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指導の意味がわかっていなくても,教師になれてしまう教育界

 最近は,研修でもただ話を聞いて終わり,ではなく,わずかな時間でも何かの活動を取り入れるところが多くなっている。

 私は現場の教師であるから,年に2~3回しか研修の依頼を受けることができないが,実際に自分が講師をつとめる研修で,何かの課題に取り組んでもらうと,

 参加者の教師としての資質を垣間見てしまうおそろしさを実感するようになってきた。

 これは教室の授業と全く同じ感覚である。

 うんうんとうなずいて授業に集中しているような子どもが,実際には何も理解できていなかったことにがっかりする経験を多くの教師がしているはずである。

 「集中して話を聞かせること」ができたからといって,子どもが何かをできるようになるとは限らないことくらい,普通の教師なら知っている。
 

 口では立派な見栄をはれるものの,実際に自分が他の人と協力して何かの作業をすることが苦手な人が教員には少なくない。

 中学生でもできる課題ができない教師がいる。

 教員採用の担当者には,ぜひこのような研修に参加してもらって,参加者の動きを観察してみてもらいたい。

 
 教育ブログを読んでいても,ほとんど「指導」の意味すら分かっていない人も見かけることがある。

 「できるようになるために,難しいところを集中的に練習すればよい」などということを,まともな教師が口にするわけがない。

 時間の感覚がマヒしているのは,本務ではない部活動で給料をもらっているような教師に多い。

 子どもの側も,教師の側も,時間が限られた中で学習活動,教育活動を行っていく上で,最も非効率なやり方は,

 「できないところばかりやって,できないまま終わる」パターンである。

 むしろ「どんどんやる気をなくしていく」結果に終わりやすい。

 こういうのが「指導」であると誤解しているような「鬼コーチ(すでに死語になっていると思われるが)」は,そろそろ死に絶えるはずである。

 私が勤務していた中学校の吹奏楽部は全国のコンクールで毎年金賞をとってくるような部活動であったが,練習時間に占める顧問が実際に指導にあたる時間はあまり多くはなく,基本的に上級生が下級生に教えていくスタイルをとっていた。

 もし教師が本当に自分の指導力を身につけたかったら,このような学校の生徒たちが下級生や同級生たちにどのような態度でどのような内容の言葉をかけることによって,できなかったことができるようになったか,上達していくのかを知ることから始めてみるとよい。

 上級生が下級生に教えることができる・・・生徒の自主的な活動の場であるべき学校の部活動と,ふつうの授業の場が決定的に違っていることを自覚しないと,現場感覚に乏しい偽物の教育論になってしまう。

 
 気の毒な話ではあるが,主体的な活動場面がある授業を自分が中学校時代に体験したことがない教師は,そもそもそのような場面で発表すべき「自分の言葉」が表に出てこない。

 優秀な答えを述べてくれた参加者の先生への拍手でその場は和むものの,

 このような発言ができない人は,教師としての致命的な欠陥を持っていると心の中で叫んで,研修を終わることがときどきある。

 指導とは,失敗させることからが本当の始まりである。その失敗に自らが気づき,改善点を自ら見出させ,進んで取り組ませることができない教師は,「指導者」ではない。ただ棒を振っているだけの「指揮者」のようなものである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より