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教育ブログを悪用する方法

 社員をうつ病に導く方法を指南するブログが公的な機関の調査の対象になっているらしい。

 うつ病になりたくない人は,そういう方法を会社に教えるサイトがあることを知っておくことも,

 防衛策の1つになり得ると思うのだが,

 やはり看板の立て方には課題があると言えるだろう。

 私のこのブログだって,

 「指導力不足教員をうつ病にかからせ,辞職させる方法」

 に応用することが可能である。


 現場の中学生は,小学校の先生たちの評価を非常に厳しいかたちで言葉にしてくれる。

 子どもにとっての良い評価という面でも,たとえば授業中にお菓子を食べさせてくれたとか,

 こちらとしてはダメ評価の材料になる情報として集積される。

 親が役員をしていれば露骨に教科の成績がよくなるとか,

 子どもでもわかる「大人の事情」というのはたくさんある。

 中学校でなぜ真実を述べることができるようになるかというと,

 「不正ができない」ことに気づいてくれるからである。

 公教育としてはそれが当たり前なのだが・・・。


 子どもたちの大人観察は,大人の大人観察よりよほど鋭いものであるという実感をもちながら教育をしている人は・・・教師だけでなく,親も含めて・・・どのくらいいるだろうか。

 保護者との面談でそれと悟られないように,

 子どもが勝手に話し出した親の醜態を聞かなかったことにするケースがとても多い。

 しかし,「いくら何でもそれはないだろう」という点は,

 まずは事実かどうか,確かめざるを得ないときがある。


 大人は,外では偉そうなことを言いながら,

 自分自身は自分が批判しているようなことをそのままそっくり家でやっている,

 ということが多いから,子どもなりに反抗する動機となるのである。

 子どもは大人の真似をするからこわい。

 中学生が書いているブログが,すべて真実に基づくものであるという保障はない。

 ~は~だ,と断定的に書いている内容が,ただの思い過ごしに過ぎないということは,いくらでもあるだろう。

 ただ,その本人は,そういうつもりでいるのだ,ということを受け手は知ることができる。


 真実であるかどうかよりも,

 まずは相手がどう思っているかどうかを知ることが大切だ,という前提がなければ,

 コミュニケーションなど成立のしようがない。

 とりあえず,悪用されることは望まない,という意思表示だけはしておこう。


 「悪用される危険があるから削除せよ」という話になると,

 いずれ,だれも何も言えない時代になってしまうだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より