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試験問題を持ち帰る教師

 学習の評価の研究を本当の意味で真剣にやろうとすると,時間はいくらあっても足りない。

 1日50分の授業を40人×5クラスに実施して,全員に評価をかえしてあげることは人間わざとして可能だろうか。

 私がつくる定期考査問題は,記述の部分が多く,かつ自由な意見も書けるようになっている関係で,

 採点に非常に多くの時間がかかる。

 1人につき5分かけると,2学年,400人分では1日24時間かけても終わらない。

 普通の勤務時間で言えば,4日分の労働である。

 こういうことを知っている人は,

 「教師が答案を持ち帰り,自分の子どもが他の生徒の答えを書き換えた」

 というニュースを見たときに,「気の毒な教師だ」という感想をわずかにもってくれるだろう。

 「事故」が発生したのは地方の「町」である。

 自分が教えているクラスに,自分の子どもが通っているような学校の規模は想像がつく。

 行政は,子どもをたくさんもっている教師を,過疎で生徒数が少ない地域に送り込み,生徒数の確保を図っているのである。

 私から見ると,「たった1クラスの答案くらい,学校で採点できるだろう」と思ってしまうが,

 いろいろ事情もあったのだろう。


 普通に考えれば,教師も子どももその学校にはもういられないはずである。

 「書き換える」行為は最低のことだとしても,

 「いつでもクラスメイトの点数を知り得た」という時点で,アウトである。


 同情できる部分もゼロではない。

 たとえば,2日間徹夜しないと答案が返却できない教師に,「答案持ち帰り禁止」を徹底させるということは,学校で寝泊まりせよという話になる。

 前の記事で実は言いたかったことは,これから書くことである。


 学校現場のこうした状況を最もよく知っているのは,指導主事である。

 指導主事はブラック鬼業を屁とも思わず長時間労働できる勤労マシーンが管理職から

 推されてなる仕事だから,「教員の勤務実態が異常である」という声を

 教育委員会内であげることをしない。


 だから,多くの教師たちに,指導主事は毛嫌いされるわけである。

 「私たちの苦しさをわかってくれない」張本人だから。

 
 教育委員会が文科省に毎年あげている教育課程の実施状況報告では,

 たった1時間,道徳の実施時間が少なくても大騒ぎする。

 35時間は「標準」なのであるが,「最低基準である」と言わんばかりの態度をとる。

 私の娘の小学校では,実態として,絶対に35時間やっているわけがない。

 小学校の教師は,平気で授業を変更したり,勝手な時間割を授業前日に知らせて,

 宿題もそれに合わせて出したりしている。国語だけやたら多い気がするが,

 娘の「連絡帳」で集計すれば,正確な「授業時数」が求められるはずだ。


 しかし,どうにか数字をごまかして,教育委員会には道徳を35時間やったことにして報告するだろう。

 ・・・・こういうことを,指導主事は知っているはずである。

 しかし,「本当にこれであってますか」とは聞かない。

 当たり前のように(慣例として)スルーして,上にあげていく。

 調査など,しても意味はないのである。

 そういう意味のない調査だということを教員たちは知っているから,

 「事務量を減らせ」と言ってくる。


 本当に意味のないことである。

 *****************************

 授業時数の報告は,学校ではなく,保護者にさせるのがベストである。

 *****************************

 「試験問題を持ち帰る」教師を責める資格をどれだけの教師や指導主事がもっているだろうか。

 そもそも,公立学校で,勤務校に自分の子どもが通っている教師がいるという状況に問題を感じない教育委員会事務局がどうかしている。

 子どもにとっても,他の学校の生徒の答案を書き換える意味はないはずだから,

 「防げた事故」であるともいえる。

 
 話はそれるかもしれないが,学校で採点させても,高校入試の採点ミスが大量に発生するという問題への対処法が,「マークシートの採用」というのは何とも事務方的な発想である。

 入試という大イベントでの,学習成果の発揮の場がマークシートになることで,子どもたちの学習意欲はさらに低下すると考えるのは私だけだろうか。

 
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
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