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2015年12月

食文化は政治によって台無しになる

 日本の食文化は世界へと広がっているが,

 ニューヨークではすし職人に手袋着用を義務づける指導がなされているそうだ。

 ニュースでは,手袋をつけたパン屋の店員が,掃除用の箒を持った後に

 パンを触るという光景を見た人の話が紹介されており,

 衛生に対する感覚が政治によって劣化することを端的に示している。

 もちろん食中毒の防止など,目的はわからないでもないが,

 衛生面への配慮も含めて「すし職人」という「ステータス」が成立しているはずである。

 日本で寿司になぜ「ガリ」がついているか,知らない人はいないだろう。

 科学的にはショウガに殺菌採用はないそうだが,さまざまな背景があっての食文化である。

 法的拘束力のある学習指導要領で道徳の内容を事細かに規定するなど,

 政治は文化を劣化させる「悪玉」である。

 確かに,回転寿司などではアルバイト店員がビニール手袋をつけて調理しているかもしれないが,

 目の前の職人がそんなものをはめて握っているすしを見てしまったら,

 せっかくの食欲もすしも台無しになってしまう。


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2020年 大混乱する大学受験!~本当に必要で簡単にできる改革とは何か~

 2020年の大学入試改革を前に,さまざまな憶測が飛び交っていたり,

 公開された情報とたわいもない本の内容を丸写しだけしただけの出版物が

 登場したりしていますが,入試制度の設計ほど難しいものはないのです。

 20年前の中教審答申を受けて,高校などの入試制度はいじられ続けてきましたが,

 ほとんどは「失敗」に終わっています。

 「ゆとり」をねらうと「競争」が激化する。

 これ以上の「失敗」はありません。

 中高一貫校などは,当初のねらいとは全く逆で,予備校もどきの「進学校」になってしまっている。

 「公平性」だけでなく「公正さ」も担保できない入学選抜になってしまったという失敗は,

 目標に準拠した評価が導入されたことも原因の一つになっています。

 この評価が行われるためには,指導が適正に行われる必要があるはずですが,

 テストの点数がとれるように努力する,というただそれだけの指導ばかり。

 『学び合い』も同じです。肩を寄せ合って,教科書レベルの問題が解けるようにするという「協働作業」を行うだけ。まるで共産主義の理想を実現するための教育です。組合活動がせっかく下火になってきたのに,最も怖れていた子どもへの直接的な「攻撃」が始まってしまっている。

 『学び合い』の授業では,教師は観点別学習状況の評価などできません。

 自分の成績が他の学校の生徒と同じ基準でつけられていると実感をもっている生徒などいないでしょう。


 高校在学中に一律の学力検査を受けさせられて,学校別の成績が公開されたら,

 どういうことになるか,想像できますか。

 国立大学の入試のような記述式の問題を出して,

 本当に「書ける」レベルの受験生が集まる大学はどれほどあるでしょう。

 適正な選抜になると言えるような問題をつくるのは難しいし,

 そもそも同一の基準で不公平やミスなく採点しチェックするのに,

 どれだけの人と時間を要するか,私立大学の人には想像できないでしょう。

 マークシート方式のテストだってあれだけ大がかりのものなのに,

 それを変えよう,というのはよほど現場を分かっていない人間の発想です。


 実現不可能な選抜よりも,教育の内容を改革すべきなのに,

 新しいことをやるとたいていは失敗に終わるので,

 そこには手をつけられないのです。


 「記述」から「短い言葉での解答」にトーンダウンしたのもかなり前のことになりますか。

 「短い言葉での解答」では,「一問一答」と大差ありません。

 
 本当に長い時間を書けて,入学希望者の実力を測定する意味がどれだけあるのか,

 という問いも必要です。

 
 最も簡単な改革の方法は,

 「簡単に卒業させない」・・・・それに尽きます。

 
 本の丸写しのレポートを出して単位を取り,卒業できるような仕組みをなくすことの方が,

 何万倍も大切な「改革」のはずでしょう。


 大学の入口は緩くして,出口を思いきっり厳しくする。

 そのためには,大学の研究部門と教育部門を明確に分けていくことも,

 改革の方法の1つかもしれません。

 大学生が相手だと言っても,教え方を知らない人に,教育はできないのです。

 「アクティブ・ラーニング」で成果を出さなければならないのは,

 大学ですよ。


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小中一貫校の方がかえって中1ギャップが顕在化する

 教員養成段階から見ても,日本の初等教育と中等教育は全くの「別物」と考えてよい。

 小中一貫校の先生方が,「小学校7年生が増えて困っている」と嘆いている話は以前にも紹介したが,

 いよいよ発達心理学の面から見ても,小中一貫校の欠点が明らかにされようとしている。

 公立の小中一貫校の場合,何が魅力かというと,

 「問題教員が配置されるはずがない」という安心感が第一に挙げられる。

 中高一貫校でも同じである。

 それなりに力量がある教師しか,配置されていない(ような気がする)。

 ただ,どんなに指導力があっても,

 子どもの発達にとって望ましくない環境が整ってしまえば,

 無理矢理よい方向へと持って行くのは至難の業である。

 最近,「エビデンス」という言葉が新聞等でも使われるようになっているが,

 教育の世界で「根拠」を示すことも,実は難しいことではある。

 日本の学校現場のデータを公開してほしいと,

 『「学力」の経済学』の著者の中室牧子さんは訴えている。

 まさにその通りだが,文科省にとっては都合の悪いデータ(財務省にとっては都合のよいデータ)ばかりだから,ガードが甘くなることはないだろう。

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自分の手の届かないところの話はしない

 アクティブ・ラーニングをにわか仕込みで高校で導入しようとすると,

 小学校よりレベルの低い授業になってしまうケースがある。

 営業妨害になるかもしれないから具体的な事例を紹介するのはやめておくが,

 教師はやたらと「背伸び」をしたがる悪い癖があるから,直接伝えてくれるだれかが必要である。

 生徒が優秀な学校にやって来て,

 アクティブ・ラーニングをしているところを見て,

 「生徒が優秀だからできる」と恥ずかしげもなくコメントする人間がいるが,

 教師は生徒を優秀にするのが仕事であり,

 もし優秀な生徒がいたら,もっとできるようにするのが仕事である。

 学習状況に課題を抱える生徒を多く抱えているのであれば,

 その改善策を探らなければならない。

 それもアクティブ・ラーニングである。

 「できる」学校で「できる」生徒を見て,真似しようとしても,それは無理である。

 「できない」生徒を「できる」ようにすることが教師の使命である。

 いきなり偏差値40の生徒が60になったりはしない。

 「できる」ことから前に進むしかない。

 自分の手の届かないところの話ではなく,

 まず「できる」ことは何かを考えるべきである。

 そのときの注意事項は,「今よりレベルを下げてはいけない」ということ。

 アクティブ・ラーニング「もどき」を実践すると,目に見えて学力は下がっていくだろう。


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アクティブ・ラーニングの経験がない人が語る教育論

 アクティブ・ラーニングへの批判をしたい人が,このブログをよく訪問されていることが,ココログのアクセス解析のデータからよくわかる。

 教育ブログにも,ぽつぽつとアクティブ・ラーニングを批判する記事が散見されるが,

 それを読むと,

 アクティブ・ラーニングとか,インタラクティブな学びを経験したことがある人か,ない人がかよくわかる。

 さすがに学校でアクティブ・ラーニングを自ら体験したか,自ら指導することができた経験がないと,

 批判するにしても全くの的外れなな話しか出てこない。

 「能動的」の部分だけでひっかかって,先に進めない人には,教育論自体に参加する資格はない。

 「受動的」になりがちな学習をどうやったら「能動的」に進められるか,という議論だから,

 「受動性」と「能動性」のバランスがどうとかいう話ではないのだ。

 今時,「受動性」の塊のような塾でさえ,「能動性」を高めるような指導をしている。

 そういう現場を見ないで塾の批判などする資格はないのだ。


 プロ野球の試合の解説は,フィギュアスケートの選手にもできるかもしれないが,

 150㎞のボールを投げろと言われても無理だろう。

 だから,「私にはその話は理解できない」という系統の批判が一部に見られている。

 プロ野球の選手に,氷の上で4回転ジャンプをしろと言われても無理なのである。


 ただ,自分の動きの弱点を見つける方法,という話になると,両者に共通したものが見つかるかもしれない。

 アクティブ・ラーニングを語るときの注意点は,このような「方法」論に陥りがちであるという認識をもっておくことである。

 そして,「方法」論というのは,実際にそれを使ってみたことがあるかないかで,

 「使える」という実感がわくかわかないかがわかるものである。

 「ここぞというときに,集中力を高める方法とは?」と聞かれたとき,

 全く違う分野で活躍している人なのに,全く同じ答えになった,という場合がある。

 そうすると,「これは一般的にも役に立ちそうな話だな」という予感がする。

 アクティブ・ラーニングで語られる話の多くは,このようなタイプのものである。


 しかし,実際に各分野でそれを実践してみるということになると,どういう結果になるかはわからない。

 「やってみて,失敗することもあれば,成功することもある」というのがアクティブ・ラーニングを実践するときに忘れてはいけないことだが,

 「やってみて,成功できた」か「やってみて,失敗してしまった」かのどちらかの経験はすることができる。

 一斉授業を聞いて,黒板の文字をノートに書写して,その内容の一部が問われる試験で正しく答えられたからといって,その人にどのような能力がついたと言えるのか,だれも保証できないだろう。

 2週間たって,同じ試験をして,できなくなってしまっていたら,何のための一斉授業だったかわからなくなる。

 それなのに,ずっーと同じような「あてにできない保証」だけを教育の世界は繰り返してきた。

 「学歴社会」ではなく,「入学歴社会」と呼ばれてしまう所以である。

 教員だけは,免許更新講習によって,「一応は品質を保証する」しくみとなったが,実際に講習を受けて不合格になった人がいるというニュースを聞いたことがない。

 現場には何が求められているのか。どうしたら子どもに未来のための学力を身につけさせることができるのか。

 「教科書の答え探し」のような悪質な教師主導型『学び合い』ではなく,ある課題を解決するために,個人でもグループでも,必死に知恵を絞って導いた予想を実際の出来事と比べたときに,正解(成功)したら喜びが,不正解(失敗)だったら,さらなる疑問が促され,新たな情報を加えることで,納得して理解することができた,という経験ができるようなアクティブ・ラーニングが行われていたら,どうだろう。

 「間違ってしまった」という経験によって,「どうしたら間違えないですむか」を考える動機を与えることができ,「正しい答えを導く方法」を自ら獲得できるという流れを,授業の中で身につけることができるアクティブ・ラーニングが行われていたら,どうだろう。

 今の学校現場では,テストをして,悪い点数をとってしまった生徒に対して,「どうしたら間違えないですむか」を考える動機を与えることに成功しているだろうか。

 アクティブ・ラーニングでは,その動機を授業の中でもたせることを可能にし,テストのときには「間違えないですむ」状況を実現できていることが想定できる。

 ただ,現在の学習指導要領に示された内容すべてにわたって上に示したようなアクティブ・ラーニングを進めるのは無理である。時間が足りない。内容が乏しい小学校でしかできない。

 だから次期学習指導要領では,内容を大幅に削減しなければならない。

 ・・・という話になれば,「過去の失敗の繰り返しをするのか」という批判が必ず起きる。

 「第二次ゆとり世代」を作るのかと・・・。


 最近,ある文科省の関係者が,

 「脳がしっかり活動していれば,アクティブ・ラーニングだ」という趣旨の発言をしたらしい。

 今まで子どもたちは,脳死状態だったということだろう。

 文科省自体の品質の劣化が著しいことがよくわかった話である。

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教育界にも新元素発見への希望を

 科学の世界での面目躍如といったところだろうか。

 理研が113番元素の合成に成功している。

 この成功のために,累積してどれくらいの予算が割かれたのだろう。

 大学でも理系は授業料が高いが,実験にかかる費用が膨大であることはわからないでもない。

 ただ,学校の教師で実験の指導ができない人がいる。

 このギャップはどう埋められるのだろうか。

 ある教職大学院の教師は,「実験指導など必要ない」と言っているそうだが,嘘だと信じたい。

 よく耳にするところだが,一般の大学でも教職に必要な単位が取得できるものの,

 もともと教員を養成するために行われている授業ではないために,

 教員になっても何の役にも立たないという結果になっている。

 私が大学で学んだ内容は,高校の授業ですら扱わないものであった。
 
 一般の大学に限らず,教員養成系の大学ですら,

 「教員を養成しよう」という意識の乏しい教授やら何やらが多いようである。

 だからこそ,実際の教育現場では役に立たないことばかり研究していたり,

 短期間に現場にクビを突っ込んで,かき回して去っていくという教職大学院が出現したり,

 教職大学院で学んだのに現場で全く使えないままである教師が増えたり,

 教育の世界で起こっていることと,
 
 「新元素の発見」などに莫大な予算を割いて研究している世界の動きは,

 まさに雲泥の差が開いている。

 予算を割くだけが方法ではない。

 人材の確保こそが教育現場には欠かせない。

 まもなく,次期学習指導要領の内容の検討が始まる。

 ほとんど事務方の仕事に過ぎない内容ではあるが,

 教職大学院の教師たちが自信をもって育てた最優秀の教え子だけを集めて,

 次期学習指導要領の編集にかかわらせてみてはどうだろうか。

 条件は,「最優秀の教え子」を出すことである。

 どんな発言をその会議で残せるかによって,教職大学院の教師たちの力量がわかり,

 予算配分をするための重要な材料にもなる。

 教職大学院の教師の品質がそれでわかる。

 教育界の「新元素」とは,優秀な教師の卵に他ならない。

 現職の教員が大学院に学んで,「新元素」に生まれ変われるかどうかも検証できる。

 「第18族元素」だけは,現場に戻ってもどうにもならないである。

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失敗型『学び合い』は,悪質な教師主導型授業

 問題解決的な学習と呼ばれるものでも,指導の在り方(たとえば問いの立て方)によっては,

 一斉学習と呼ばれる一般的な教師主導型の授業を上回るほどの,「押しつけ学習」になってしまう。

 『学び合い』も同様である。

 下手をすればその考え方自体がいじめを助長したり,カーストを固定化させる機能をもつことになる。

 アクティブ・ラーニングと銘打ってはいるものの,内容的には全くの「やらされ学習」にすぎない実践も見てきた。

 教科書からの答え探しのような学習の事例を『学び合い』関係図書から見つけたときは,

 本当にがっかりした。

 失敗型ではない『学び合い』にお目にかかったことがない。

 看板とは全く違う内容の授業は,悪質な教育であると非難する必要がある。

 「型」を重視した時点で終わりである。

 具体的なターゲットはどこにあるか。

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「おもてなし」は「しょうゆ」のようなもの~観光立国と教育立国に必要なものとは~

 わざわざ海外から日本まで来て,しょうゆを味わいに来る人はいない。

 「おもてなし」をアピールしたがる日本人に足りないものを,デービット・アトキンソンさんは

 とてもわかりやすい表現で教えてくれた(週刊東洋経済最新号より)。

 
 学校教育にあてはめてみれば,「しょうゆ」にあたるのは「道徳」になるだろうか。

 醸造業が本業であれば仕方がないが,学校教育には本物の「おかず」がたくさんある。

 
 主食の「米」は「国語」,「小麦」は「英語」にあたるだろうか。

 「しょうゆ」づくりに力を入れるのもいいが,

 肝心のおかずがそろっていなければ,せっかくの「しょうゆ」も生きない。

 
 「しょうゆ顔」とはまだ生き残っている流行語で,日本人のあっさりとした顔のことらしいが,

 観光立国になるために大事なのは,「平凡であること」ではない。

 
 「マヨネーズ顔」や「バター顔」,「ソース顔」,「唐辛子顔」などいろんな「顔」があっていい。

 「昔の教師は,本当に個性豊かだった」というため息を聞いたことがある人はどのくらいいるだろうか。


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何歳までをチャレンジ期間と考えるか?

 研究授業を自ら進んで引き受ける教師は,何人に1人くらいの割合だろうか。

 年齢別にみたときには,どのような数字が出てくるだろうか。

 私が耳にする話では,多くの研究会で若い先生にその役を押しつけている現状があるらしい。

 若い先生にとってはもちろんよい経験になるし,自らどんどん引き受けてもらいたいと思うが,

 いつも批判する側にまわっていて,自らの授業を見せたがらない教師はどうにかならないものか。

 

 教育ブログには,さんざん人の批判をしておきながら,

 自分の教科の授業実践にはいっさいふれない人がいる。

 部活動の指導についてはわずかに記載があっても,

 そもそも本当に教員だったのかどうかも疑わしいほどの情報の乏しさである。

 公開授業を何本経験しているのか,などと質問しても答えは返ってこないだろう。


 若い教師が増えるようになって,今後ますます「ベテランの授業の素晴らしさ」を共有する機会が乏しくなっていく。

 できれば同じ自治体の中では,ベテランの授業公開が毎月どこかで行われるようなシステムをつくってほしい。

 そして,ベテランこそがチャレンジしてほしいと願っている。

 だれからも批判されそうもない,可もなく不可もないような授業ではなく,

 新しいことに挑戦するような意気込みをこそ,若い教師に見せてほしい。


 私自身の場合,次の実践が新しい指導要領に反映してもらえるように努力したいが,

 そのためにあえて批判されるようなしかけを考えている。

 よりよいものは,みんなでつくりあげる。

 
 社会科こそ,そのような実践が続けられるべきである。


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学校に通いたくない先生たち

 人間として打たれ強くない人が教師になり,経験の浅さゆえの挫折を味わったとき,

 だれが支えとなりうるのか。

 家族か。同僚か。上司(管理職)か。教育委員会事務局の先生(指導主事)か。

 一般的な教師なら,子どもの存在自体が支えとなる。

 「そこに山があるから登る」というのと同じ理屈(?)で,

 「そこに子どもがいるから,教師としてかかわりをもつ」というのが教育の世界である。


 若い教師は「教育界」にどれくらいのネットワークをもっているのだろう。

 相談ごとがあるときに,意見を求めることができる人を「教育界」にどれくらいもっているのだろう。

 どの教師も,「初任者研修」は自治体ごとにある程度まとまった人数で参加し,

 グループでの研究・研修も多い(宿泊研修もある)から,

 ここで知り合いを増やす機会がある。

 他校の教師と知り合いになる機会は,

 部活動の顧問になれば,練習試合や大会,顧問会などでの出会いもある。

 「心の問題」での休職は,ベテランでも起こる得るものだが,

 若い世代の離脱が目立つ自治体もあるようだ。
 
 私は以前から,小規模校のデメリットを訴え続けているが,

 学校の中で話し相手がいない教師のなかには,

 表面張力でもっていたコップの水が,たった1滴でこぼれ出してしまうような

 ぎりぎりのところで我慢している人も多いのだろう。

 「なんでこんなことで」と思われるようなきっかけで学校に来なくなるケースもあるだろうが,

 「こんなこと」は最後の1滴にすぎないのかもしれないという想像力をもっておいてほしい。


 たった一言が,中学生の心に深い傷を残してしまうようなこともある。

 今の時代は,この「中学生」の部分に,「教員」もあてはめて想定しておかなければならなくなっている。

 最もこたえてしまうのは,中学生の教員に対する評価の言葉かもしれない。

 「あの先生,たよりない」

 「あの先生は教え方が下手だ」

 「あの先生は問題のある生徒の前で堂々としていられない」

 「あの先生はすぐ逃げる」

 厳しい評価言である。

 こういう言葉を管理職が耳にして,教師にプレッシャーをかけたら,即,パワハラという時代なのだろうか。


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教育ブログを悪用する方法

 社員をうつ病に導く方法を指南するブログが公的な機関の調査の対象になっているらしい。

 うつ病になりたくない人は,そういう方法を会社に教えるサイトがあることを知っておくことも,

 防衛策の1つになり得ると思うのだが,

 やはり看板の立て方には課題があると言えるだろう。

 私のこのブログだって,

 「指導力不足教員をうつ病にかからせ,辞職させる方法」

 に応用することが可能である。


 現場の中学生は,小学校の先生たちの評価を非常に厳しいかたちで言葉にしてくれる。

 子どもにとっての良い評価という面でも,たとえば授業中にお菓子を食べさせてくれたとか,

 こちらとしてはダメ評価の材料になる情報として集積される。

 親が役員をしていれば露骨に教科の成績がよくなるとか,

 子どもでもわかる「大人の事情」というのはたくさんある。

 中学校でなぜ真実を述べることができるようになるかというと,

 「不正ができない」ことに気づいてくれるからである。

 公教育としてはそれが当たり前なのだが・・・。


 子どもたちの大人観察は,大人の大人観察よりよほど鋭いものであるという実感をもちながら教育をしている人は・・・教師だけでなく,親も含めて・・・どのくらいいるだろうか。

 保護者との面談でそれと悟られないように,

 子どもが勝手に話し出した親の醜態を聞かなかったことにするケースがとても多い。

 しかし,「いくら何でもそれはないだろう」という点は,

 まずは事実かどうか,確かめざるを得ないときがある。


 大人は,外では偉そうなことを言いながら,

 自分自身は自分が批判しているようなことをそのままそっくり家でやっている,

 ということが多いから,子どもなりに反抗する動機となるのである。

 子どもは大人の真似をするからこわい。

 中学生が書いているブログが,すべて真実に基づくものであるという保障はない。

 ~は~だ,と断定的に書いている内容が,ただの思い過ごしに過ぎないということは,いくらでもあるだろう。

 ただ,その本人は,そういうつもりでいるのだ,ということを受け手は知ることができる。


 真実であるかどうかよりも,

 まずは相手がどう思っているかどうかを知ることが大切だ,という前提がなければ,

 コミュニケーションなど成立のしようがない。

 とりあえず,悪用されることは望まない,という意思表示だけはしておこう。


 「悪用される危険があるから削除せよ」という話になると,

 いずれ,だれも何も言えない時代になってしまうだろう。

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ココログ・ブログの隠された?機能

 私のブログでは,痛烈な批判記事を書いて保存をしようとしたときに,

 なぜかエラーが出て,「戻る」を選択するとすべて書いた内容が消えてしまっているという事態がときどき起こる。

 瞬間的に「これを保存して公開するとまずい」ことを判定できるプログラムでも仕込まれているかのようである。

 先ほど消えてしまった原稿の趣旨は,

 ある大学の名誉教授が,教科教育に関する本の私の原稿を引用したときに,

 明らかな「孫引き」であるのに本来の出典を示さなかったことに関するものであった。
 
 それだけでなく,本の内容についての批判もしていたが,

 ちょっと厳しすぎる内容だったようだ。

 結局,胸の内にしまっておくことにした。

 言葉遊びで給料がもらえる人がうらやましい。


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心のシャットダウンと再起動

 中学校教育にかかわり続けていると,徐々に子どもの問題行動の背景が見えるようになってきた。

 若いときは,「子どもに問題がある」

 少しすると,「親に問題がある」

 時間がたつと,「教師の側に問題がある」

 現場から離れると,「社会に問題がある」

 この順番でだいたい教師は気づいていく。


 大人に嫌悪感を抱いたり,自分を大きく見せたりする態度は,

 成長の過程でだれもが経験することである。

 なかには,そういう態度を一切許さない教師や親がいて,

 子どもの健全な成長が邪魔されるケースもある。


 子ども時代にしっかりとした「抵抗の痕跡」が残せるような育て方が理想だと実感するまでは,長い時間がかかるだろう。

 
 大人が子ども化しているという話は,ところどころで話題になる。

 たった1つの過ちが,「絶対に許せないこと」になってしまう大人がいる。

 「それで終わり」。

 もう心の声すら届かない。

 「心のシャットダウン」である。


 シャットダウンされた心を再起動させることが教師の新たな仕事になっている。

 もちろん,教育現場には,シャットダウンした相手との関係をシャットダウンする人間もいる。

 しかしこれでは教育の仕事を放棄したことと同じになってしまう。

 あきらめてはいけない。

 難しい仕事ではある。

 この仕事の最大の敵は,「問題を自分自身の中に見いだせないという障害」である。

 しかし,「自分に問題があること」が発見できなければ,この先その人は

 とてつもなく大きなトラブルに巻きこまれないとも限らない。

 いきなり我が子に刺し殺されてからでは遅いのである。


 相手を批判したら,「攻撃してきた」と言われた。

 じゃあ,もう批判しない。かかわらない。

 
 これでは教師などつとまらない。

 教育現場には不要な人間である。


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自分に害をもたらした「職業」の人間はみんな敵

 教育ブログに詳しい方はおわかりのことと思うが,この「教育論・教育問題」カテゴリーには,とても「教育」とはほど遠い内容の記事ばかりをUPするサイトが存在している。

 障がい者への差別で注目を浴びようとする計算高いアメリカ人と似たような人である。

 自分に「害」「迷惑」をもたらした人間への恨み辛みを綴っているだけの何の役にも立たないブログである。

 症状は明らかすぎるほど明らかである。

 問題が自分にあることに気づけない。

 自分が問題だと言っている対象に,自分自身が含まれているということに気づけない。

 私はこういうのが学校現場でも多くの教員や児童生徒に迷惑をかけている現状を知っている人間である。

 気の毒なことに,教育現場は,「自浄作用」が働きにくい場所である。

 保護者や子どもの力が必要なのである。


 最近,小学校教育のひどさを表現力が豊かになった中学生たちから聞く機会が増えている。

 「大人のひどさ」を堂々と理路整然に訴える子どもは本当にたくましく見える。


 中学生にとって,中でも「ひどすぎる」というのが定評になっているのが小学校の「道徳」である。

 「道徳の評価」の導入によって,小学校教育はますます危機に陥るに違いない。

 文科省の人間たちもバカではないから,そういう未来には薄々気づいている。

 しかし,自分たちが責任をとらなくてすむ仕組みをつくっている。

 大学や現場からいろんな人間を寄せ集めて,「学習指導要領」を作り上げるのである。


 ある雑誌を読むと,道徳関係の記事だけ,内容の質が低くて違和感を覚える。

 良識のある人は道徳教育から手を引く準備を整えているところなのだろう。

 道徳がどうこういう前に,教師の質を向上させなければならない。

 最低でも,犯罪を起こさない教師を採用するように努力しなければならない。

 もし,学校現場が犯罪を起こす教師を作り出すシステムを持っているのであれば,

 早急に改善し,犯罪を起こすようになる教師が生まれない学校をつくらなければならない。

 
 小学校の教師を見て,「大人」を信用しない習性を身についた小学校7年生をずいぶん目にしてきたが,

 なぜそういう結果になったのかを,自らしっかり語れる人間に成長できていることを見ると,

 あながちそういう小学校教育も悪くないと思えてしまう気もしている。


 ~が悪い,と言って,自分のいたらなさから目をそむけるような人間になってはいけない。

 しかし,~が悪いのは~という理由だからだ,と語れる人間には,

 それなりの成長が見込めると判断できる。

 私たち中学校教師にできることは,

 「君もその悪い人と同じだね。」と投げかけてあげることである。

 そこで「はっ」としてくれる子どもを増やしていきたい。

 中学生1年生になれるか,小学校7年生のままでいるかどうかは,

 「自分も~と同じようにダメな人間だった」と気づけるかどうかにある。


 人間の成長をリアルの現場で目の当たりにできる教師という仕事は貴重なものである。

 教育ブログが腐敗臭のする欲求不満のはけ口にすぎないものにならないように,

 ご協力を続けたい次第である。


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教育管理職の悩みのタネ

 管理職を目指す人間が減っている。

 もはや,教員など経験せずに,管理職にだけなりたいという人間を別コースで採用しなければならない時代になるだろう。

 教育管理職にとって,最も手の焼けるのは,生徒が起こす問題ではなく,

 (問題行動などは,空気のように自然に発生するものである。問題を起こし,教師や親に叱られながら,子どもは成長していく)

 教員の服務事故である。

 セクハラ,体罰,飲酒運転など,問題は多岐にわたる。

 報道されている教員の問題は,氷山の一角に過ぎない。

 顔にあとがのこるような体罰はもちろん「教育的指導」とは呼べず,

 「傷害事件」として扱われるべきものである。

 教育委員会のコントロールも不能なのだろうか。

 ある校長は,教員の起こす問題を「事案」と表現していたが,

 こういう言葉づかいが親の怒りをさらに増幅する原因だと気づく感覚がないからこそ,

 ご丁寧に校名が入った正門まで全国ニュースに流されてしまう「有名校」になるのである。

 教師には異動があるが,転校しないほとんどの子ども,卒業生にとって,

 自分が在学している学校,卒業した学校が「事件」で報道されることは

 残念でならないだろう。

 
 教育委員会の事務局では,多発する教員の服務事故への対応に苦慮しているが,

 実名入りの服務事故報告をネットにUPするだけでは抑えになっていない。

 同じ時期にスマホで女性のスカートの中を盗撮し,懲戒免職になっている教員が複数名いたことには驚きである。

 校内の体罰ならともかく,予防のしようがない問題が多く発生している。

 管理職の指導監督力不足だと詰られて,減給処分を受け,テレビカメラの前で頭を下げる自分の姿に耐えられるような人間にしか勤まらない仕事なのか。

 20代,30代の服務事故も多発している。

 教員の質を上げるための施策が,国家運営上の優先事項になり得ない政治というのも悲しいものである。


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試験問題を持ち帰る教師

 学習の評価の研究を本当の意味で真剣にやろうとすると,時間はいくらあっても足りない。

 1日50分の授業を40人×5クラスに実施して,全員に評価をかえしてあげることは人間わざとして可能だろうか。

 私がつくる定期考査問題は,記述の部分が多く,かつ自由な意見も書けるようになっている関係で,

 採点に非常に多くの時間がかかる。

 1人につき5分かけると,2学年,400人分では1日24時間かけても終わらない。

 普通の勤務時間で言えば,4日分の労働である。

 こういうことを知っている人は,

 「教師が答案を持ち帰り,自分の子どもが他の生徒の答えを書き換えた」

 というニュースを見たときに,「気の毒な教師だ」という感想をわずかにもってくれるだろう。

 「事故」が発生したのは地方の「町」である。

 自分が教えているクラスに,自分の子どもが通っているような学校の規模は想像がつく。

 行政は,子どもをたくさんもっている教師を,過疎で生徒数が少ない地域に送り込み,生徒数の確保を図っているのである。

 私から見ると,「たった1クラスの答案くらい,学校で採点できるだろう」と思ってしまうが,

 いろいろ事情もあったのだろう。


 普通に考えれば,教師も子どももその学校にはもういられないはずである。

 「書き換える」行為は最低のことだとしても,

 「いつでもクラスメイトの点数を知り得た」という時点で,アウトである。


 同情できる部分もゼロではない。

 たとえば,2日間徹夜しないと答案が返却できない教師に,「答案持ち帰り禁止」を徹底させるということは,学校で寝泊まりせよという話になる。

 前の記事で実は言いたかったことは,これから書くことである。


 学校現場のこうした状況を最もよく知っているのは,指導主事である。

 指導主事はブラック鬼業を屁とも思わず長時間労働できる勤労マシーンが管理職から

 推されてなる仕事だから,「教員の勤務実態が異常である」という声を

 教育委員会内であげることをしない。


 だから,多くの教師たちに,指導主事は毛嫌いされるわけである。

 「私たちの苦しさをわかってくれない」張本人だから。

 
 教育委員会が文科省に毎年あげている教育課程の実施状況報告では,

 たった1時間,道徳の実施時間が少なくても大騒ぎする。

 35時間は「標準」なのであるが,「最低基準である」と言わんばかりの態度をとる。

 私の娘の小学校では,実態として,絶対に35時間やっているわけがない。

 小学校の教師は,平気で授業を変更したり,勝手な時間割を授業前日に知らせて,

 宿題もそれに合わせて出したりしている。国語だけやたら多い気がするが,

 娘の「連絡帳」で集計すれば,正確な「授業時数」が求められるはずだ。


 しかし,どうにか数字をごまかして,教育委員会には道徳を35時間やったことにして報告するだろう。

 ・・・・こういうことを,指導主事は知っているはずである。

 しかし,「本当にこれであってますか」とは聞かない。

 当たり前のように(慣例として)スルーして,上にあげていく。

 調査など,しても意味はないのである。

 そういう意味のない調査だということを教員たちは知っているから,

 「事務量を減らせ」と言ってくる。


 本当に意味のないことである。

 *****************************

 授業時数の報告は,学校ではなく,保護者にさせるのがベストである。

 *****************************

 「試験問題を持ち帰る」教師を責める資格をどれだけの教師や指導主事がもっているだろうか。

 そもそも,公立学校で,勤務校に自分の子どもが通っている教師がいるという状況に問題を感じない教育委員会事務局がどうかしている。

 子どもにとっても,他の学校の生徒の答案を書き換える意味はないはずだから,

 「防げた事故」であるともいえる。

 
 話はそれるかもしれないが,学校で採点させても,高校入試の採点ミスが大量に発生するという問題への対処法が,「マークシートの採用」というのは何とも事務方的な発想である。

 入試という大イベントでの,学習成果の発揮の場がマークシートになることで,子どもたちの学習意欲はさらに低下すると考えるのは私だけだろうか。

 
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教育の仕事に情熱をかたむけているのであれば

 障がい者を詰ることばかりに執着することはあるまい・・・という話ではない。


 若い人たちへの,われわれ年配教師の声は,届きにくくなっているのではないか,

 という心配というか,同情というか,無情というか,むなしさを感じ始めている。

 30代前半くらいまでは,学校で夜中の1時,2時まで次の日の授業準備をしていることもあった。

 「うちの学校には警備員は必要ありません」と本気で管理職に言おうとしていた時期もあった。

 警備員の退勤時間より長く勤務しているからである。


 いろんな原稿を頼まれている時期は,帰宅してから原稿を書くから,

 出版社に送るデータの更新日時が3時30分とかそういうものもよくあった。


 家族よりも,学校の近くに住んでいる保護者の方が,自分の帰宅時間を把握していた。・・・・


 こういう話を若い人にして,教師として尊敬される,ということはあるだろうか。

 同じような仲間たちと学習会などで集まってきた人たちは,「よくある話」「お互い様」として認識できるが,

 そこまで教育の仕事に没頭できる環境にない教師たちにとっては,

 むしろ迷惑な話ではないだろうか。

 「一緒にしないでほしい」と。


 教育という仕事への向き不向きを,「何時間でも学校にいられるかどうか」などで判断すべきだとは全く思わない。

 ただ,何時間いても苦にならないような人は,家族にとっては大迷惑(逆に喜ばれる場合もあるが・・)かもしれないが,きっと「疲れ」を感じることなく,いつも元気で子どもたちに向き合っているに違いない。

 そういうエネルギーを感じさせない人に,教師としての魅力は感じにくいといったら酷だろうか。


 私のような指導主事経験者は,こういう時間感覚を等しくもっていたと思う。10年くらい前までは。

 今ではどうだろうか。

  
 役所の事務方にとっての残業は,収入が増えるわけだから励みにもなるだろうが,指導主事には1銭もでない。

 こういう事態に不公平感をもつような人が行政に入るようになれば,ブラック鬼業脱却への一歩を踏み出せるかもしれない。

 そうでないと,嫌々長時間働いている教員たちが気の毒である。

 この「毒」は,子どもにマイナスの影響を与えるから「気の毒」なのである。


 余計なストレスを教育に情熱を感じない教師に与えるのは,子どもに悪影響を与える。


 教育に対する教師の投げやりな態度を見ると,怒りがわいてきてしまう。

 子どものことを思っているような雰囲気を装いながら,実際には責任を放棄しているに過ぎない学習形態を間近に見たときに,また改めてコメントしてみたい。


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アクティブラーニングを実践していない大学の先生がアクティブラーニングを語る不思議

 先日,某高校での研究協議会で,ある大学の先生が,流行病のような

 「アクティブラーニング」の実践授業の感想を,こんなふうに述べていました。

>「AL」は「アクション・ラーニング」のことみたいだ

 発表の仕方,話し合いの仕方は,よく訓練されている。

 しかし,それだけである。

 内容がない。

 これでは「アクション・ラーニング」にすぎない・・・と。

 
 学力が高まらないばかりか,実は主体的な学習態度など,

 どこにも発揮されていないことに気づけない人がいるのが不思議でなりません。

 
 ある雑誌でアクティブラーニングの特集が組まれたときに,

 書いている大学の先生の多くが自分ではそれを実践

 していないことに気づいた人がいたようですが,

 
 これは大学の先生たちがプロ野球のテレビ観戦で監督の采配がどうこうと

 議論している素人と同じような気がしますね。

 
 「アクション・ラーニング」が全然「アクティブ」に見えてこない理由が

 わかる人か,わからない人かは,書いている文章を読めばわかってしまうんですよ・・・。


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1億総活躍社会へのセブン・イレブンの挑戦

 日経新聞の記事『シニアがコンビニを変える セブンの挑戦 老いに克つ(1)』に注目した。

 セブン―イレブン・ジャパンの店員が全国に36万人もいるという数字にも驚いたが,

 紹介されている店員さんの年齢を見てびっくりした。73歳の女性である。

 高齢化する顧客への対応策として,シニアに活躍してもらうことを考えているようだ。

 年齢故のミスで,顧客からのクレームがあるという課題もあるようだが,

 ぜひこうした取組みは全国で進めていただきたい。

 記事では,「セブンの挑戦は,産業界のシニア活用の試金石となる可能性もある」と

 しめくくられている。

 何歳になっても,働きたくて働ける人が働く場所を得られるような国であってほしい。

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アスペルガー症候群診断チェック

 子どもに「お母さん,アスペじゃない?」と指摘されて,はっとしたという人の話を聞いて,

 インターネットで無料のアスペルガー症候群診断チェックがあるのを知り,

 自分でもやってみた。

 「成人の平均値よりも低いので特に問題なし」という診断結果であったが,

 もちろん診断をしてみた目的は質問項目の内容のチェックである。

 アスペルガー症候群の特徴は,

 特定のものへの「こだわり」にある。

 「記憶力がいい人」のうち,「他人の誕生日をすぐに覚えられる」という能力は,

 アスペルガー症候群であるからこそ獲得できているものかもしれない。

 必ずしも「障がい」とは言えない面があるということである。

 問題になるのは,会話でのコミュニケーションがとれるかどうかである。

 初対面の人と会話できないとか,

 話をしているときに,自分が切り出すタイミングがわからない,といった人は,

 少々社会生活が不便になるだろう。

 ネットがお友達になりやすい。

 「統合失調症」というものへの「こだわり」が異常に強い人がいるが,

 こういう人は「同じパターンを繰り返す」という特徴も合わせて持っていることが多い。

 社交性があるかないかは,書いている文章を読むだけでよくわかる。

 そもそも社交性がある人が,ブログを書いて喜んでいる暇はないだろうが・・・・。

 
 100人に1~2人というアスペルガー症候群の割合は,高いのか低いのか。

 会話をしたり,行動パターンを見たりしていれば他の人からは判断がつくから,

 「あの子,アスペルガーかもしれない」という予測は,それほど困難ではないだろう。

 「アスペルガー傾向」と意味を広げていくと,該当者は増えていく。

 そしてその傾向が,社会生活の何を困難にするかを大人は知っている。

 
 時間があったら,「アスペルガー症候群対策」を『学び合い』がどうしているのかを調べてみたい。


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「大人の言葉」が理解できない子ども

 子どもたちの発話能力が低下してきていることに気づいた。

 これは中学生の日常を映像でふりかえっているときにはっとし,

 確認することができた。

 いまさら説明するまでもないことだが,

 発話能力の低下は,聞き取り能力の低下がもたらす面も大きい。

 小学生の「聞き取り能力」がなぜ低下しているのか。

 それをくいとめる方法は何か。

 『学び合い』をほどほどにしておくことである。

 同じ年齢の子ども同士の会話が理解できただけでは,

 子どもは成長できない。

 少ない語彙を駆使して頑張っている姿はけなげで可愛らしいが,

 まるで小学校低学年のような中学生をたくさん目にするようになって,

 「大人の話を聞く時間を確保すること」の重要性を再認識した。

 「大人の話」は,当然,「雑談」なども含む。

 子どもたち同士の「雑談」では意味がない。

 「鍛錬」という言葉の意味は重要である。

 「聞いているだけでは耐えられない」という子どもに妥協した教師たちが奪っているものは何か。

 学術的に資料を収集,分析できる暇な人はいないだろうか。

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究極のブラック鬼業

 私は教育公務員なので,「残業代」の計算方法をよく知らない。

 学校の先生には「残業代」が支払われない仕組みなので,

 年間何兆円かの予算が節約できている。

 常総市の職員の残業代がニュースとなり,話題になっているが,

 学校の先生にも,恒常的な「サービス残業」以外に,

 幾多の突発的な「残業」が襲ってくる。

 保護者の面談で夜の9時10時は当たり前である。

 「夜回り先生」などという愛称があるようだが,

 私も夜中の1時2時に深夜徘徊の生徒を指導したことがある。

 部活動の指導をすれば給料がもらえるような仕組みになってしまったら,

 それこそ教員の給与のための予算はいくらあっても足りないだろう。

 もっと酷いのは,教育委員会の事務局で働いている指導主事である。

 教員の立場として仕事をしている指導主事には,

 同じ役所で夜中の2時まで働いても,普通の事務職員には出される「残業代」は

 1銭もでない。究極のブラック鬼業である。

 もちろん省庁で働いている人もそういう面があるのかもしれないが,

 「残業代」が出ない教員が可哀想,という世論がわき起こることは決してないだろう。

 ほとんどの教員は,「残業」という概念を持たされないまま,

 ひたすら働いて,たまに問題行動の生徒の親を学校に呼ぶと,

 「会社の休みをとった分の給料を補償しろ」とすごまれる。

 「あんたの子どものために,年にわずかしかない家族と夕食をともにする時間が奪われた」とは言えない。

 というか,言わない。

 教職は「聖職」だから。

 公務員として,人に尽くしているという実感がわく・・・?


 明日返却する試験の採点に,あと4時間はかかるだろう。

 今日も睡眠時間は2時間くらいになりそうだ。

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「異常++」たちの強さ

 LGに対する差別意識をなくすことは難しいだろう。

 特に「家の存続」や「少子化」を極端に気にしている人たちにとっては,

 「正常とは言えない」という価値観をくずすことは困難だろう。

 「異常++」と呼ばれた人たちの中で,

 そのような呼称をあえて自ら名乗るジョークで相手を惹きつける

 強さを持っている人もいるらしいが,

 言われて嫌な気持ちになる人が多いのは確かだろう。

 相手を傷つける意思が明確な場合は,

 確信犯的な差別主義者である。

 心の中までは強制も矯正もできないが,

 「こういう言葉を告げたら,相手は何の反論もゆるされずに傷つくだけで終わる」

 ことがわかった上で乱暴な言葉を使う文化は,

 ネット社会が広まるにつれて日本社会にも定着しつつある。

 小中学生のネットいじめはおそらくこれからも続発し,自殺者も後を絶たないだろう。

 人と人との直接的な肌感覚のコミュニケーションではないSNSでのやりとりでは,

 人を「強くする」ことはできない。

 「テレビ」では,間接的なかたちで「人間的なつながり」を目にすることができるが,

 LGの人々が活躍できる場所が,「テレビ」や「夜のお店」の中だけではないことを知る機会を増やすことが求められる。

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毎時間の授業が「書写」では,学力は向上しない

 小学校に限らず,中学校の中にも,ノートをきれいに書かせることに熱意を抱いて指導している教師がいる。

 中学校の場合は,ずぼらな教師も多いから,まともな板書計画もなく,

 脱線した話の内容も含めて黒板上に文字があふれていったりもする。

 「話を聞いていなかった人」は,黒板を見ても,何もわからない。

 一方,板書計画=手もとのメモどおりにきれいに黒板に字を並べている教師の場合は,

 授業中のほとんど何も聞いていなくても,最後の5分で黒板を写せてしまえば,

 何かわかったような気になることができる。

 たったこれだけの違いに,学力向上の鍵が隠されていることに気づけない教師はいないはずである。

 会議資料をだらだらと読んでいる人間に怒りを感じたことがない教師はいないだろう。

 教師は忙しいのである。

 読めばわかることに,音声は必要ない。

 実は,これと同じようなことを自分がしていることに気づけない教師が多いのだ。

 聞く力と書く力を育てたいのなら,板書など書かないことである。

 聞いたことを,自分でノートに文字にしていける力を伸ばしてあげるべきである。

 板書がへたくそな教師ほど,実は学力向上の役に立っているという話である。

 もちろん,この場面では板書が必要だというタイミングはある。

 思考を促す道具としての板書というのがある。

 これは,あらかじめ計画できない場合の方が多い。

 だから,指導力のあるなしが,学力向上にはずみをつけるか,足を引っ張るかの別れ道になる。

 意見がA,B,Cの3タイプ出て,両極端のA,Bと,どちらかというとAに近いCを黒板上でどう示すか。

 Aは見方を変えるとCに近くなり,Bとの距離も縮まるという場合はどうするか。

 自分の頭で理解できたことがらというのは,自分の言葉でノートに書くことができる。


 今,学校で行われている授業の多くが,「書写」の時間になっていないかどうか。

 自問すべきときである。

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女子の学力がみるみるうちに落ちてくる

 いずれ,本格的な調査結果が出されることになると予想している。

 女子の学力が落ちている。

 原因は,学力の低下が進む一部の女子にある。

 携帯電話を持ち始め,LINEなどのSNSにはまり始めて以後,

 携帯の画面に釘付けになっている時間が増えていることが原因と考えられる。

 寝不足のため,授業に身が入らなくなるのと同時に,

 家庭での学習,テスト前の学習の時間が減り,

 「勉強をしない子」から短時間で「勉強ができない子」に変貌していく。

 小学校高学年から中学校くらいまでは,

 成長の早い女子たちが男子の成績を上回るという学校も少なくないだろう。

 大学入試くらいになると,男女差はなくなるようだが,

 女子の実力低下は,いずれ思わぬ形でその実態が明らかになるに違いない。

 男子は昔から相変わらず,ゲームに夢中で家庭学習どころではない子どもたちがいる。

 似た状況になっている女子も増えている可能性がある。

 わずかな期間で,これほどまでの変化が起こっている実態をつかんでいる自治体はどれくらいあるだろう。

 データが物語る日が近いのではないか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より