークで)驚くためにはある程度の知識,経験も必要です。最初のうちは「なんか妙だな?」とちょっと引っかかる程度のことだったのが,いつのまにか恐ろしく手強い問題に化けていたり,ということもあります。そうなると,問題自体,もはやフィールドワークの枠内で論じ切れるものでもなくなり,フィールドワークが終わった後も研究者にずっとついてまわることになるのです。


 全くの無の状態からフィールドワークを始めることはまずありません。

 学校教育での「座学」の意義がよくわかる話でもあります。

 そして,「基礎」と「基本」の違いを説明できるエピソードにもなります。

 フィールドワークという研究方法は,学問(学者)の世界だけではなく,小学校や中学校という教育現場での実践でも,非常に高い学習効果が期待できるものです。
 
 地図をもって知らないまちを歩く

 その準備として,まちの情報をのせた資料や,そのまちの地図から読み取ることができる情報をあらかじめインプットし,フィールドワークを実施する目的・問題意識をしっかりもつ。

 このときに,そのまちの特殊性や課題を資料や地図から読み取れる技能がなければ,そもそもフィールドワークが「行き当たりばったり」のものになり,可能性としてはかなり低い「現場で課題に気付く」ことにかけるしかなくなってしまいます。

 ただ地図をもって歩くことが「フィールドワーク」ではありません。

 「基礎学力」には,地図から情報を読み取ること,地図を使って目的地にたどりつけることなどの学習技能が含まれます。

 基礎がなければフィールドワークの「基本」的な学習が成立しません。

 学問一般にもあてはまる問題構成の主要な要素としては,

1 「問い」があること。

2 研究対象がはっきりしていること。
   ここでは,地域的特色,別の言葉で言えば特異な固有性をもつ対象と,「問い」の一般性がどう結び付けられるかどうかが研究の成否をかぎを握っています。

3 関連対象を選択すること。
   どのような文脈の中で,研究対象を扱うか,特異な固有性を際立たせるために,あるいは,一般性も発見していくために,対象をさまざまなものと関連させていくことが求められます。

4 問題意識を反映した方法論をもつこと。
   研究成果を形にするときに,ただの主観的な記述ではなく,一般化が可能な方向に開いていく方法が,「知の行為」の基本となります。そのためにも,「自らを知る」ことも大切な作業です。

5 双方向的な「出会い」を意識する「主体」を確立すること。

 フィールドワークによる筋力強化を図っていく上で,このような様々なメニューを想定していくことで,「フィールドワークのためのフィールドワーク」「研究のための研究」に陥らずにすみます。

 そして,その手法は学校教育でフィールドワークを実施するときも同じです。

 フィールドワークは,研究の手法としてだけでなく,教育現場でそれを活用すると,その他の教育的な目的を果たすための手段にもなります

 たとえば,グループで調査するとき。

 聞き取り調査を特定の地域の住民等に対して行うとき。

 その二つを想定しただけでも,「教育的な目的」が何かは明らかです。

 私が実感しているフィールドワークの魅力には,「想定外の発見」が多いということもあります。具体的には別の機会でご紹介したいと思います。

 教師にとってのフィールドワークは,子どもに対する学習指導という側面ではなく,「教育とは何か」を教師として問う上で,つまり,自らの教養や教育への使命感を高めていく上での効果も期待できます。

 私の場合は,行政の立場で多くの学校を訪問できたことは,まさに学校という場での「フィールドワークの機会」をたくさん得たことにもなり,勉強になりました。

 教育現場を主なフィールドにしている教師ですが,実は自分がかかわっている現場と,同じ校種の学校ですら,実際に入ってみると全然「同じよう」ではないことに気付きます。

 ましてや異なる校種では,ほとんど「異文化体験」に近い感覚を味わうことすらあるのです。

 異なる校種における授業の実態をふまえた児童・生徒理解というものは,免許更新講習でも大きなテーマにしてもらいたいくらいです。

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支援を必要とする大人を相手にしない人間を教育でつくりだすと,どのような社会になるか?

 支援を必要とする人を放置する,放っておく,かまわないでおく,無視する,相手にしない,

 そういう生き方を理想とする人間がどうやらいるらしい。

 こういう人間が増えたら,社会はどうなるだろうか。

 自分の目の前の利益が重要であり,「余計な手間」をすべて排除しようとする

 人間は,教育現場でこそ生まれやすいというのが私の持論である。
 
 手間を省こうとする教師のまわりには,少しずつトラブルが集まっていく。

 一人で抱えきれなくなったときに,周囲の支援を求め始めるが,

 もはや手遅れになっていることが多い。

 教育というのは,いかに手間をかけるかという世界である。

 「ああ,落ち着いた学校にやっと赴任できた。やってこれで楽ができる」

 という感想を述べた教員がいた。

 大間違いである。

 落ち着いた学校というのは,「楽をする」という発想がない教師が築いているものである。

 案の定,似た教師が集まってしまったせいか,まずは学年が荒れ出した。

 学校というのは,荒れ出すとその勢いを止めにくい場所である。

 人間の信用というのは,築くのは容易ではないが,崩壊させるのは一瞬ですむ。

 一言ですむ。

 「楽をしよう」という発想でいることがばれた時点でアウトである。

 教育実習は,よほどのことながない限り,「母校実習」を廃止すべきである。

 「受け皿がないから」という理由は成立しない。

 全国にはたくさんの「附属学校」がある。

 まずは附属学校の受け入れ定員を満たすことが,大学の責務である。

 今は,大学も大学生も「楽をする」「手間を省く」ことを重視して,

 「母校実習」に流れる傾向が強まっているが,

 もちろん「免許をとるだけで,教員になるつもりはない」人なら,それでもよい。

 ところが,「教員になるつもりがないのに,なぜ実習に来るのか」という叫び声も教育現場からは出ている。

 子どもたちとじゃれに来ること,「思い出をつくること」を目標にした実習生など必要ない。

 教育という仕事は,苦労の連続である。

 自ら困難に立ち向かえるような人間でないと,教師などつとまらない。

 教えるのが好きというだけなら,塾や予備校に就職すればよい。

 学校現場としては悲しいことだが,今は塾や予備校にも子どもの相談相手になってくれるような人間性の豊かな人材が集まっているという。学校の先生には相談できなくても,塾の先生なら話せる,という子どももいる。

 これからは,塾や予備校から学校現場が教師をヘッドハンティングしなければならない時代がやって来るのだろうか。
 
 自分が成長できるチャンスがたくさん提供される職場ととらえるか,

 ブラック企業ととらえるかは,本人次第というところだろう。


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親に「使命感」が求められることがあるか?

 前の記事を書きながら,教師に求められるとよく言われる「使命感」という語に違和感を覚えていた。

 親に対して,子どもを育てることへの「使命感を持っているか」という言い方はされるだろうか。

 されないとしたら,なぜだろう。

 「使命」の「使」は,「使役」の「使」と考えてみたらどうだろう。

 「使命」の「命」は,「命令」の「命」である。

 と考えれば,「使命」とは「自分」が主体ではなくて,

 「ボス」のために果たすべきものだと考えることができる。

 「ボス」を「神」とか「天」と見なすこともできるが,

 そういう宗教的な感覚がなくても幸福に暮らせている日本では,

 わざわざそういう意味での「使命を持つ」ことを自覚して生きている人は少ないだろう。

 「国を守る,家族を守ることを使命として戦い,死んでいった英霊」の魂は,

 自分と同じことを今の人たちに経験してほしいとは願っていないと思われる。

 
 「親の使命」という感覚がないのは,親には「ボス」はいないからだろうか。

 脱線するが,ごく一部に,「ボス」をもつ親がいる。

 「~家の恥」にならないように,子どもを強烈に育てている教育ママがそれである。


 学校の面談で,自分の息子の名前を「くん」づけで呼んでいた父親がいたが,

 父親にも「ボス」=祖父母がいる場合も考えられる。


 さて,教師の「使命」を考えた場合,

 「教育公務員」として,憲法はもちろん様々な法律を遵守することは当然のことである。

 教育基本法にこれこれと書いている。

 だからそれを具現化するために働くことが「使命」となる。

 もし,教育基本法に「親の任務」が明文化されていれば,親も「使命」を担っていることになる。

 
 ただ,親はもちろんだが,教師が「使命感の欠如」を非難されるとき,

 教育基本法に基づいて問題を指摘する人はあまり多くないのではないか。

 子どもに思考力・判断力・表現力が身に付いていなくても,

 「あなたに教師としての使命感があるか」と問い詰められることは少ない。


 現場にいるとわかるのだが,

 そもそも人間として無責任だと見られる状態をさして「教師としての使命感のなさ」が嘆かれるのが一般的である。

 
 だから,もしこれから教師になろうとする人が,「教師としての使命感」とは何かを求められたら,

 少なくとも2階建て以上の構造をもっていることに言及すべきだろう。

 年月を重ねていき,それが3階建て,5階建て・・・と,高層化していくイメージを

 教師のキャリアアップと重ねていくことが大切である。

 
 やはり,自分から「使命感があります」というのは変なことだいう印象しかない。

 教師として生きていきながら,「あるべき姿」を念頭においた自己反省を繰り返すしかないものと思われる。


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教育の中毒と使命感

 冬休み中に,夢に学校の生徒たちが登場する教師はどのくらいいるだろう。

 小学校の教師たちは,きっと可愛い子どもたちに会えなくてつらい思いをしているだろうから,ちょくちょく登場するのではないか。

 夢に出てくるのは,たいてい,「気にしている子ども」である。

 もちろん,仕事とプライベートをはっきりと区別している教員も多いはずである。

 小学校教員になったばかりの若い男性たちが,窃盗やわいせつ行為などで懲戒免職となったニュースがよく流されている。仕事だけは真面目にやってくれていたと信じたいものであるが,犯罪者となった先生の教え子と呼ばれる子どもたちは本当に気の毒である。

 よく,こういうニュースが流れると,

 「教師としての使命感はどうなっているのか」

 と一般の方は憤るに違いない。

 私としては教師以前に「人間としてどうか」と思うのだが,

 やり玉にあげられるのが教員の採用システムや,大学での養成システムである。

 ただ,「学力」ならまだしも,「人間性」を大学や大学院に進学してから高めるというのは非常に困難だと思われる。

 「人間性」を育てるのは,生まれてから思春期ころまでのその人を取りまく環境であろうことくらい,実感できるからだれでもわかる。

 教師がそれなりの尊敬を受けるチャンスが残されているのは,

 社会で成功した人たちが,親だけでなく,自分によい影響を与えた教師の名前を口にし,

 感謝している場面なり話なりを見たり聞いたりすることができるからである。

 そして,感謝されている教師の中には,

 「それはあんまりだ」というくらい厳しい指導をした人が混じっていることに気づくはずである。

 
 教師の中には,子どもたちを厳しく鍛えることが「中毒」のようになっている人がいる。

 脳内の特別な物質が大量に分泌され,どんなに長時間指導しても全く疲れを感じることがない。


 そういう人が,教師に向いていると断言はできないが,

 勤務時間が終了するとさっさと家に帰ってしまう教師よりも,

 放課後に残って部活動の指導をしてくれたり,何時間でも悩み事の相談に乗ってくれたり,

 よりわかりやすく楽しい授業をするために手の込んだ教材をつくってくれたりする先生を子どもも親も望んでいるのである。

 「使命感がある」と周囲が評価するような先生は,

 きっと自分ではそんな意識をもっていることはないだろう。

 「好きでやっている」だけだからである。

 「仕事だから仕方なくやっている」場合は,口に出さなくても態度で子どもや親に伝わっていく。

 こっちの教員の方が,自ら「使命感をもってやっている」という意識をもっているのではないか。

 だから何か批判や非難をされると,

 「使命感をもってやって『あげて』いるのだから,批判される筋合いはない」という反応を示すことになる。

 だから,もし

 「あなたは教育の仕事に使命感をもって励んでいますか」

 などというアンケートがあったとしたら,愚の骨頂であると言える。

 「使命感をもっている」かどうかは,自分ではなく,子どもを含むまわりの人間が判断・評価することである。

 本当に教育に「使命感をもっている」人の場合は,

 「自分はむしろ中毒なのではないか」という不安を抱くほど,

 自分の子どもではなく,学校の子どもたちのことばかりを考えているに違いない。
 

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「すべての子どもを好きになる決意」を自分自身に求める教師の職業病

 認知領域の教育目標には,

 「~を何というか」という問いに単語で答えることができる程度の浅いものから,

 「~の意義とは何か」を説明することができる「解釈」程度のもの,

 自ら課題を発見して解決への道筋を説明することができる深い程度のものまで,

 さまざまある。

 同様に,情意の領域の教育目標には,

 「相手の異なる考え」などを受け入れることができる程度の浅いものから,

 適切な反応を示すことができる程度のもの,

 そして意識することなく,反射的によい態度がとれる・・・つまり

 習慣化されているほどに内面化できているレベルのものがある。

 「すべての子どもを好きになる」という教師の目標設定は,

 情意面でも特に浅いタイプのものであることを自覚しておかなければならない。

 そして,こうした情意面の目標については,「それが何のためなのか」がわかっていなければ,

 「手段」と「目的」の混同が起こってしまう。

 
 教師にとって,「すべての子どもを好きになる」ことが職務であるわけではない。

 そして,たとえ「すべての子どもを好きになる」ことができても,

 職務を果たせるとは限らない。

 逆に,「すべての子どもを好きになる」ことができなかったとしても,

 職務を果たすことができる可能性は残されている。


 このようにピントはずれを話を始めるのは,決まって小学校の教師であり,

 小学校の教師上がりの大学の教員である。


 手段と目的の違いがわかっていない言動が目立つが,

 「すべての子どもを好きになる決意をする」などはその最たるものである。


 そういう決意をしようとしている時点で,自分を恥ずかしいと思わなければならない。

 
 医者が,「すべての患者を好きになることを決意する」と言い出したら,

 患者はどう思うだろうか。

 中には,おしゃべりをしに病院に通う人もいるわけで,そういう人にとっては「いいお医者さん」になるかもしれないが,医者の職務とは何だろう。

 教員の職務とは何だろう。

 「すべての子どもを見捨てないこと」とはどういう意味なのだろう。

 
 教師がすべきことは,「知識に代表される認知領域,態度や習慣として現われる情意領域,それに技能面などを加えた各領域の能力を,すべての子どもに対して可能な限り伸ばしてあげること」である。

 そういう目標が定まって,「方法」はどうしたらよいかの検討に入る。

 それぞれの「方法」について,本当に「すべての子どもの能力を高めているか」を評価していくことになる。

 こういうことは教育心理など,大学の教職課程で履修済みのことであるはずだ。

 
 教師はいつの間にか基本中の基本を忘れ去り,独断でいい加減な教育論を展開し出す。

 教員免許更新講習は,「講習」だから,「失効しないですむ」ことが前提である。

 そのうち,教員免許更新試験になる日がやって来そうで恐ろしい。


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教師は「子どもを一人も見捨てないこと」より,自分が「子どもに見捨てられない」ための努力をすべきである

 「学級崩壊」という言葉はだれもが知っていることと思うが,

 正真正銘の「学級崩壊」状態を目の当たりにしたことがある人はどのくらいいるだろうか。

 私の学校に通う中学生たちの中には,小学校時代の「崩壊状態」を事細かに解説してくれる生徒がいる。

 多くの場合,元凶は担任教師にあるという。

 子どもの立場から見れば,そういう結論になるのだろう。

 私は「学級崩壊」の研究者ではないから,担任教師にインタビューしたことはない。

 子どもの口から語られる数々のエピソードの真偽を確かめたこともない。

 ただ,そういう経験をした生徒ならではの「心の荒れ」は,如実に感じ取ることができる。

 小学生たちに「見限られる」担任教師は,学年が上がるほど増えていく。

 それだけ子どもたちが成長している証しでもあるが,

 教師の方も成長してくれないと困る。

 小学校によっては,高学年の担任が固定化している状況があるらしい。

 そんな学校では,『学び合い』など夢のまた夢の話である。

 いや,実は,そういう学校でこそ,本当の『学び合い』が行われているのかもしれない。

 教師が本当に頼りにならない。

 説明が下手で,学習に興味を抱かせてくれない。

 「俺の話より,ビデオの方が正確だ」なんて言って,

 教育用ビデオばかりを見せられた子どももいる。

 こういう環境で育つ子どもにこそ,『学び合い』が必要なのだろう。

 教師が「子どもを一人も見捨てない」などと偉そうなことを言っている場合ではない。

 「子どもに見捨ててもらう」ことを目標にし,『学び合い』を促すというやり方もありかもしれないが,

 リスクが大きすぎる。

 最近,「教育された形跡が乏しい小学7年生」に出会う頻度が高まっている。

 子ども同士の『学び合い』の成果には,限界がある。

 保育園段階でなら,ありなのかもしれない。

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目的意識が欠如しすぎるダメ教師と,目的意識に縛られすぎるダメ教師

 以前に学会で「ダメな教師の分析方法」を発表したときに,一番険しい表情で聞いていたのは大学教師たちであった。

 自分たちがどれだけ教師として「ダメ」なのか,具体的な指標に基づいて明らかにされてしまったのだから,仕方がない。

 その「ダメ」な状況からいかに自覚し,地の底から這い上がっていくかが「教育失敗学」の訴えたかったところである。
 
 当時は,大学には全く縁のない,しかし教育現場では非常に切実な課題を突きつけたのである。

 (今はようやく大学でもアクティブ・ラーニングが重視され出した。小中学校では半世紀以上前からやってきたことである。)

 私としては,それだけで満足し,学会での役割を終えることとした。

 頼るべき相手が見つからなかった,と言えばそれまでである。
 
 当時,名刺を交換させていただいた先生が何人かいらっしゃったが,その後,お元気だろうか。


 教員養成の仕事は難しい。

 だから,大学ではあまりまともに学生に向き合っていない人が多いのだ,

 という嘆きの声を最近も耳にした。


 「ダメ」な状況から「優秀だ」と思われる状況までは,とてもとても遠い道のりがある。

 ただ,スタート時点から「優秀」な状況から始まる要素もある。

 年月がそれを「ダメ」な状況に陥れていくケースもあり,

 教員集団によって一気につぶされるケースもある。

 公務員でもある教師がするべきことは,はっきりと法によって規定されている。

 そのことを忘れがちになっていく・・・自分がルールだ・・・なんていう思い上がりが増えるのが

 教師の特徴でもある。

 真逆に,あまりにも法の表面的な理解に立って,融通の利かない出来損ないの教師になっていく場合もある。

 指導主事になって,そういう危険な立ち位置にいる人を大勢見てきた。

 幸いにも,私の身近には,優先すべきことを見失っていない人ばかりしかいなかったが,

 ちょっと職場から離れると,「危険人物」たちが目についた。


 たとえば,教育基本法は,だれのためにあるのか。

 子どものためなのか。大人のためなのか。

 未来の大人のためなのか。現在の大人のためなのか。

 法律によって,教育の目標はしっかりと定められている。

 そのことを忘れてしまう教師がいる。

 一方で,その文字面しか理解できないまま,目標とかけ離れた姿を生み出そうとしている教師がいる。

 両方とも本当に迷惑なダメ教師である。

 ダメ教師が学校で果たせる役割が全くないのかと言えば,決してそうではない。


 価値観の押しつけはいけないと胸をはっておきながら,

 堂々と押しつけてすずしい顔をしている教師に出会うと,

 本当に「人間らしさを地でいく人」に見えて好感がもてる一方で,

 道徳の教材としては適切かもしれないが,教師としてその場にいるのはいかがなものかと思えてくる。


 ただ,こういう「人間らしい人」とも格闘しながら,子どもたちは成長していく。

 自分自身が変わり,人間として成長する姿を子どもに実感させる教師というのが,

 「賞味期限」は短いかもしれないが,大きな存在意義をもつことを忘れてはならない。


 自分の立ち位置が自覚できていない教師に,気づかせる役割をだれがもつのか。

 管理職のなり手が欠乏している学校現場の未来を創造する方法をだれが考えていくのか。

 待ったなしの状態にあることを自覚している人は少なくないはずだが,

 状況は,太平洋戦争に突入していったころと変わらないようである。


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「だれも見捨てない」というのは,まずは教師から教師へ向けられるべき言葉である

 年末年始は,家族に付き合ってどうしても芸能人をテレビで見る機会が多くなった。
 
 テレビ局やファンのための行動様式をしっかりと体得しているプロたちを見ていると,

 そこに「豊かな人間性」を感じ取ることができる。

 芸能人の「人気」の源は,単なる容姿の美しさや話のおもしろさだけではないことが画面から伝わってくる。

 もちろん一部には薬物に手を染めるなどの違法行為に身を堕としていく人たちもいるが,

 あとあとで考えれば,「そういうことがあってもおかしくない」と思われてしまう言動が見つかるのだろう。

 激しい競争の世界を生き抜く決め手は何か。

 「勝とう」という卑しさをもたずに生き残る秘訣は何か。

 それは,私には真似ができないことだが,「いらだつ」という瞬間を経験したことがないのでは?と思わせるほど,人に対する深い信頼感を失わない力であると思われる。

 そういう人は,きっと教職にも向いている。


 逆に,「いらだつ」習慣をもつ人では,周囲を感化させきることはできない。

 教師という職業は,現場についてよくわかったことだが,筆記試験でどんなによい点をとり,

 どんなにご立派な論文を書いてみたところで,

 子どもとの言葉のキャッチボールができなければ,成立しない仕事である。

 教師は,ときに「いらだち」を隠せなくなる。

 それは,子どもに対してだけではない。親に対しても,同僚に対しても,

 管理職に対しても,教育委員会に対しても,文科省に対しても,政府に対しても,

 マスコミに対しても,「いらだつ」ことがある。


 最も子どもに悪影響を及ぼすのは,教師から他の教師に対するいらだちである。

 「どうしてこんな人間が教育現場にいるのか」といういらだちを教師が抱いていることは,

 知らず知らずのうちに子どもたちに伝わっていく。


 授業がうまくできない。

 子どもの意見をうまくひきだせない。

 子ども間のいざこざを解決できない。

 そんなことは,子どもにもすぐにわかる。

 「だれも見捨てないって,どんなことですか?」と真面目な顔をして同僚に食い下がっている教師を見たら,子どもも大人もドン引きしてしまうだろう。

 「察する」ことが能力的に無理な教師は現場では本当に使えない。


 子どもに伝わると状況がさらに悪化するのは,

 そういうダメ教師をお荷物に感じている雰囲気を他の教師たちから感じ取るときである。 

 教師の中にお荷物がいるのだから,

 子どもの中にもお荷物がいて当然である。


 教師は,お荷物がいなくなればよいのにと本心では願っている。

 内心では,子どもにもお荷物がいることを子ども自身はよく知っている。

 教師も同じであるに違いない。

 だが,「教育者」である教師は,そういう気持ちが子どもに伝わらないように,努力しているのだと子どもは気づく。


 「だれも見捨てない」なんてことを合い言葉にするような人間には,

 「だれかを見捨てようとしている自分」への自覚がはっきりとあるはずなのだ。

 でなければわざわざそんな当たり前のことは言葉にしない。

 子どもは当然だが,

 同じ仲間の教師を見捨てようとしている自分への自覚はあるのだろうか。

 それが第一歩である。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より