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「良い先生」の判断基準は人によって大違い

 「良い先生」と呼ばれたい教師は多いだろうか。
 
 この「良い先生」という判断の基準はさまざまなだから,八方美人にも限界がある。

 多くの場合,特定の個人から見て「自分に都合の良い先生」のことが「良い先生」の主たる意味だったりする。

 小学校では,「この先生はテストをあまりやらない」となれば,

 大人気になることがある。確かな学力を定着させるよりも,子どもを楽しませることが教師の仕事になる。

 また,「この先生はあまり細かいところで注意をしない」となれば,

 「とてもやさしい良い先生」になる。

 「生活指導は生徒の自主的な判断が大事」というお題目を盾に,何もしないことがよいことだという教師がいた学校は,荒れに荒れていた。

 でも「やさしい先生」という評価は揺らぐことがない。

 ある人は,「良い先生というのは自分の宣伝をしない」という。

 一方で,「自分の宣伝をしない人は信用しない」という。

 自分は自分の宣伝をしているから,自分のことを「良い先生」だとは思っていないようだが,

 「良い先生」の存在自体が想定にない人間もごくまれにいるようだ。

 
 「良い先生と呼ばれたい症候群」の治療には,「子どもに好かれたい」という単純な欲求だけしかないと思われずにすむような行動が必要である。

 おおげさなようだが,まずは「教育の目標」にたちかえることが,公務員としての教師のつとめだろう。

 教育基本法の第2条。

教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 これらの目標に対して,直球=ストレートで挑もうとしているのが「道徳科」である。

 「道徳科」実践の最大の課題は,目標達成への一人一人の意欲を高めるための方法である。

 当たり前すぎることだが,「週1時間の教室での授業」をすれば達成できるものではない。

 生徒がどのような体験を通して,それらの価値の大切さを実感できるかが勝負である。

 本当に「良い先生」なら,何を子どもに体験させようと考えるだろうか。 


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より