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アクティブ・ラーニングで求められる評価~各教科を横断した評価の観点の創造

 小学生のころには多かった「我が子の作品」を親として見ることができる機会が,

 中学生になって減ってしまっている,という経験はないだろうか。

 定期考査がある教科なら,テストの点数である程度の評定の根拠が示されているが,

 美術や技術家庭などでは,「子どもがどんな作品をつくったのか知らない」という親が多い学校はないだろうか。

 たとえば「文化祭」や「学習発表会」といった学校行事で作品を公開している学校は多いかもしれない。

 私の勤務している学校では,すべての教科の「作品」を展示している。

 数学や理科,国語や社会にも「作品」があるということは,真の意味で主体的であるかどうかは別として,

 自分で課題をつくり,取り組む活動が授業などで実施されているということである。

 親としては,自分の子ども以外の生徒の作品にもふれることができる。

 もっとも行いやすい「評価」は相対評価であるが,本当に優れた作品を見て,素直に感動される方が多い。

 アクティブ・ラーニングの「評価」には,単なる「知識・技能」や「思考・表現力」とは異なる次元の指標が必要であることは,多くの教師が気づいている。

 社会科では,「発想力」を第5の観点として採用したいと考えているが,これはもともと美術科の観点(「発想や構想の能力」)でもある。

 「社会に開かれた教育課程」を編成するためには,「閉じられた各教科」をどうにかしなければならない。

 「各教科」の教育が,それぞれ独自の世界に入り浸っていて,お互いにどんな能力をどのように高めようとしているのか,中等教育の現場ではほとんどの人が関心がないのが一般的だろう。

 では,「各教科」を「開かれた教育課程」に位置付けるためには,どうしたらいいのか。

 独特な観点になっている国語の評価にもメスを入れるべきだろうし,上述のような「他の教科にもまたがる横断的な観点」が必要ではないか。 

 「資料活用の技能」は,国語でも数学でも高めてほしい能力である。

 「ただでさえ煩雑な評価の事務処理をさらに増やそうとするのか」という批判を受けそうだが,

 優秀な小学校教師なら,はるか昔から取り組んでいることだろう。

 ある横断的な評価をしているということは,対象となる能力を高めることを意識して,複数の教科で指導を行っているということである。

 中学校の場合には,他教科の教師による評価が効果的となる。

 自分の教科でつけたはずの能力が,他教科でどの程度発揮できているかを確かめることができるのだ。

 前任校では,総合的な学習の時間ですでにこうした評価を行っている。

 アクティブ・ラーニングはすでに総合的な学習の時間で行われているはずのものだということは,以前にも書いた。

 今後は,各教科を横断する評価の観点を,

 各学校が編成する教育課程の内容に応じて設定させる・・・・・

 私が教育長なら,そういうことを校長に命じたい。

 各学校の「教育課程編成能力」が問われ,「社会に選ばれる学校」がより見えやすくなるだろう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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