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教科学習におけるなんちゃって「アクティブ・ラーニング」の成功がおぼつかないのは,英語が使えるようにならないことと仕組みは同じ

 中高6年間,授業で英語を学び続けても,3ヶ月語学留学したのと同じくらいの時間にしかならない,と聞いて,あなたなら何を思うでしょうか。

 「家でたくさん予習復習をやっているから,少なくとも2倍はやっているぞ!」

 では,半年の語学留学で,英語が使いこなせるようになると思いますか。

 もちろん,日常会話くらいなら,可能でしょう。

 中高の英語は,日常会話ができるようになることが目標でしょうか。

 違いますね。

 ある程度の語彙が必要なもの・・・たとえば英語の新聞なり,ラジオのニュースなりを読んだり聞いたりして理解できるレベルは求めているでしょう。

 なかなかできるようにはならない。

 単純な理由。それは,難しいからです。

 それなりに高度な認知スキルを必要とするからです。

 英語の発音の場合,舌を動かす技能をマスターするのにも時間がかかります。

 認知スキルを向上させることに重きをおいて教育を実施してきた日本ですら,
 
 まだ足りない,という状況なのです。

 非認知スキルを向上させれば,一見したところのコミュニケーション能力は高そうに見えるかもしれません。

 しかし,「高そうに見える」ことと,「実際に役立っている」こととの間には,また大きな開きがあります。

 非認知スキルは認知スキルを土台としたところで向上させようとしないと,

 「意欲が折れたとき」のダメージは大きいし,

 「取り返しがつかない」ことに気づいたときの絶望感は半端ないものがあるでしょう。


 英語教師がつらいのは,残酷な話ですが,「必要ない」のに学ばせられているという子どもの苦痛感も邪魔しているのです。

 もちろん,必要がある生徒は間違いなくいるでしょう。

 ユニクロに入社して,すぐにシンガポールの店で戦力として働くためには,

 英語で仕事も生活もができなければなりません。

 しかし,外国語としての英語は,いったい何%くらいの日本人に,どれだけの能力が求められているというのでしょうか。

 何%くらいの日本人が,英文の論文を発表するようになるのでしょうか。

 自動翻訳機の精度が向上しても,やはり英語が話せることは必要でしょうか。

 なんて考えると,ますますモチベーションが上がりません。

 
 では,アクティブ・ラーニングのモチベーションといったら何でしょう。

 最初のうちは,ごまかせるかもしれません。

 先生の話を黙って聞いて,ノートをとるだけ「よりはましだから」。

 
 活動自体がおもしろいから。

 ・・・活動あって,学びなしの「発見」から,日本の戦後の教育はスタートしました。

 日本は70年前に逆戻りしようとしているのでしょうか。

 
 教科ごとに,45分とか50分の単位時間というものは,そもそも「効率的」に知識や技能を獲得するためにつくられた人為的な「時間のまとまり」です。

 能動的に子どもが学ぶには,あまりにも「短い」のです。

 教室にいる人数が多い,少ないはあまり関係がありません。

 授業の時間が短いことが,アクティブ・ラーニングには決定的に向かないものなのです。

 ドラマの放映時間やバスケットボールの試合時間くらいならまだしも,

 プロ野球の試合時間が50分に決められたら,本当につまらなくなります。


 週に2~3時間学ぶ教科よりも,毎日2~3時間取り組む部活動の方が,よほど充実しているのは,

 「時間が長くてじっくりアクティブに学べるから」です。

 
 集中して好きなことを調べたり読んだりしていると,3時間くらいあっという間に過ぎてしまします。

 それを学校というところでは実現不可能にしています。

 「能動的に学ぶ」ことよりも,「時間を守る」ことの方が,はるかに優先順位が高いからです。

 
 また何年かを費やして,「教師の指導のもとで」小学生が仕上げていた発表用のパワポよりも質が低いものを大学生が「能動的に」つくって単位がとれてしまう時代が来るのを待つことになるのでしょうか。

 
 アクティブ・ラーニングについては,まずは,教科の学習指導ではなくて,特別活動などで子どもが自治的に動ける環境で使えるものから探ってみてはいかがでしょう。

 修学旅行で3泊4日,追究活動の連続・・・こんな経験ができる学校は少なくないはずです。


 なんて言われると,「うちの学校では,すでに長い間,アクティブ・ラーニングをやり続けている」というところも少なくないでしょう。

 日常的には,上級生が下級生に教えてあげることができることは何でしょう。

 教科の授業には,同年齢の集団で行うというしばりもあるのです。

 学習内容でもいいのですが,学校という場では,だれでもできること,だれもが身につけたいことは,ほかにもたくさんあるでしょう。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より