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IQが高いのにテストの点が低い子どもたち

 IQはいくつかのパターンのテストで測定することが可能である。

 学力のテストには正解と不正解があるから,これも測定可能である。

 この2つの「認知スキル」には,それなりの相関関係があることくらい,だれでもわかるだろうが,

 教師をしていると,やはり気になるのが

 IQが高いのに成績がよくない子どもの存在である。

 何が足りないのか。

 足りないものとは,数値化して示すことが難しい「非認知スキル」の不足にあるのだろう,と予想できる。

 たとえば「やり抜く力」。「自制心」。「意欲」。さまざまな非認知スキルがある。

 その中で私が最も注目しているのが,「社交性」である。

 小学校教育については,私の2人の子どもを見ている限り,取り立てて「社交性を身につけよう」とする教育がなされているようには思えない。課題が容易すぎて,協同して取り組む意味がないからである。

 1人でやっても,4人でやっても結果が同じで,4人でやった方が時間がかかるとなったら,子どもたちは気の毒に時間を浪費していることになる。

 ただ一緒に何かをさせておけばよい,というのは,保育園の発想である。

 『学び合い』と保育園の違いを説明できる人がいたら紹介してほしい。

 「あなたの子どもは,社交性に欠けますね」という評価を耳にしたこともないし,

 そもそもそういう評価の尺度は学校教育にはない。

 しかし,中学校では自治活動が多くなるため,嫌でも「社交性」が身につけさせられる活動が多くなる。

 残念ながら,IQが低い子どもの中に,「社交性」に大きな課題を抱えていることも原因となって,不登校になるケースが多い。

 勉強もわからず,人とうまく接することもできなければ,中学校で生活することは本当に苦痛になるだろうと想像する。


 IQが高い子どもの中に,社交性に乏しい子どもがいて,もちろん抜群に成績の良い子も多いのだが,ある一定の割合で存在する,IQの割に成績がふるわない子どものことを,ここでは話題にしたい。

 私の関心は,「ある仮説をくつがえすこと」にある。

 社交性というのは,小学校低学年までに,ある程度の「協同的で創造性が求められる遊び」を経験していなければ,(成長してからでは)高めることが難しい資質なのではないか・・・・という仮説である。

 中学校での「反証創造」が,なかなか上手くいかない。

 ただ,勉強を頑張れ,というより先に,もっとみんなと協力して何かを成し遂げろ!と叱咤する方が,成績を上げやすい,ということが実証されると,

 『学び合い』にも意義があることを示せるのである。

 今のところは,「努力中」といったところである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より