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自己弁護のための「作文」ほど見苦しいものはない

 自分の指導の成果が上がらないことを,前の指導者のせいにする「一流の人」はいないだろう。

 たとえば中学校の教師だったら,小学校で学習習慣をつけられなかった低学力の子どもがいたら,

 まずは学習の習慣なり,学び方なりを教えてあげることが自分の役割となる。

 そして,「できない」理由を勝手に自分で解釈してはいけない。

 たとえば,耳から聞いただけの情報と,自分がその課題のどこが重要かを人に話してみることを通しての理解の度合いは全く違うという,教師としては当たり前の知識を前提に,自分の指導がどうなっているかをふり返ることを忘れてはならない。

 責任を目の前の子どもと前の指導者になすりつけるだけの人間は教師失格である。


 学習活動は,能力の向上の度合いに合わせて,だんだん難しい課題になっていくように配列されている。

 だから,中学校には「すべての子どもが容易に理解することは難しい学習内容」がだんだん増えていく。

 「こんな簡単なことをすぐに忘れるのか!」と憤るのではなく,

 一つ一つの「単純なこと」がお互いに絡み合って,「複雑なこと」になっていくことや,

 そもそも「複雑なこと」だったものを,いくつかの「単純なこと」に分解して,全体像を理解することのおもしろさを味わわせたりするのが教師の役割である。

 たった一人の人間ですら決して「単純」ではないのだから,身近なクラス,そして学校,社会というものの「複雑さ」は想像ができないほどのもののはずである。

 

 指導力がない教師の場合は,先にあげたように子どもは自分でだれかに説明することによって学習対象の理解はしやすくなるから,『学び合い』の効果が認められる場合がある。

 ただし,その説明が正しいかどうかを1人の教師が確かめることはできないので,「誤解」を防ぐための「安全策」として欠かせないのが「一斉授業」なのである。

 指導力のない教師は,「部分」をしっかり理解できていないことにすぐに怒ってしまうが,「全体」像を把握させようとしない教師では,たとえ「部分」の理解が完全になっても,全く異なる「全体」像を描かせてしまっているおそれがある。

 「木を見て森を見ず」

 「群盲象をなでる」

 という教訓くらいは知っておくべきだろう。

 「~なんて大嫌いだ」という印象を子どもに植え付ける教師も,それに近い問題に当たる。

 私もそのおかげで小学校のときに理科が大嫌いになったが,なんとか中学校,高校で挽回できた経験をもっている。

 音楽の演奏なら,楽譜通りに演奏しているはずなのに,「いい音楽」に聞こえてこない。どこかが違う。

 違和感の根本原因が「演奏者自身が音楽を楽しんでいるように見えない」ことだったりもする。

 小学校の教師が,やたら「教科を好きにさせること」に執着する理由がわかったような気がする。

 「~先生に~を習ったから,大嫌いになった。やる気がしない」という子どもをたくさん目の前にして当惑した経験があるからだろうか。

 しかし,もし指導力のある教師なら,そういうときこそ最大のチャンスになるだろう。

 「~先生の~って,本当におもしろい。好きになった」

 指導力のある教師でも,そう言われて嫌な思いをする人がいないから,

 「教科を好きになることは大事」と口にするのかもしれない。

 大切なのは,「なぜ好きになったか」ということである。

 充実した指導があって,子どもはその教科を好きになるのだから,

 「好きにさせること」というより,「充実した指導をすること」が大事なのである。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より