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アクティブ・ラーニングの経験がない人が語る教育論

 アクティブ・ラーニングへの批判をしたい人が,このブログをよく訪問されていることが,ココログのアクセス解析のデータからよくわかる。

 教育ブログにも,ぽつぽつとアクティブ・ラーニングを批判する記事が散見されるが,

 それを読むと,

 アクティブ・ラーニングとか,インタラクティブな学びを経験したことがある人か,ない人がかよくわかる。

 さすがに学校でアクティブ・ラーニングを自ら体験したか,自ら指導することができた経験がないと,

 批判するにしても全くの的外れなな話しか出てこない。

 「能動的」の部分だけでひっかかって,先に進めない人には,教育論自体に参加する資格はない。

 「受動的」になりがちな学習をどうやったら「能動的」に進められるか,という議論だから,

 「受動性」と「能動性」のバランスがどうとかいう話ではないのだ。

 今時,「受動性」の塊のような塾でさえ,「能動性」を高めるような指導をしている。

 そういう現場を見ないで塾の批判などする資格はないのだ。


 プロ野球の試合の解説は,フィギュアスケートの選手にもできるかもしれないが,

 150㎞のボールを投げろと言われても無理だろう。

 だから,「私にはその話は理解できない」という系統の批判が一部に見られている。

 プロ野球の選手に,氷の上で4回転ジャンプをしろと言われても無理なのである。


 ただ,自分の動きの弱点を見つける方法,という話になると,両者に共通したものが見つかるかもしれない。

 アクティブ・ラーニングを語るときの注意点は,このような「方法」論に陥りがちであるという認識をもっておくことである。

 そして,「方法」論というのは,実際にそれを使ってみたことがあるかないかで,

 「使える」という実感がわくかわかないかがわかるものである。

 「ここぞというときに,集中力を高める方法とは?」と聞かれたとき,

 全く違う分野で活躍している人なのに,全く同じ答えになった,という場合がある。

 そうすると,「これは一般的にも役に立ちそうな話だな」という予感がする。

 アクティブ・ラーニングで語られる話の多くは,このようなタイプのものである。


 しかし,実際に各分野でそれを実践してみるということになると,どういう結果になるかはわからない。

 「やってみて,失敗することもあれば,成功することもある」というのがアクティブ・ラーニングを実践するときに忘れてはいけないことだが,

 「やってみて,成功できた」か「やってみて,失敗してしまった」かのどちらかの経験はすることができる。

 一斉授業を聞いて,黒板の文字をノートに書写して,その内容の一部が問われる試験で正しく答えられたからといって,その人にどのような能力がついたと言えるのか,だれも保証できないだろう。

 2週間たって,同じ試験をして,できなくなってしまっていたら,何のための一斉授業だったかわからなくなる。

 それなのに,ずっーと同じような「あてにできない保証」だけを教育の世界は繰り返してきた。

 「学歴社会」ではなく,「入学歴社会」と呼ばれてしまう所以である。

 教員だけは,免許更新講習によって,「一応は品質を保証する」しくみとなったが,実際に講習を受けて不合格になった人がいるというニュースを聞いたことがない。

 現場には何が求められているのか。どうしたら子どもに未来のための学力を身につけさせることができるのか。

 「教科書の答え探し」のような悪質な教師主導型『学び合い』ではなく,ある課題を解決するために,個人でもグループでも,必死に知恵を絞って導いた予想を実際の出来事と比べたときに,正解(成功)したら喜びが,不正解(失敗)だったら,さらなる疑問が促され,新たな情報を加えることで,納得して理解することができた,という経験ができるようなアクティブ・ラーニングが行われていたら,どうだろう。

 「間違ってしまった」という経験によって,「どうしたら間違えないですむか」を考える動機を与えることができ,「正しい答えを導く方法」を自ら獲得できるという流れを,授業の中で身につけることができるアクティブ・ラーニングが行われていたら,どうだろう。

 今の学校現場では,テストをして,悪い点数をとってしまった生徒に対して,「どうしたら間違えないですむか」を考える動機を与えることに成功しているだろうか。

 アクティブ・ラーニングでは,その動機を授業の中でもたせることを可能にし,テストのときには「間違えないですむ」状況を実現できていることが想定できる。

 ただ,現在の学習指導要領に示された内容すべてにわたって上に示したようなアクティブ・ラーニングを進めるのは無理である。時間が足りない。内容が乏しい小学校でしかできない。

 だから次期学習指導要領では,内容を大幅に削減しなければならない。

 ・・・という話になれば,「過去の失敗の繰り返しをするのか」という批判が必ず起きる。

 「第二次ゆとり世代」を作るのかと・・・。


 最近,ある文科省の関係者が,

 「脳がしっかり活動していれば,アクティブ・ラーニングだ」という趣旨の発言をしたらしい。

 今まで子どもたちは,脳死状態だったということだろう。

 文科省自体の品質の劣化が著しいことがよくわかった話である。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より