ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »

2015年11月

ゲームのために見殺しにされる子どもたち

 戦争や飢餓で亡くなる子どもたちを一人でも少なくしたい。

 この国の足元ではどのようなことが起こっているか。

 生まれて間もない子どもが,親のわずかな不注意で命を落とす事故がときどき報道されている。

 親が家でゆっくりとゲームをするために,ゴミ箱に押し込められて一生を終えた子どもは,だれがどのように弔うのだろう。

 こういう子どもの「代弁者」はいないのだろうか。

 教育現場にいる者に対して,ある人たちは声高に,

 「道徳教育がなってないからだ」と詰め寄ってくるかもしれない。

 人種差別発言の自称サポーターや,

 同性愛者への偏見を「酒に酔った勢いで」つぶやいた市議にも,

 「道徳教育」が足りなかったのだろうか。

 特別の教科道徳で,低い評価を得た人間に対して,たとえば

 中国のように,「子どもを産んでよい人」と「子どもを産んではいけない人」を分けるべきだという話になるのだろうか。

 評価を出すということの意味が,教育現場内でも惰性だったり非常に軽い「ノリ」で語られることがあるが,

 人間の評価とはとても重いものである。

 子どもの命よりもゲームを重んじた親に,どういう評価を下せば満足できるというのか。

 教育は「変える力」を与えてくれるものである。

 しかし,教育自体が悪い方向に変わっていくのが残念でならない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教育は簡単に要約して語れるほど単純な仕事ではない

 どうしたらこのように自治意識が高い生徒が育つのですか?

 どうしたらこれくらいのレベルの発表ができるようになるのですか?

 生活指導や学習指導などの場面で,こちらの教育を賞賛していただくような趣旨で,このような言葉を投げかけてくださる方がときどきいらっしゃる。

 ごくまれに,本当にその理由を知りたいと思ってか,「回答」を真剣な表情で待って下さる方もいる。

 しかし,立ち話で語れるほど,「生徒の自治意識を高めること」や「内容を伴うプレゼン能力を高めること」は簡単な話ではない。

 それは朝の挨拶から帰りの挨拶を行うまでのすべての場で行っていることの積み重ねで可能になることである。

 全国大会などの発表の後の質疑応答でも,このようなレベルの質問が飛び出すことがあるが,

 「教育の総体」が答えであることに気づけない人は,どんな大会に参加しても,

 自らの教育力を高めることはできないだろう。

 安易な実践本が,「ラクして成果を出す」風潮に拍車をかけている。

 安易な実践本を安易に利用して,失敗してから気づいてからでは遅い。
 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教育を「学校」という枠内からでしか見ることができない人たち

 親の年収によって子どもの学力が左右されているという実態は,

 学校教育の善し悪しにあるとは限らない。

 塾に通っている,通っていないの違いとも限らない。

 何が子どもの才能を開花させるのか。

 私が決して軽視できないと感じているのは,

 小さいときの「遊び」の質である。

 質の高い「遊び」を経験させるには,それなりの経済的・精神的なゆとりが必要かもしれない。

 経済的なゆとりというのは,たとえば年収1000万円以上とか,

 そういう話ではなく,子どもにお金をつかっていこうとする親の意思によって左右される。

 「そんなこと,学校教育に求めるつもりはない」

 と思われることが,次々に学校に入り込んでいないか,チェックすることが必要だろう。

 子育てをしたことがない人には想像しにくいことかもしれないが,

 子どもが成長のための糧を手に入れる場は,学校だけとは限らない。

 自分の子ども時代を想像してみるだけでもわかるかもしれない。

 「本当に,学校はどんな力を自分に身につけさせてくれたのか」と自問してみる。

 協調性,粘り強さ,あきらめない精神,規範意識・・・・さまざまあるだろうが,

 各教科の果たしている役割を根本的なところから分析する時期に来ているのかもしれない。

 家庭でできることに関しては,学校は手出しをしない。

 家庭でできることかどうかを親が判断して,学校でしてくれることを望むカリキュラムがあるところを選ぶ。

 そういう仕組みが必要になる時期がくるかもしれない。

 「こういうことをしてくれるのなら,やはり通わせたい」と親に思わせてくれるような学校づくりができるのはどこだろう。

 「昔あったのだから,今も残しておくべきだ」という発想は,

 そもそもの日本文化の根底にある考え方でもあり,これを捨て去るには相当の勇気がいるだろう。

 しかし,教育の面に限って言えば,このままでは学校は「パンク」する。

 機能不全に陥ることで,ますます魅力も成果も霞んでいく,そんな未来の学校は見たくない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

YDKという信念

 どんな親でも,ある時期までは子どもの成長に期待をかける。

 小学校段階では不明だった学力のレベルも,

 中学校・高校段階だと非情にも思い知らされることになるが,

 「やれば(もっと)できる子」という信念を親は捨てることが難しい。

 塾に行かなければ勉強に進んで取り組まない,という親の悩みを解消してくれるのは塾ではない。

 塾に通わずとも自らしっかり勉強に取り組める方法を教えてくれる塾の経営は成り立たない。

 どんな教育を工夫しても,残念ながら,最後は塾頼みという痛い現実を,「ご本尊」も語っていらっしゃる。

 根拠のない自信を抱ける人間は強いというが,

 それを砕いてあげるのが教師の役割だと思う人は少数派だろう。

 YDKであふれる世の中が変えてしまう将来とは何だろう。

 壁を乗り越える経験をさせるには,壁に直面させなければならない。

 自ら壁に向かって歩ける子どもを育ててくれる学校を,親は選ぶだろうか。

 整理されないまま,次々に疑問が積もっていく。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

ペーパーテストの機能を軽視することによる学力低下問題

 公立の小学校や中学校で,「テストが好きか嫌いか」というアンケートをとったら,多くの児童生徒が「嫌い」と答えることは目に見えている。

 「嫌いでも栄養のあるものは食べるべきだ」という話と同様に,

 「嫌いだからといって避けていてはいけない」ことは,子ども自身がよくわかっているはずである。

 しかし,「嫌いなものを強制する」といって反発する子どもを抑えられない教師は,

 本当にテストをやらなくなってしまう。

 親の苦情も避けたいがために,
 
 給食で,「嫌いな食べ物は残して良い」という指導も近年では当たり前になっているところもあるらしい。

 「好き嫌い」にやたらとこだわって,

 「いかに好きになってもらおうか」と考えるのが小学校教師の思考パターンである。

 中等教育より上の世界では,

 「好きとか嫌いとかの問題ではない」ことが当たり前になるが,

 この「ギャップ」は非常に大きい。

 小中一貫校をつくってしまうと,

 そもそもが「ギャップ解消」のためだから,

 9年間全部が「小学校風」になりかねない。

 真性の小学校9年生が,高校受験に臨むことになる。

 ペーパーテストには,「次の学習に進むための準備が整っているか」というチェックを行う機能もある。

 「準備ができているかどうかわからないのに,どんどん先に進む」ことがよいことなのかどうか。

 「ペーパーテストといえば,成績や順位をつけるためのもの」と固定観念でとらえている人間は,

 「評価にはさまざまな機能があり,異なる時期に異なる目的で実施するものがある」ことを,

 あらためて教職課程の学習に立ち返るつもりで復習しておいてほしい。

 少なくとも,「プレテスト」「ミッドテスト」「ポストテスト」の目的と結果の活用法くらいは理解した上で,実際に運用することで「テストの大切さ」を実感しなおしてもらいたい。

 私の実感では,これらのテストとは別に,「(学習したことがらを)忘れかけた頃のテスト」が非常に有効的である。

 単純に「覚えていた」ということではなく,「理解できていた」ことを証明できるようなテストづくりに励んでいきたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

そんなに子どもの未来は暗いのか?

 斬新な教育というのは,成果が上がらなければ叩かれる。

 小学校の教師は,目先の成果を手に入れたくて,100マス計算などにすぐにとびついたりしたが,

 別に教員免許をもっていなくてもできてしまうような仕事に疑問を感じる人が少なくなかったようだ。

 「そんなことをしている時間があったら,他にいくらでもすることがあるはずだ」とは

 思えないほど,小学校というのは時間の使い方に苦労しているようである。

 その代表的な例が,45分間という尺がもたないために,15分×3のようなユニットに分けて

 授業をするというものだった。

 私がたまたま授業参観にいったとき,15分で別の内容に切り替わるとき,子どもが教師に訴えていた。

 「続きをやりたい!」

 しかし,教師は指導案どおりに授業を進めることを最重要視していたようで,子どもの希望は無視された。

 中学校では,絶対にあり得ない15分×3のユニット方式が,なぜ小学校では「よい方法」として認識されてしまうことがあるのか。

 話は簡単で,「内容に乏しい」からである。

 「子どもをひきつけることができる内容」」を教師が用意するゆとりや能力がないから,

 15分以上,1つの単元で学習を継続することが困難だからだろう。

 
 「教師が子どもに興味・関心をもたせる授業ができない」ことが公然の事実になってしまったために,

 『学び合い』の方が効果が出ることが証明されたりもしている。

 教師は「見取り」だけやっていればよいという。

 
 子どもの未来が暗いという実感を強く抱くことになる原因は,さまざまである。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

小学校統廃合問題~小規模校を存続させる「地域の声」

 歴史の古い小学校は,在学している子どものためではなく,卒業生や地域の人々のために存続しているというケースが多い。

 中学校と比べ,小学校には100年以上の伝統がある学校が多いからつぶしにくい,というのが全国的にも見られる傾向だろう。

 昨日訪問させていただいた中学校には,小学校に隣接していたが,100mも離れていないところに別の小学校がある。

 日本の財政状況を踏まえれば,目の鼻の先にクラス数の少ない小学校が2つも並んでいることを存続させるゆとりなどないはずである。

 少子化は,子どもたちから大集団での行動様式や集団で活動する活力を奪うという悪影響を及ぼしてきた。

 財政状況はもちろん,子どもの教育の中身を考えれば,小規模の小学校は統廃合すべきである。

 しかし地元に有力者が1人でもいることで,首長が決断を下せない。

 もし廃校ということになれば,地元の人々や卒業生たちも動くかもしれないが,自分たちの子ども時代とは異なる,本当にごじんまりとした運動会や学芸会を見てみれば,少しは気持ちが変わるかもしれない。

 国が「適正規模」という言葉ではなく,人口何十万人の都市では「最低規模」を満たさない学校は廃校にするという規定を法律に加えることで,自治体の「憂鬱」は解消される。

 それでも地域の小学校を存続させたいという住民の声があるのなら,「存続税」を課すなどの方法をとるべきである。

 住民がお金を出して運営するというかたちの学校にしてもよい。

 いずれにせよ,犠牲になっているのは今の子どもたちである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

プレミア12・韓国代表チーム・金監督の金言

 9回表に3点差を逆転され,韓国に敗れた日本代表。

 WBCで見覚えのある,韓国代表チーム監督が語ったとされる言葉は,

 敵チームである日本への(大谷投手への)素直な賞賛の気持ちがこもっており,

 国際大会でのコメントとしてはとても素晴らしいものだったと思う。

 「強者が弱者に負けることもある」という趣旨の言葉である。

 7回まで1安打に抑え込まれていた攻撃陣が,最終回に火を噴いた。

 日本側は継投ミスを認めているようだが,それで打たれた投手が浮かばれることはない。

 韓国の攻撃力,粘り,集中力が日本を上回ったのである。

 平気で相手に憎まれるような言葉を投げつけられる人ではなく,

 相手側にも配慮したコメントを発表できる人は多くないだろう。

 配慮しただけで「非国民」扱いされる国にだけはならないでほしい。

 よきライバルがいるからこそ,お互いに向上できる。

 今後,よりよい日韓関係が結べていけることを期待したい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「覚える」ことより「思い出す」ことを訓練することで創造力が高まる

 読書編と同名のタイトルですが,教師として,「思い出す」「記憶から引っ張り出す」という行為を,どれだけ日常的に(反射的に)行えているか,ふり返ってみることにしました。

 多くは,「比較」のパターンです。

 あの生徒の表情は,昨日に比べてどうか。

 ここであの生徒は,昔だったら,どのような発言をしただろうか。

 自分は,このような場面で,どういう言葉を生徒にかけただろうか。

 その言葉はどのように響いていっただろうか。

 教師一般は,どういうときに「思い出そう」「記憶から引っ張り出そう」としているのでしょう。

 どういう「思い出し方」「引き出し方」が,自分(教師)自身にとっても,子どもにとっても,プラスにはたらくようになるのでしょうか。

 授業の場面。

 生活指導の場面。

 行事運営の場面。

 保護者対応の場面。

 事故の場面。

 どのような「思い出し方」が,新たな創造に結び付いていくのか。

 ただ単純に,「成功例」を「思い出す」だけではダメのような気がしませんか。

 「よくできました」で日々の活動が終わってしまっていては,よりよい成長は図れないと思いませんか。

 どんなに「うまくいった」と満足したくても,「どこかに不足している点はなかったか」という省察が必要でしょう。

 「創造」の一歩手前に「改善」がありますが,単なる「改善」で終わってしまうようでは,さらなる成長は図れません。

 戦に負けた後に描かせたという徳川家康の肖像画。

 家康の創造力の源泉になっていたように思えてきます。

 「覚えよう!」ではなく,「(いつでも)思い出せるようにしよう!」と子どもに伝えることにも大きな意義が認められるかもしれません。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

考えることを「快楽」と脳に認識させる方法

 考えることが「快楽」であると脳が認識すると,

 難しい問題に出会って頭を使うことが「苦痛」ではなくなる。

 全く反対に,「楽しい」時間になるのだ。

 こういう体験を子どもたちのグループ学習でさせることは,かなり難しい。

 一度,グループで考えさせた後,必ず一斉授業のかたちにもっていかなければならない。

 一斉授業は,「学ぶことは楽しいこと」「頭を使うことはいいこと」という実感をもたせるのに最適である。

 ただし,教師の側に力量が必要である。

 教材の力も借りなければならない。

 「友達と一緒に話ができた」から「学習が楽しい」のではなく,

 「自分の頭をしっかりと使って考えることができた」から「脳が喜んでいる」という感覚をもたせてあげたい。

 ただひたすらプリントをやっただけで,「楽しい」と思うほど人間は単純ではない。

 丸がもらえるからうれしくなる子どももいるだろう。

 たくさん進んだことにうれしさを感じる子どももいるだろう。
 
 しかし,脳が本当に喜ぶのは,単純作業をしているときではない。

 自分より何段階も高いレベルにいる人からでないと,

 伝わってこないものがある。

 教育は教師が子どもの能力を引き出すものだと考えている人が多いだろうが,

 私は逆に,子どもが教師の能力を引き出すことに成功するとき,

 教育は大きな成果をあげられるものだと考えている。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教えることが快楽である教師にとって,アクティブ・ラーニングはつらい

 何時間でもおしゃべりできる人がいる。

 もちろん,無理をしてではない。

 おしゃべりすることが好きなのである。

 脳がそれを快楽と受け止めている間は,

 「疲れ」など知らない。

 
 教師の中には,この「おしゃべり」を得意とする者がいる。

 50分間しゃべり通しでも,全く疲れない。

 不幸なことに(実は幸せなことなのだが),

 1日6コマ全部埋まっている日ですら,

 しゃべり通して満足そうな顔をしていられる。


 子どもはけっこう忙しい。

 教師の話をメモしなければならない。


 ものすごい量の文字をノートに書くことになる。

 これが学力向上のわかりやすいかたちであることに,

 気づいていない人は多い。
 
 こういう教師の授業を受けて,高い成績を残す生徒が多ければ,

 保護者から批判を受けることもないだろう。

 
 だが,「アクティブ・ラーニング」の大切さに気づく人が増えてくると,

 「おしゃべり中心の授業」は居場所がなくなっていく。

 「教えること」=「教師が話すこと」だから教育の仕事がやりがいがある,

 と思っていた教師には,厳しい時代がやってくる。


 アクティブ・ラーニングでは,当然,教師の「おしゃべり」の時間が少なくなる。

 そうすると,「おしゃべり」で快楽を得ていた脳は,

 それを我慢しなければならなくなると,「苦痛」を訴え始めるようになる。


 私語を禁止されていたたまれなくなる子どもと,実はあまり違いはない。

 アクティブ・ラーニングは,学ぶこと自体に快楽を覚える子どもを増やす可能性がある。

  
 そこが実は,アクティブ・ラーニングの最大の落とし穴になる。

 どうして,「学ぶこと」が楽しんでできるようになるのに,「落とし穴」になるのか。

 
 今まで「基礎・基本」と呼ばれていたものが,

 アクティブ・ラーニングによっておろそかになるということに気づく研究者もやがて出てくるだろう。

 現場の教師なら,だれでも知っている。


 私の教え子の中に,意欲は非常に高い一方で,ろくに漢字が書けない子どもが多かった。

 小学校6年間の「成果」は非常に重い。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

5W1Hは順序も大事

 読書編で紹介した堀裕嗣さんの本の第1講は,

 「HOW」から「WHY」への転換というタイトルがついていたが,

 誤解のないように紹介するには,「HOW」の前に「WHY」がなければならない,

 という趣旨の警句として理解すべきであると言うべきかもしれない。

 もっと言うなら,「5W1H」の順を大切にしよう,という話になる。

 「5W1H」は事件を報道する新聞記者や聞き取りをする警察官の専売特許ではなく,

 教師たちも日常の業務で確認しておくべきポイントである。

 まず,「いつ」やるのか。ここから「どのように」に進むことは可能である。

 「どこで」やるのか。やはり,ここから「どのように」へと進めることもできる。

 「だれが」やるのか。

 「何を」やるのか。

 「なぜ」やるのか。

 最後が「どのように」になっていることは,とても大切である。

 歴史学習の大観をどのようにやったらいいかわからない。

 そう困る前に,「なぜ」歴史の大観をするのか,その必要があるのかを知ることが大切である。

 大観とは,歴史の何を考えることなのか。何のためなのか。

 それがわからずに「どのように」も何もない。

 
 「学習指導要領にやれと書いてあるから」ではお話にならない。

 学習指導要領の解説を実際に読んでいれば,そういう答えにはならないはずである。

 
 子どもはどうやって叱ったらいいのだろう。

 その前に,子どもを叱るのは何のためなのかを考える。

 何を叱ろうとしているのかがはっきりしないまま,叱っていないだろうか。

 
 叱るべきタイミング=「いつ」を間違う人も多い。

 さすがに「場」を間違う人はいないように思えるかもしれないが,

 教師ならやりかねない。


 だれが叱るのがベストだろう。

 そういう発想をするチャンスを与えてくれるのが,


 「5W1H」というフレーズである。

 単に疑問詞をひとまとめにしているだけではない。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

小中一貫校教師たちの悩み

 中1ギャップで苦しむ子どもがいるのはわかるが,

 それが「成長のための苦しみ」であれば,あえてさせてあげるという社会であれば,子どもたちは幸せである。

 しかし,時代は常なる「幸福追求権」を重視し,あらゆる「苦痛」を取り除こうとする道を選んでいく。

 こうして「小中一貫校」が生まれるわけだが,「苦痛」は中学校教師たちを襲っている。

 「小学校7年生」とは単に「中学生になりきれない子ども」を揶揄する言葉だったのだが,

 真性の「小学校7年生」や「小学校8年生」が続出しているという。

 やっと中学生になったと思ったら,もう高校受験である。

 小中一貫校内では,おそらくこのような「悩み」は共有されないままであろう。

 財政的に「優しい」制度が,教育的に「正しい」かどうか,そろそろ本格的な検証結果が出され始めてもよいかもしれない。

 制度を支えるために,小中一貫校には力量のある教師を集中させるという方法をとる。

 実態は,制度がよいのではなく,教師が優秀だから,何とかもっているという状況だろうが,

 そういう報告が公表されることはないだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

連日お集まりの方々の悩み

 こちらのブログを閲覧していただいた方々の検索語は毎週欠かさずチェックしているが,

 ここのところ急に目立って増えているのが

 小学校の問題である。

 小学校の教師もたいへんなのはわかる。

 正直,子どもの顔など見たくもないという気持ちで仕方なく公務員を続けている人もいるだろう。

 人間だから,1日くらいは,教室を放り出したくなる気持ちはわからないでもない。

 しかし,授業を3日間もしなかったとか,2週間続けて休んだとか,

 そういうことが頻繁に起こってくるのは考えものである(実体験から)。


 小学校は,子どもも幼いが親も若い人が多い。

 上の子どもが初めて小学校に入学したような人は,

 自分も「小学生の親」1年生である。

 だから何もわからないまま,だれにも相談できずに苦しんでいる人が少なからずいるはずである。


 小学校の教師の方こそ悩んでおり,出口が見えずに苦しんでいる側かもしれない。

 こういう関係の中でも子どもがまともに育っていることも多いのだから,

 人間というのはすごい生きものである。


 中学校のように,毎日毎日,いろんな生徒や教師と話を交わさないと教育が成立しないところとは違って,小学校の場合は教室に引きこもっていてもだれも気づかなかったりすることがある。

 職員室にいられないから教室に引きこもる若い担任教師の割合がどのくらいいるか,

 管理職たちはご存じだろうか。


 いろいろな悩みは,部外者に相談しても実際には何も解決しないことが多い。

 当事者同士が必ずコミュニケーションをとらないといけない。


 小学校が抱える最大の問題は,

 コミュニケーション不全でも,一応,仕事をしていることにできる点にある。

 採点を放棄していた教師がいるのもうなずける。

 中学校なら,学年全体に迷惑をかかるから,締め切りを過ぎることは不可能である。


 重たい仕事でありながら,非常に緩い職場環境が,

 重度の精神的な課題を抱えた教師に気づけないままでいないかどうか。

 こういう問題を想像したり,解決に結びつけようとしたりする意欲をもてる人はだれだろう。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

教員免許更新講習~参加するに値する講座づくりをめざして

 お金を払って参加する教員免許更新講習。

 費用に見合うものを得られた実感があったかどうか。

 何を学べたか。受講者からは必ずアンケートをとるようになっている。

 おおむね「ためになった」ことを書いてくれるものばかりだが,

 中には「イヤイヤ来た」ことがバレバレの人もいる。

 「学ぶ姿勢を教える人間こそ教師」なんていう攻撃も,

 気の毒になるような講習も中にはあるのだろう。


 今週末,講習のための授業がある。

 以前に長期研修で研究に参加してくださった先生が,

 またおいでくださることがわかった。

 直線距離でも500㎞以上離れた地域からご参加いただく。

 ありがたいとしか言いようがない。

 
 準備のために今週は久しぶりに頭を使って,

 昨日決めた教材で授業を行うことにした。

 「私ならこうはやらない」という手法をあえてとって,

 ご批判をいただく覚悟で臨む授業である。

 教師は授業に命を賭けている。

 
 字が違うとかいう問題ではない。

 子どもたちの可能性に駆けている。


 臨場感と一体感をめざした授業は,生活指導の一環でもあるが,

 知的好奇心を最大限に刺激したい。

 そんな気持ちで指導案の仕上げにとりかかっている。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

○○教育の限界と「当たり前」の教育の可能性

 道徳教育についても言えることだが,

 新しく登場する○○教育は,実践していると

 「空しさ」を感じることが多い。

 ○○の能力を高めることがねらいの教育だが,

 全員を対象とした一斉授業のかたちでは,

 能力がもともとある生徒がより能力を高め,

 能力に課題がある生徒に成果が表れない・・・・

 聞いてほしい生徒には届かない・・・・

 という「格差拡大」の機会となってしまうことが多い。

 よく「どのような子どものレベルに合わせて授業を設計しますか」

 と聞かれることがあるが,一斉授業でも,さまざまな子どもの

 レベルに合った学習活動の場面があるものである。

 それでも,格差が開くことは避けられない現実がある。

 その解決策とは何だろうか。


 格差の開きが著しい学校と,そうでない学校との比較をしてみると,

 「当たり前」の教育・・・子どもの日直や清掃活動をはじめとした・・・

 が実現しているところでは,その格差の開きもやや抑えられているはずである。


 どの学校にとっても大切なことは「当たり前」のことが

 「当たり前」にできるようにする教育であることは間違いないだろう。
 
 しかし,教科の指導で「当たり前」であるはずのこと・・・・たとえば,

 学習指導要領に示された目標を実現するために,

 内容を精選したり,方法に工夫を加えたりする工夫がなされているかというと,

 単に教科書の内容を「教え合ったりする」学習が行われているだけであったりと,

 非常に疑わしい面もある。


 ○○教育については,総合的な学習の時間を使って行われるのが一般的であろうから,

 そこに「本来のねらい」を達成させるためのヒントがあるはずである。

 生徒は,自らの興味・関心に応じて課題を設定して追究し,レポートにまとめたり,発表したりする。

 
 この「発表場面」こそ,課題を抱える一人一人の能力を最大限に高める機会であるという認識をもっている学校はどのくらいあるだろうか。

 
 薬物乱用防止のための教育の必要性がすぐに叫ばれるだろう。

 道徳の授業で,表面的に全体に「お話をする」「講話をしてもらう」だけでは,

 期待する効果は得られない可能性が高い。


 ただ言えることは,「薬物乱用のための教育はしました」という言い訳ができることだけである。

 防災教育・・・避難訓練も同じ。

 いざというとき,役に立たなければ意味がない。

 
 特別なことは何もしていないが,当たり前のことが当たり目にできている学校と,

 ○○教育をやっていることになっているが,当たり前のことができていない学校を比べて,

 いざというときに困らないのはどちらであるか,説明するまでもないだろう。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

パラ休日を実現させるには

 読売新聞から配信されたニュースによれば,日本パラリンピック委員会の会長は,2020年東京パラリンピックへの若い世代の参加意識を盛り上げるために,開催期間中は全国の小中学校を休日にすることを提案したそうだ。

 東京パラリンピックの期間は8月25日から9月6日までである。

 夏休みを1週間短縮している自治体もある中で,逆に1週間伸ばそうというのだが,

 とすると夏休みは8月上旬から始めなければならないことになる。

 そもそも「休日」などない日々を送っている中学生や部活動の顧問からすれば,

 「学校に休日など必要ない」と叫んでしまいそうな暴論だが,

 逆に「部活動の試合がたくさんできる」と喜んでしまう人がいるかもしれない。

 「秋季大会が9月の上旬にできてしまう」という考え方もある。


 学校週5日制にしたところで,結局土曜日は本来願ったかたちでは過ごされなかった。

 仮にパラリンピック中,小中学生をボランティア活動に参加させようとしても,

 「数が多すぎる」という問題に直面するだろう。

 
 体験活動などを学校は用意したいが,すべての学校が休みになれば,

 施設も場所も足りなくなる。

 
 そもそもオリ・パラともに,猛暑のなか,死を覚悟で行う競技が続出するだろうから,

 子どもも「被害者」になりかねない。

 
 平日に子どもが学校に休みになったときの,親のたいへんさを会長さんは知らないのだろう。

 「交通の混雑の解消」という目的もよくわからない。

 通学の子どもが邪魔ということか?


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

ICT教育に未来はあるのか?

 今週は,IT関連の方とお話する機会があって,その技術が学校現場にどのように応用できるかを検討させてもらいました。

 最終的には,教育現場は「お金がない」で話が全部ストップしてしまう無力感がやるせないところです。

 お金の使い途を決めるのはもうすぐ仕事ができなくなる人たちばかりだから,

 「未来投資」みたいな教育の世界になど,ほとんど関心がないことが残念でなりません。

 公立の小中学校などは,図書室の本すらろくに購入できないのですから,

 ICT機器をそろえたりとか,インターネットが常時使える環境づくりをするなどは,

 大きな都市では実現できません。地方都市が失敗するのを横目で見ながらアイデアが出ても簡単にスルーしていきます。

 そもそも,お金の使い途を決める人たちにICTを使いこなす能力がないわけだから,

 まともな判断力が働くとは思えません。

 ICT教育という言葉も,非常に空しく響きます。

 学校でやらなくても,家庭で使っている子どもはどんどん増えています。

 教師よりも子どもの方がリテラシーが高いものを,わざわざ時間をさいて教師が教える必要はないし,

 それこそ『学び合い』をやってくれ,という話です。

 IT企業には,利益が出ていないところもあります。

 開発費ばかりが膨大にかかっている。

 ゲームの会社が頑張っているとしても,それが本当に世の中の役に立つ意義深い仕事だと胸を張って言える人はいるのでしょうか。

 小中学生の親にとってみえば天敵のようなものです。

 ただ,ゲームはお金になる。

 教育ではお金にならない。

 いっそのこと,まるごと教育をゲームにしてみたら・・・という発想をする人が出てくるかもしれませんね。

 話がそれました。

 ICT教育には,メディアリテラシーを身につけさせる,という重要な意義もあります。

 しかし,これは保護者経由で教育させるのが一番でしょう。

 ありとあらゆる意味で,そうすべきです。

 学校の授業中は,睡眠時間。

 放課後,有名講師の話をパソコンで聞く。

 深夜過ぎまでゲームをする。

 学校の授業中は,睡眠時間。

 これで大学に入れる時代です。

 ICT教育の存在意義は何でしょう。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「自己愛人間」と「自己愛性パーソナリティ障害」の違い

 自己肯定感が低いために問題行動を起こす子どもがいる一方で,

 「自己愛人間」あるいは「自己愛性パーソナリティ障害」になる疑いがある子どもも少なくない。

 精神科医の香山リカ氏が,エンブレム問題の佐野さんとSTAP細胞の小保方さんを例に,

 2つの違いをわかりやすく解説してくれていた。

 障害の方は,妄想を真実だと思い込むことに特徴があり,
 
 エリートの中にこういうタイプがいると,社会は迷惑することになるだろう。

 生活指導の場面では,教師たちが「激怒」しかねないやりとりがよく起こるが,
 
 障害に近いものを生徒が持っていることを知った上だと,少し落ち着いて話ができる。

 すぐに見えすいた嘘をつくくらいなら,目を見ればわかるから,生育歴の気の毒さに思いが寄せられるが,

 嘘をついている自覚が全く見られない子どももいる。

 真実とは違う何かを脳は真実として認識しているようで,

 目の前で多くの人に見られていることを,「私はしていない」と言い張るならまだしも,

 「やったのはあなたの方だ」と矛先を変える。

 当然,言われた方は激怒する。

 しかし,相手が激怒している「理由」がわからない。

 なかなか話がまとまらないのが「生活指導」という教師のお仕事である。

 自己愛性パーソナリティ障害は,成人期早期に始まるという。

 少々,メモを残しておく。

*******************

 キーワード  誇大妄想。賞賛されたいという欲求。共感の欠如。

○ 自己の重要性に関する誇大な感覚

  たいしたことをしていないのに,優れていると認められることを期待する。  

○ 自分は特別だという意識。自分を理解できるのは特別な人だけだ,と思い込む。

○ 過剰な賞賛を求める。

○ 自分に対して特別に有利な取り計らいをしてもらうことを期待する。理由もなく。

○ 自分自身の目的を達成するために他人を利用する。

○ 他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない。それに気づこうともしない。

○ よく他人に嫉妬する。他人が自分に嫉妬していると思い込む。

○ 尊大で倣慢な言葉づかいや,行動,態度をとる。

********************

 ああ,いるいる,という実感がわいてきますね。

 ブロガーの個人チェックリスト。 

○ 俺はこんなすごいものを持っている,知識もすごいぞ,と自慢したがる記事を書いていないか。

○ 自分で他人になりすました賞賛コメントを自分のブログに入れていないか。

○ 子どものためといいながら身勝手な教育をして,自分の実践の成果だと書いていないか。

○ 人気のある記事,人気の高い先生に嫉妬し,何でもかんでも非難するような記事を書いていないか。

○ 相手を批判するときに,人格攻撃に走っていないか。「頭がおかしい」などと他人に向けて書いていないか。

○ ブログのタイトルとは全く異なる趣旨の記事ばかりを書いていないか。

○ 自分がバカにされていると気づこうとしないまま,上記のようなことを続けていないか。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「未来志向」の反対語は何だろう?

 日本と中国・韓国との首脳会談を経て。

 安倍首相の語る「未来志向の日韓関係」とは,どのような関係のことか。

 単に「将来世代に負の財産を残さない」という意味だけで使っているのだろうか。

 それを考える前に,「未来志向」の反対語とは何か,考えさせてみてはどうだろう。

 あなたは「未来志向」の人ですか,それとも・・・。

 「反対語」を考えるときには,マイナスの価値を含むものにかえる場合と,

 プラスの価値のままで,視点が異なっているだけのものにかえる場合がある。

 マイナス価値のものの例は,「過去にこだわる」「過去に拘泥する」など,

 では,プラス価値の意味をもつ「反対語」とは何だろう。

 そうやって考えると,「未来志向」という言葉には,たいした意味が含まれてないということに気づく。

 相手を批判するようなニュアンスで使っているともとられかねない,微妙な言い回しである。

 「過去のことを忘れる」「過去のことを水に流す」という意味で使っているのか,という批判が考えられる。

 悪意のある解釈をあえてしてみる,という練習も必要かもしれない。

 言葉選びは慎重にすべきである,というところが教育現場での落としどころだろうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

もし「型にはめるような教え方をするな」と言われたら~教師には,批判された言葉を別の言葉に置き換える能力も不可欠

 教師がその教育方針なり教育方法などに対して何かの批判を受けたときには,

 「相手が批判したい本当のことは何か」を考え抜こうとする意欲を持つことが大切です。

 言葉通りの表面的なことだけを直せば,批判がなくなるかというと,そうではない,という経験を積んでいる教師が近くにいたら,多くを学ぶことができるでしょう。

 「批判」というのは,「氷山の一角」と考えればよいのです。

 もしかしたら,直接伝えてくれた「批判」は,批判する側にとってみれば,取るに足らないことかもしれない・・・・自分にとって本当の問題とは何なのだろう,と考えるゆとりが必要です。

 「あんた,子どもが好きじゃないでしょう」なんて,面と向かっては言えないものです。

 「型にはめるような教え方をしないで」と言われたら,

 たとえば,「型にはめてもかまわないけど,子どものやる気をなくさせないでね」と訴えているのだな,などと想像できることが大切です。実際にそうではなかったとしても。

 ある人は,「他人の頭の中を見ることはできない。私は超能力者ではない」と言って,相手の心を想像することができない自分を擁護していましたが,そんな人間が小学校の担任だったとしたら,親としては恐怖です。

 こういうタイプの人間に,「思っていることを正直に伝えたら,どのように逆ギレされるかわからない」と親は怖れているのです。だから,本当は苦情が大量に集まってもおかしくない教師に限って,親はおとなしい,というあってはならない現象が学校では起こるのです。校長はそこまでひどい教師がいないかどうか,よく理解しておくべきでしょう。


 小中学校の場合は,教師の教育方法がどんなに工夫されたものであっても,

 子どもが「こんなのやりたくない」「つまらない」「この勉強は嫌いだ」と思って,

 やる気をなくしてしまうことが多いのです。

 教師やコーチがどんなに理にかなったことを子どもに指摘しても,なかなか思い通りにならないのは,勉強やスポーツに限ったことではないでしょう。

 「だって,それではボールが打てるようにならないから」

 とって,野球のコーチが無理矢理フォームを変えさせたりするのが,よい例の一つです。

 「もう,野球辞めたい」と子どもが言い出す理由の中に,

 「コーチがこうしろ,ああしろ,とうるさく言ってくるから」というものがある。

 コーチの側としては,「自分は熱心に指導しているのだ」と思っているし,

 「感謝されることはあっても,批判される筋合いはない」と憤る人だっているでしょう。

 しかし,現実問題として,子どもがやらなくなってしまったら,それで終わりです。

 「型にはめるのは子どものためだ」という古い教育観では,

 教師などつとまらないことを現場の人間はわかっています。

 古い教育観しかもてないからこそ,現場から排除される教師もいるわけです。

 アクティブ・ラーニングは,学校において,こういう古いタイプの教師の居心地が悪くなる学習です。

 以前から私も指摘しているように,

 質が低いアクティブ・ラーニングは,子どもたちを型にはめようとします。

 型どおりやって,何の成果も得られない『学び合い』では意味はないのです。

 本当によい教育というのは,大人はよい型にはめることに成功した,という実感をもちつつも,

 子どもたちには「型にはめられた」という感覚がなく,あくまで自主的,主体的に取り組んだ結果,こうなった,と思わせること(だから,『学び合い』のように,他の人から教えてもらってできた,ではダメなのです)が大事。

 達成感により自信を高め,自己肯定感を向上させることで,「次の学習」に生きていくのです。


 「悪い癖をなくすのは時間がかかるから」という理由で,無理矢理変えさせることが,本当に子どものためになるとも限らないことを,イチローが身をもって教えてくれました。

 吹奏楽で賞をとるには,短い時間で矯正を強制することが大事だ,という顧問の焦りもわからないではないですがね。


 「型にはめようとしている」という指摘を受けたら,こう切り返してみたらどうでしょう。

 「無理に教え込もうとしていたわけではないのですが,やる気をなくさせてしまうおそれがありましたね。申し訳ありませんでした」

 「次からは,2つの方法を子どもに示して,自分がよりよいと思う方,他の人から,それっていいね,と言ってくれる方を採用してもらうようにします」

 遠回りになったとしても,三者にとって,それまでとは全く違う目で,お互いを見ることができるように変わります。


 「おれがやっていることが正しいんだ」・・・他人の意見に耳を貸そうとしないタイプの人は,そういう人間を周囲に増やしていきます。身勝手な人間の集団こそ,教育現場で作り出してはならないものです。

 ある甲子園常連の監督が,そのことに気づくまで,10年も20年もかかった,という話は教育関係者なら知っておくべきでしょう。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

一〇〇〇〇〇〇〇〇総活躍社会・国民会議と「モモコ」旋風

 一億総活躍社会の実現に向けて,「国民会議」が動き出した。

 「国民」から乖離した「国民会議」にならないか,

 「国民」から白い目で見られる「国民会議」にならないか,

 「国民」の方ではなく,安倍首相の方しか見ていない「国民会議」にならないか,

 「国民」にわかりやすい説明のできない「国民会議」にならないか,

 「国民」のために役に立たない「国民会議」にならないか・・・・・

 委員になったことだけで名誉であり,あとは事務方の作文にお墨付きを与えるだけで終わればよい,と考えている人はいないか・・・・

 さまざまな心配があり,すでにその声も上がり始めている。

 日経などで紹介されている菊池桃子・民間議員の発言の趣旨は,

 「一億総活躍」の定義が理解されていない

 「ソーシャルインクルージョン」という言葉を使ったらどうか

 というもので,後者が「わかりやすい」言葉なのかという批判がネット上ではすでにわき上がっている。

 発言の内容に対する批判なら問題ないのだが,「人格攻撃」という卑劣な表現がネットを中心にわいてくる事態は,今回のようなケースに限ったことではない。

 今後,国民会議が今後,各省庁をどれだけ動かしていけるのか,

 「縦割り行政」を変えることができるのか,

 「国民」に感謝される政策を実現することができるのか,

 選ばれた民間議員からの新たなアイデアが生かされるのか,

 中学生たちには注目させておきたい。

 「一億」だから,1600万人いる15歳以下の子どもたちは「活躍」の主体としては含まれず,

 社会で「活躍」するための準備をする期間を過ごしていると考えることもできる(20歳以上で1億人くらいか)。

 「一億人になったときに,どうこう」ではなく,今,変えることができることを変えずに,将来への願望だけを寄せ合っても意味はない。

 菊池桃子・民間議員が提言する「キャリア権」を織り込むために,憲法改正にいたるくらいのインパクトある成果を期待したい。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

ホリエモンの寿司職人観への反論

 ホリエモンの「寿司職人になるのに何年も修行するのはバカ」発言に対しては,

 反対より賛成の意見の方が多いのだろうか。
 
 ネット社会のように「お手軽さ」重視の世界では,なるほどと思ってしまうが,

 「低賃金労働の強制」という視点から見れば,悪徳業者にとっては「痛いところを突かれた」という気にもなるのだろう。

 ただ,長い年月を寿司への情熱に費やすことができる人間かどうかを見定めたい,

 という「教育者」の気持ちもわからないでもない。

 「握りはセンスが重要」というような話を読むと,それは

 野球選手にも,学校の教師にも言える話で,

 「簡単に説明して身につくものではない」ことは理解してもらえるだろう。

 「できる人は簡単にできるようになってしまう」不思議さを,「センスがある人」と表現している。

 ただ,小手先の技術は数ヶ月や1年で身につくかもしれないが,

 たとえば「3ヶ月で握り寿司がつくれるようになった天才」の寿司と,

 その道何十年というベテランがつくってくれる寿司と,

 そのベテランの技のすべてをプログラミングした機械が握った寿司のうち,

 どれが一番「味わえる」か,という話になると,

 どうだろうか。

 「ネタが命で,職人の腕は二の次」という人もいるかもしれないが,

 カウンター越しに提供される「握り」は,ただの「おいしい食べ物」ではない,と感じる人が多かったからこそ,

 今の今まで日本に寿司文化が引き継がれてきたのではないかと思ってしまう。

 以前,タッチパネルで注文できる少し高級な回転寿司に入って,珍しい握りを注文したが,

 「だれが握ってくれたのだろう」と店の中央にある厨房が気になって仕方がなかった。

 「おいしさ」「ありがたさ」を全身で面と向かって伝えたいという気持ちは,すべての人に備わった

 ものではないかもしれない。私の場合は,決してそれが若い人であっても,がっかりすることは

 ないと信じたい。

 
 1年や2年修行しても,お客さんに満足してもらえる握りがつくれない職人がいても,おかしくはないと思う。

 しかしどんな不器用な人でも,真面目な人であれば,これだけの修行をすれば一人前になれる,という期間があることは想像できる。

 スポーツ選手のように,寿命が短いものでもないだろう。


 ただ,教育の世界にも,「この人は教師に向いていないな」と思う人がいる。

 センスがないというより,子どもと上手に接することができない人には,できれば別の仕事を探してほしい。

 教員の削減に大反対する人は多いだろうが,実際に自分の学校に指導力不足教師ばかりが大量に異動してきたときのことを想像してもらいたい。
 
 大事なのは「人数」ではない,ということをわかってもらうためには,実際の現場の苦労を見ていただくしかない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

アクティブ・ラーニングで求められる評価~各教科を横断した評価の観点の創造

 小学生のころには多かった「我が子の作品」を親として見ることができる機会が,

 中学生になって減ってしまっている,という経験はないだろうか。

 定期考査がある教科なら,テストの点数である程度の評定の根拠が示されているが,

 美術や技術家庭などでは,「子どもがどんな作品をつくったのか知らない」という親が多い学校はないだろうか。

 たとえば「文化祭」や「学習発表会」といった学校行事で作品を公開している学校は多いかもしれない。

 私の勤務している学校では,すべての教科の「作品」を展示している。

 数学や理科,国語や社会にも「作品」があるということは,真の意味で主体的であるかどうかは別として,

 自分で課題をつくり,取り組む活動が授業などで実施されているということである。

 親としては,自分の子ども以外の生徒の作品にもふれることができる。

 もっとも行いやすい「評価」は相対評価であるが,本当に優れた作品を見て,素直に感動される方が多い。

 アクティブ・ラーニングの「評価」には,単なる「知識・技能」や「思考・表現力」とは異なる次元の指標が必要であることは,多くの教師が気づいている。

 社会科では,「発想力」を第5の観点として採用したいと考えているが,これはもともと美術科の観点(「発想や構想の能力」)でもある。

 「社会に開かれた教育課程」を編成するためには,「閉じられた各教科」をどうにかしなければならない。

 「各教科」の教育が,それぞれ独自の世界に入り浸っていて,お互いにどんな能力をどのように高めようとしているのか,中等教育の現場ではほとんどの人が関心がないのが一般的だろう。

 では,「各教科」を「開かれた教育課程」に位置付けるためには,どうしたらいいのか。

 独特な観点になっている国語の評価にもメスを入れるべきだろうし,上述のような「他の教科にもまたがる横断的な観点」が必要ではないか。 

 「資料活用の技能」は,国語でも数学でも高めてほしい能力である。

 「ただでさえ煩雑な評価の事務処理をさらに増やそうとするのか」という批判を受けそうだが,

 優秀な小学校教師なら,はるか昔から取り組んでいることだろう。

 ある横断的な評価をしているということは,対象となる能力を高めることを意識して,複数の教科で指導を行っているということである。

 中学校の場合には,他教科の教師による評価が効果的となる。

 自分の教科でつけたはずの能力が,他教科でどの程度発揮できているかを確かめることができるのだ。

 前任校では,総合的な学習の時間ですでにこうした評価を行っている。

 アクティブ・ラーニングはすでに総合的な学習の時間で行われているはずのものだということは,以前にも書いた。

 今後は,各教科を横断する評価の観点を,

 各学校が編成する教育課程の内容に応じて設定させる・・・・・

 私が教育長なら,そういうことを校長に命じたい。

 各学校の「教育課程編成能力」が問われ,「社会に選ばれる学校」がより見えやすくなるだろう。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

非常勤講師に「研修」を機会を与えないのは,子どもたちからよりよい教育を受ける権利を奪うことに等しい行政の怠慢である

 公立の小中学校は,少子化の影響で小規模化が進んでいる。

 少子化のペースに合わせて教員を減らしていないし,学校も十分に減らしていない。

 バスケットボールの試合をしていると,部員が5人しかない学校をちょくちょく見かけるようになった。

 もちろん大規模校でもありうる光景だが,教員は当然少ないのだから,

 (私もそうなのだが)引率の先生は運動部のかけもちをしている人かな,と思ったりもする。

 小規模校の統廃合に反対する学者は,一度そういう学校の教師をつとめてみるとよい。

 公立学校の組織というのは,大企業とは異なる。

 「町工場」にたとえるのが一番わかりやすいだろう。

 「町工場」のくせして,大企業と同じような「売上げ」を求められる。

 ちょっと違うのではないか,という話が通じる人間が行政側にいない。

 
 行政側が見て見ぬ振りをしている大きな怠慢がある。


 学校によっては,教科の専任が一人しかいない,というところがある。

 こういう学校では,非常勤講師を雇っているケースが多い。

 一人しかいない専任の教師が病休に入ってしまうと,成績の責任も授業の責任も,すべて非常勤講師が負うことになる。

 中学校の場合はもともと家庭科の専任教師がいない学校もある。

 職員会議にも出ない,研修を受ける機会もない,教員採用試験に受かっていない非常勤講師に,

 どれだけの責任を負わせることが可能だろうか。

 どれだけの期待をかけることが可能だろうか。

 親はこういう実態を,知っているのだろうか。

 都市部の小規模化校というのは,公立学校の教育が衰退していく象徴的な姿である。

 もともと極小規模のまま歴史があるへき地の学校とはわけが違う。

 非常勤講師の働きにおんぶにだっこになっている現状は,行政の怠慢としか思えない。

 「お金がないから」・・・・それが理由なら,学校を減らせばよい。

 「地域から反対されるから」・・・・それなら,「こんな学校頼むからなくしてくれ」と請願されるほどに「荒れさせる」しかないのか。

 学校の数を少なくし,規模を大きくすることが理想だが,

 まずは,非常勤講師に十分な「研修」の機会を与える・・・というより,「研修」を受けたから採用される仕組みをつくるべきである。

 昔,ある学校に出前授業をしたことがあったが,その理由が「非常勤講師の教育」であったのかもしれないことに後で気づいて愕然とした。

 専任教師に授業の工夫などを教えてもらえないのも気の毒な話である。

 ぜひ,学校説明会では,「非常勤講師の数と持ち時数」を管理職に尋ねてほしい。

 その数が多い学校は要注意である。 

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より