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2015年10月

アクティブ・ラーニングで培いたい力を最も強力に伸ばせるのは,「特別活動」であり,「教科学習」ではない

 特別活動が充実している学校には,活気がある。

 高校の教師なら,「行事」で生徒たちがどれだけ生き生きとするかを知っている。

 中学校での「学校行事」における充実体験を,高校で自主的に発揮してくれる生徒が多いからである。

 ただの「遊び」ではない。それなりに,苦労もある。調整能力も鍛えられる。

 英語でのコミュニケーション能力はない生徒たちでも,自分たちが心の底からやりたいことを主張するときは,ものすごいエネルギーを発揮することができる。

 そのような体験を通して「社会で生き抜く力」を育んだ人たちが,今の社会でも活躍しているのではないだろうか。

 ただの「勉強秀才」でも,作文だけしていればよい行政なら生き抜くことができる。しかし,実社会ではそうはいかない。

 教育委員会では使えても,学校現場の管理職としては使い物にならない人がいる理由など,学校の教師たちが一番よくわかっている。

 アクティブ・ラーニングで鍛えたい力はこれだ,と主張している人たちの根拠を読むと,
 
 「そんなことは日常生活でこそ鍛えるべきだ」と一般の方々も容易に気づくだろう。

 勉強とそれを一緒にしようという考えほど,浅はかなものはない。

 中学校の学校現場の教師たちには最大の武器がある。

 「行事と自治活動」である。

 残念ながら,小規模校には望みにくいことなのだが,クラスが4つくらいあれば何とかなる。


 これから10行分くらい,守秘義務を犯せば,良い学校の学力がなぜ高いのかを説明することができるが,それはやめておく。

 私の主張は単純なものである。

 特別活動の授業時数を今の2倍に増やす。

 これで生徒はアクティブに「慣れる」。

 
 教科の授業では,安易に生徒が楽できる道を選ばない方がよい。

 賢い人は,みんな「安易な道」など選択しない。

 「賢い人を装う人」は,すぐに「安易な道」に飛びつこうとする。

 アクティブ・ラーニングを教科学習で実施できる学校など,ほんの一握りである。

 
 すべての学校の教育の「ためになる」基準を設けたいのであれば,

 特別活動の時間を2倍にすべきである。


 実質的にそうなっている学校の正体を知れば,みんな右へならえしたがるに違いない。

 低学力の生徒たちでさえ,ちゃんと「ものになっている」からである。


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最も無駄な教育論

 最近,教育に関する本ばかり読んでいるせいか,時間の無駄を感じることが多くなった。

 教育図書の9割は「はずれ」である。

 今,序章を読んでいる本は,紛れもない「はずれ」であることを確信せざるを得ないひどい内容である。

 「教育論を分析する」という仕事がこの世にはあるらしい。

 よほど暇な人間がいるものである。

 残念ながら,この本は斜め読みした後,amazonに出品させてもらうことになるが,

 教育に関する学者でまともな仕事を世に誇れる人はごく少数であることが本当に悲しい現実である。

 ここまでひどい書きようでは,書名も明らかにできない。

 「これだけ批判して,学校はよくなりましたか?」と問うているが,

 「批判の批判をしてくれたおかげで,何か変わりますか?」と聞いても,

 外国の学者の言葉の引用が返ってくるだけだろう。

 しかし,ここまでの無駄が仕事になるという国は,

 逆に考えればものすごい贅沢な余裕のある国である。

 本当の危機が目前に迫っている国では,出版されようのない本であった。


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指導主事の力量の劣化は何をもたらすか

 教育委員会が怖ければ,「指導主事の劣化」など指摘のしようがない。

 直接は言えないから,周辺への愚痴というかたちで耳に入ることになる。

 しかしこの手の悩みを最も強く抱えているのは,教育委員会自体であると私は信じたい。

 そもそも教師のなかに,管理職を希望する人が極端に減り始めている。

 ある自治体では,とうとう小学校の副校長の「予備軍」が底をついたそうだ。

 だから中学校籍のうち,「嫌と言えない」人のよい人が,無理矢理小学校にまわされている。

 現場もこんな状況だが,もっとひどいのが教育委員会で一騎当千の働きを期待されてきた指導主事の劣化だという。

 指導主事の仕事の手抜きによって現場が迷惑を被るもののうち,最もわかりやすいのが「締め切りのある調査もの」の依頼の遅れである。

 国からの調査は,だいたいいつごろ何が来るかはわかっているはずである。

 だから,賢い現場の副校長は,調査依頼が遅いのを心配して,教育委員会に連絡する。

 それで「まだ現場におろしていないこと」に気づく教育委員会もあるという。

 市区村長の教育委員会は,都道府県の教育委員会にあげ,そこから文科省にあげる。

 「3つの締め切り」があるわけだが,当然,市区村長の締め切りが最も早い。

 教育委員会がぼーっとしていると,「締め切りの2日前に調査依頼が届く」なんていう酷いケースも出てくる。

 それでも文句を言わずに粛々と業務をこなすのが副校長の仕事である。

 だから副校長がまず壊れることになるのは容易に想像がつく。

 体を壊す。心を壊す。家庭を壊す。もう他に壊すものがなくなると思いきや,私の地元の学校では

 盗撮がばれてクビになった副校長が出現した。学校の信頼も壊す。

 教育委員会というところは,教育の専門的事項に関する知識や技能,経験のない「事務方」と,

 主戦力である「指導主事」がいるのだが,主戦力であるはずの指導主事にとって,

 「指導の能力の欠如」が現場にばれてしまうのが致命的な問題である。

 教育委員会を信用できない教員が,現場の管理職になろうなどと思えなくなるのは当然である。

 今,公立学校の教育現場では,隠しようがないほどの「人材不足」に苦しめられている。

 事務方にがんばってもらいたい唯一の解決法は,徹底的な学校の統廃合である。

 「適正規模でない学校をゼロにする」ことを都市部の教育委員会は徹底すべきである。

 過疎地域の場合は,子どもが少なすぎて,適正規模の学校自体がつくりようがないから,今までの教育施設とは全く概念の異なる学校を創設し,「人の配置の無駄」を省く努力をすべきである。

 市区町村教育委員会のうち,指導主事がいない小規模な組織は別として,

 広域の管轄をもつ教育事務所をつくり,「本来の」指導事務の役割を高めるという方法もある。

 校長先生の愚痴には,若い先生たちの未来を霞ませる威力がある。

 こういう問題を解決する能力とやる気がある機関が存在しないことが残念でならない。

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教育改革のベースとして,形骸化した「全国ナントカ大会」を廃止に

 秋は,研究発表の多い季節である。

 「学会」の大会も多く実施されている。

 全国大会は「もちまわり」で行われるため,

 実施場所には「メンツ」がかかっている。

 それならばそれなりの発表をすべきであろうに,

 「この程度か」どころではない,

 「何だそれは」というのが飛び出してしまえば,

 みんながっかりするのだろうが,

 それとは逆に,「安心する」人たちもいるらしい。

 「うちが恥をかかないでよかった」

 「程度が低いおかげで,これよりはましなことができる安心感がある」

 といった具合に。

 そして,大会では「問題点を指摘しない」という暗黙の了解のようなものがあるようである。

 しかし,中には本当にわかっていない人がいるから,

 問題は問題だと指摘するのが「学問の自由」「表現の自由」というものである。

 ましてや,社会科関係の学会ならそれこそが命と言うべきものだ。

 それができないようなプレッシャーをかけるような会は,すぐにでも解散してもらいたい。

 「もちまわりでうちにきた,ああ嫌だ,大変だ」などといっているのなら,

 足抜けしてほしい。

 「もちまわり」など,なくてよい。

 できる自信があるところだけが手を挙げればよい。

 こういう「競争」がない,できそこないの社会主義国のような学会は,

 そもそもの存在価値がないのである。

 私的な勉強会があり,

 今回,事前に内容を知ることができたものがあった。

 重大な問題点を3つ指摘した。

 本番に間に合うだろうか。

 本番で疑問の声をあげてくれる人はおそらくいないだろうから。


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次期学習指導要領を「失敗の焼き直し」にしないように

 過去の誤りや不足点などをしっかりと踏まえた上で次の一歩を進めないと,

 全く同じような誤りを繰り返すことになります。

 教育政策も同じ。

 かつての上司の仕事に泥を塗らないように,なんていう配慮は捨てて,

 「ここがだめでした」「ですからこうします」

 型の発信を国はしていくべきです。

 たとえば学習の評価。

 4観点の評価はようやく姿を消してくれそうです。

 なぜ4観点の評価ではだめだったのか。

 現場の教師はみんな知っています。

 3観点にする理由を,「法律で示されている学力観に合わせるため」なんて言ってはなりません。

 現場は,「失敗するレベルまで達していない」くらい,学習指導要領の趣旨とは異なる実践をしているところもあります。

 教育課程の管理がしっかり指導できる教育委員会の機能を充実させ,

 絶対に「失敗の焼き直し」「ようやく失敗にたどりつく」なんていうことが起こらないように

 「指導」するのが文科省行政の役割でしょう。

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あなたは他人の子どもを親とセットで公衆の面前でけなすことができますか?

 教師の中には,何のためらいもなく公衆の面前で親や子どもを罵倒することができる人間がいる。

 行為そのものではなく,人格に対する攻撃を始める人間である。

 人の心を傷つけるということの意味が全く理解できない「不適格教師」である。

 以前に紹介した話だが,ある自治体の教師がタクシーでさんざん親と子の悪口を吐き続けていたところ,運転手が地元の方でとても憤り,教育委員会に苦情を訴えたことがあった。

 教育委員会は,校長を通じて,「教員にタクシー内で親や子どもの悪口を言わないように」という注意を下すに到った。

 「お前は何様か」というのが市民感覚である。

 「お前の子どもこそどうなんだ」というのが小市民感覚である。

 「子どももいないくせに,何様のつもりで親が幼いとか言えるんだ」と思われる感覚をもたない人間,想像力を欠く人間が,なぜか教師になれてしまっている。

 昔,さんざん子どもや親への愚痴をブログに書いていた自称「魔女」がいたが,こういう「うさばらし」を読む人間の中にも,もちろん良識派はいないでもない。


 ただ,「お前に言われたくはない」と思わせるような教師が多すぎるのである。

 社会人としてはとても通用しにくい,いわゆる「コミュ障」教師がいたるところの学校にうようよしていることは,もちろんだが子どもの教育上もよろしくはない。

 「コミュ障」が「コミュ障」をこきおろすという醜い文章にも出会うことがある。

 学力以前の人間として最も大切なものを,失わせるばかりか,

 余計な価値観を植え付けられる恐怖を保護者が抱いたとき,

 いよいよ本格的な教育崩壊が始まるおそれがある。

 歯止め役になれる教師はいるだろうか。

 (教育)公務員として果たすべき役割とは何か。

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アクティブ・ラーニングの「不要感」をどうするか

 親の子どもに対する期待というのは,とどまるところを知らない。

 意欲的でさえあればよい,と思っていても,いつかは

 能力を高めてほしい,と願うようになる。

 能力を高めているのがわかったら,よりよい学校に進学させたくなる。

 能力が高い生徒が集まるような学校に。

 そこは「アクティブ・ラーニング」が条件的に可能な学校である。

 しかし残念ながら,そのような学校に限ってアクティブ・ラーニングになど力を入れることはないのが現状である。

 もし,能力の高さを生かしてアクティブ・ラーニングを進めた結果,どうなるのか。

 実は,もう10年前に実験済みで,その答えは出ている。

 保護者たちの側からアクティブ・ラーニングを求める声は高まっていくだろうか。

 残念ながら,よほどの荒れた学校でない限り,そのような要望の声は多数派にはならないだろう。

 必要感の乏しい教育を進めていく・・・短期的には成果が低下することに我慢して,長いスパンで成果を期待してもらい続ける・・・そんな持久力が学校にあるだろうか。

 昨日も,おそらく教師に対する不満とやるせなさを原因とする訪問者が多かったようだ。

 現場の教師たちは,手も付けられない荒れた状態に逆戻りすることを怖れている。

 自分には決してあてはまりもしない教育方針を他人にすすめる人間たちが信用できる薬をだれかに開発してほしい。

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「明後日の方」を向いているお気楽な学者たち

 教育改革を進めようとしている人間が,自分の子どもには

 合格のために「無理矢理」な勉強をさせている。

 かつて,言っていることとやっていることが違う人間がしっかりと排除された時代があったはずだが,

 今は「何を言ってもよい」時代になっている。

 だから,まともな人間からは信用されない。

 どこか遠くにあるごちそうをすすめながら,

 目の前のおいしい果実にすがりつくような人間たちを,まともな「教育者」とは呼べないからである。

 現場にやってきて甘い汁をすっては,

 自分の子どもの進学のために金をつぎ込んでいく。

 こういう人間に肌感覚で嫌悪感を感じない人間こそが,

 真の教育者になれるのかもしれないと思いながら,

 今日も新しい授業のためのアイデアを練る。

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教育方針の逆・二極分化が進む

 世界の教育トレンドが,東アジアの『詰め込み型』と欧米型の『考える型』に二極分化している話を読書編でご紹介しました。

 あいまい文化の日本では,どちらかに舵をきることはなく,教育改革はいつも中途半端で終わっていく。中途半端であるからこそ,何も変えない方がよかったかもしれない,という後悔を常に生んできたのが学校現場です。

 「ゆとり教育」がキーワードになったころ,総合的な学習の時間が「目玉」として登場し,当然のことながら,「主体的に学ぶ力の育成」に力が入れられるようになったわけでした。

 しかし,教科の授業時間を削減しただけでなく,週5日制にしたために,総授業時数も大きく減らされてしまいました。

 所得が高い家庭を中心として,塾などの教育産業への支出を増やし,「穴埋め」に努めた結果,「学力格差」が開いていくこととなったのと同時に,下位層に引きずられるかたちで学校全体の学力も低下してきました。

 小学校での教師の大量退職,大量採用の時代が訪れ,学校の指導力の低下が危ぶまれるようになり,さらなる学力低下が心配されたことで,教育内容が増やされ,授業時数が増加するようになりましたが,それに加えてアクティブ・ラーニングが求められるようになったことで,現場は頭を痛めています。

 こうした変化の影響をほとんど受けなかったのが私立の一貫校で,中学校の内容はとばして中学生から高校の内容を学習するような『詰め込み型』の教育を継続し,受験競争に勝てる子どもを送り出し続けてきました。

 日本では,今後,『詰め込み型』という形式をとってでも基礎を固めなければならない時期に『考える型』の教育がなされ,『考える型』の教育をすべきときに『詰め込み型』を行わせられる,そういう子どもが増えていくことが予想されます。

 これがタイトルの「逆・二極分化」の意味です。

 二極分化ですら,よくない傾向であるのに,さらにそれぞれの方向性が,効果の薄い方に偏っていく,こういう「逆方向」への移行が現場レベルでは進行していくと思われます。

 洋服の場合は,ボタンのかけ違いに気づいたときに,かけ直すことができますが,

 時間が戻せない教育の場合,ボタンのかけ違いは失敗の致命的な原因になります。

 アメリカの大学で中退率が高い理由の一つに,このボタンのかけ違いがあることは明らかでしょう。

 韓国で大卒の就職率が低い理由は,そもそもボタンが飾りにすぎないことにあるのでしょう。

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『学び合い』で子どもに十字架を背負わせるリスクに乗るか?

 柔道などでの死亡事故の他に,学校では重度の障害が残るような事故が起こっています。
 
 『学校の管理下の災害〔平成25年版〕』によれば,平成24年度に小学校で子どもが亡くなったのは,

 保健体育の準備・整理体操中が1人,学級活動中が1人,給食指導中が1人,

 儀式的行事中が1人,水泳中が1人,校外での持久走で1人,休み時間中が1人,

 昼休み時間中が2人,始業前,放課後がそれぞれ1人,登下校中がそれぞれ2人となっています。

 このうち「突然死」に分類されている9人は,防ぐことが難しい事故だったかもしれませんが,

 間近で友達の「死」に遭遇した子どもの心には大きな衝撃となって残っていることでしょう。


 教師が担うはずの役割を子どもにさせる場合,たとえば,できるだけ多くの子どもに

 跳び箱を跳ばせて,補助も子どもに任せようとする場合,事故が発生したときに

 「悲惨な事故を防げなかった後悔」「亡くなったり重い障害が残ったりした友達への申し訳なさ」「重い責任」を感じる」のは子どもです。

 重い十字架を残りの数十年の人生で背負い続けていかなければならなくなります。

 もしそういう「責任を負わせること」も含めて教育目標におき,保護者の理解を得ているのであれば,「子どもを大人扱いしてくれる進んだ学校」としての評価も高まるかもしれません。

 ただ,子どもに十字架を背負わせることになる可能性に耐えられる教師がどのくらいいるでしょうか。

 教師は,「授業で死なせてしまった」「自分が補助していれば防げた」という後悔を当然背負うはずですが,「自分の目の前で事故が起こるよりましだ」などという無責任な感覚をもっている教師がすぐに飛びつくような指導方法になっていないかどうかが心配です。

 『学び合い』では,子どもに事故を防ごうとする意識も高めさせたい,といいますが,

 そんなことは遊びのなかで体得させるべきです。それが「主体的な学び」です。

 10歳にも満たない子どもが教師主導の「主体性を学ぶ」過程で事故に遭遇した場合,

 その子どもに「責任を感じさせること」の教育的意義がどれだけあると言えるのでしょうか。

 管理職の多くは,このような発想で『学び合い』に強烈な危機感を抱いています。

 小学校の教育がおそろしいのは,教師の授業を全く聞かなくても,あるいは不登校でも,塾なり通信添削で家庭学習している子どもが「学力調査」的なペーパーテストでは満点がとれてしまうような低レベルなカリキュラムであることです。

 「先生に教えてくれなくてもできる」ということが,「主体的な学習を促す」こととイコールであるのかどうか,しっかりと教師が意見交換をするべきです。 

 「勉強ができないこと」を自分たちの能力が足りないせいだと納得させることができる教室での『学び合い』については,日本に大量の「あきらめ層」を作り出し,低賃金に甘んじる余裕を与えることになるかもしれません。

 それが本音のねらいであるとしたら,国の政策として,強制的にでも導入することになるかもしれませんね。 


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長崎の活水中学・高校吹奏楽部が全日本吹奏楽コンクールに初出場できたのはなぜか

 今年の4月から指導を始めたばかりの吹奏楽部を,1年もかからずに全国大会初出場に導く能力というのは,いったいどれほどのものだろう。

 「カリスマ」の着任によって,もともと能力の高い生徒が集まってきたのかもしれないが,記事で紹介されている指導内容にふれるだけでも,「教師の指導力の大切さ」をうかがい知ることができる。

 教師の能力を過小評価し,子どもの能力を過大評価する『学び合い』を推進したがる教師たちのうち,

 「一斉授業」の限界を突破しようとする意欲を失いかけている人たちには,ぜひとも

 藤重佳久さんのような一教師から何かを学ぼうとする気持ちをよみがえらせてほしいと思う。

 教育現場から醜くドロップアウトした教師にマインドコントロールされる道を選ぶのか,

 優れた指導力を現場で発揮している教師から学ぶ道を選ぶのか。

 「一斉指導」でも子どもたちにめいいっぱい考えさせている教師がいる。

 子どもたちが実力をぐんぐん伸ばしている現場がある。

 地道な努力をさせる時間を奪うアクティブ・ラーニングに目を奪われてはならない。

 アクティブ・ラーニングとは,地道な努力で身につけた力を生かすための場として設定すべきである。


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「どうやったか」は記憶に残りやすく「やった気になる」ことが危険なアクティブ・ラーニング

 メタ認知の重要性はわかる人にはわかるだろうが,

 自分の学習がコントロールできることと,何かの課題が自由自在に解決できるようになることとはイコールではない。

 アクティブ・ラーニングと称する学習形態が今後新たに試され,その成果が検証される研究が増えるだろうが,教師が最も注意すべきことは,子どもが「やった気になった」だけで満足しない,させないことである。

 教師は子どもが満足そうな顔をして授業を終えると,何となく「仕事をした」感覚に陥りやすいが,大切なのは「何が理解できたか」「理解できたことを次の学習でどう活用できるか」である。

 ようやく,ただの穴埋め問題ができたからといって「理解している」とは言えないことが常識になろうとしている。

 ただ暗記しているだけで,全く応用できないような「記憶」を「知識」と呼ぶべきではないという考えも,一般化されようとしている。

 本物の「知識」や「理解」とは,深い思考や多様な表現活動,意見交換を通して身につけられるようになることを,経験が豊富な教師なら身にしみてわかっているはずである。

 「みんなで話し合った」

 「発表した」

 ことは,記憶に残っている。

 ただ,「何を話し合ったのか」「話し合った結果,何が何であることがわかったのか」

 「何を発表したのか」「何が疑問点はなかったか」

 と問われると,答えられない子どもはいないか。

 じっと教師の話を聞いたり,本を読んだりして理解できないことは,

 教師なり興味を抱かせない本のせいにできるが,

 話し合い活動をして,理解できなかったことには納得してしまう子どもがいる。

 つまり,教師が自らに責任がふりかからないように逃げるための仕組みになりやすいのが

 「アクティブ・ラーニング」の本質であり,

 「アクティブ・ラーニング」を進めようとする教師の本音が,

 「責任逃れ」にあるとしたら,子どもたちは本当に気の毒である。


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教科学習におけるなんちゃって「アクティブ・ラーニング」の成功がおぼつかないのは,英語が使えるようにならないことと仕組みは同じ

 中高6年間,授業で英語を学び続けても,3ヶ月語学留学したのと同じくらいの時間にしかならない,と聞いて,あなたなら何を思うでしょうか。

 「家でたくさん予習復習をやっているから,少なくとも2倍はやっているぞ!」

 では,半年の語学留学で,英語が使いこなせるようになると思いますか。

 もちろん,日常会話くらいなら,可能でしょう。

 中高の英語は,日常会話ができるようになることが目標でしょうか。

 違いますね。

 ある程度の語彙が必要なもの・・・たとえば英語の新聞なり,ラジオのニュースなりを読んだり聞いたりして理解できるレベルは求めているでしょう。

 なかなかできるようにはならない。

 単純な理由。それは,難しいからです。

 それなりに高度な認知スキルを必要とするからです。

 英語の発音の場合,舌を動かす技能をマスターするのにも時間がかかります。

 認知スキルを向上させることに重きをおいて教育を実施してきた日本ですら,
 
 まだ足りない,という状況なのです。

 非認知スキルを向上させれば,一見したところのコミュニケーション能力は高そうに見えるかもしれません。

 しかし,「高そうに見える」ことと,「実際に役立っている」こととの間には,また大きな開きがあります。

 非認知スキルは認知スキルを土台としたところで向上させようとしないと,

 「意欲が折れたとき」のダメージは大きいし,

 「取り返しがつかない」ことに気づいたときの絶望感は半端ないものがあるでしょう。


 英語教師がつらいのは,残酷な話ですが,「必要ない」のに学ばせられているという子どもの苦痛感も邪魔しているのです。

 もちろん,必要がある生徒は間違いなくいるでしょう。

 ユニクロに入社して,すぐにシンガポールの店で戦力として働くためには,

 英語で仕事も生活もができなければなりません。

 しかし,外国語としての英語は,いったい何%くらいの日本人に,どれだけの能力が求められているというのでしょうか。

 何%くらいの日本人が,英文の論文を発表するようになるのでしょうか。

 自動翻訳機の精度が向上しても,やはり英語が話せることは必要でしょうか。

 なんて考えると,ますますモチベーションが上がりません。

 
 では,アクティブ・ラーニングのモチベーションといったら何でしょう。

 最初のうちは,ごまかせるかもしれません。

 先生の話を黙って聞いて,ノートをとるだけ「よりはましだから」。

 
 活動自体がおもしろいから。

 ・・・活動あって,学びなしの「発見」から,日本の戦後の教育はスタートしました。

 日本は70年前に逆戻りしようとしているのでしょうか。

 
 教科ごとに,45分とか50分の単位時間というものは,そもそも「効率的」に知識や技能を獲得するためにつくられた人為的な「時間のまとまり」です。

 能動的に子どもが学ぶには,あまりにも「短い」のです。

 教室にいる人数が多い,少ないはあまり関係がありません。

 授業の時間が短いことが,アクティブ・ラーニングには決定的に向かないものなのです。

 ドラマの放映時間やバスケットボールの試合時間くらいならまだしも,

 プロ野球の試合時間が50分に決められたら,本当につまらなくなります。


 週に2~3時間学ぶ教科よりも,毎日2~3時間取り組む部活動の方が,よほど充実しているのは,

 「時間が長くてじっくりアクティブに学べるから」です。

 
 集中して好きなことを調べたり読んだりしていると,3時間くらいあっという間に過ぎてしまします。

 それを学校というところでは実現不可能にしています。

 「能動的に学ぶ」ことよりも,「時間を守る」ことの方が,はるかに優先順位が高いからです。

 
 また何年かを費やして,「教師の指導のもとで」小学生が仕上げていた発表用のパワポよりも質が低いものを大学生が「能動的に」つくって単位がとれてしまう時代が来るのを待つことになるのでしょうか。

 
 アクティブ・ラーニングについては,まずは,教科の学習指導ではなくて,特別活動などで子どもが自治的に動ける環境で使えるものから探ってみてはいかがでしょう。

 修学旅行で3泊4日,追究活動の連続・・・こんな経験ができる学校は少なくないはずです。


 なんて言われると,「うちの学校では,すでに長い間,アクティブ・ラーニングをやり続けている」というところも少なくないでしょう。

 日常的には,上級生が下級生に教えてあげることができることは何でしょう。

 教科の授業には,同年齢の集団で行うというしばりもあるのです。

 学習内容でもいいのですが,学校という場では,だれでもできること,だれもが身につけたいことは,ほかにもたくさんあるでしょう。

 
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国語力のない人間が書いた通知文をさらに国語力がない人間が曲解する文科省

 池上彰さんが日経の連載「池上彰の大岡山通信 若者たちへ」の記事(10月19日)

>文科省は「誤解」というが~国立大改革通知の波紋

 の冒頭で,国語の問題を出題してくれました。

 引用します。

>以下の文章で、「廃止」対象として挙げられているものは何か、答えよ。

 「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」

>文部科学省の答え。「教員養成系だけであり、人文社会科学系は含まれていない」

 国語力のなさはおそろしいほどですね。

 「正しい理解」を「誤解」と言い放つところなど,もはやどこかの国の人間たちと一緒です。


 しかも,経団連からダメ出しされたことが,大臣の反省の弁の発端だと言うから・・・。

 
>「誤解を与える文章」だと認めるなら、通知を撤回すればいいのに、文科省は撤回しようとしません。過失や責任を認めようとしない。国立競技場の建て替えをめぐる騒動での文科省の態度を想起させます。小学校の「道徳」の指導要録の中には、評価基準として「責任感」が入っているのですが。

 
 この国の教育政策の中枢が,これです。


 ちゃんと記述式問題を解いて入学した学生と,記述問題の採点ができる教師がいる大学で,教員養成系を廃止する。

 選択問題だけで入学できた学生と,良問をつくる必要も能力もなく,採点の必要のないが教師がいる大学は,今まで通り,続けられる。

 新大学入試制度では,「記述問題を導入する」ってか。国立大学がちゃんと取り組んできた入試。

 まともな高校でもみんなやっているけど,業者テストだのみのところでは,昔のまま,何も変わらない。

 すべてがちぐはぐ。ちんぷんかんぷん。


 21日の日経の記事。

>全国86の国立大学のうち、26大学が2016年度以降、人文社会科学系の学部の組織再編を計画していることが20日、分かった。

 さすが文部科学省附属大学。文部科学省から派遣されていた人たちが案をねったのか,対応が早いですね。


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約束は,守ります!守秘義務も,守ります・・・ということは,何も書けない・・・

 学校をクビになっても,教員は守秘義務違反をするわけにはいきません。

 だから,何でもかんでも書くことはできない。

 書いてしまうと,多くの人が「不利益を被っているという実感」を味わってしまうものがあります。

 しかし,守秘義務があるから,書けない。

 「守秘義務」って,いったいだれを守るための縛りなんでしょう・・・。

 国民主権のわが国の,実態としての官僚主権とは,法令遵守によって国民ではなく官僚自身を守る仕組みのことです。

 また,今日は,ある企業の方から突っ込みどころ満載の・・・・を見せてもらったのですが,

 研修内容をネットで公開してはならないという規定があるらしく,これも書けません。

 ICT関係の話です。

 この国の教育はいいようで悪いところもある一方,悪いようでいいところが多い。

 悪いところは・・・・やはり「すべての国民の実感」こそがすべてではないでしょうか。

 「アクティブ・ラーニング」は,経験したことがない人が多いから,「何となくよさそうに見える」

 「期待を抱かせる」・・・そういう存在なのでしょうが,保育園の先生でもやっていることを,高校の教師がわざわざ行う必要があるのか?というのが,「アクティブ・ラーニング」を経験してきた私自身の認識です。

 「アクティブ・ラーニング」の本当の成果が出るのは,子どもが親の世代になったときくらいでしょうか。

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アクティブ・ラーニングで失敗が目に見えていること

 アクティブ・ラーニングの定義を勝手にしている先生のブログを読んで,なぜこの人たちの手法で教育をすると失敗するのか,よくわかりました。

 このブログには,アクティブ・ラーニングに批判的な目を向けている人がよく訪問されます(検索語キーワードでわかります)。いいことしか言わない人間を信用していれば,たいへんなことになるという「本能」をお持ちの方は,「失敗」を最小限にくいとめることができますし,「失敗」しても「アクティブ・ラーニング」のせいにしなくてすむでしょう。

 アクティブ・ラーニングは,そう簡単には成果が出ない。

 出たように見えるのは,ごく一部のことがらだけです。

 ただでさえ過密なカリキュラムを,アクティブ・ラーニングの手法で行うと,「大きな空洞」がたくさんできてしまいます。

 もちろん,従来型の手法をとっても,「空洞に何も埋まらない」子どももいます。

 だからこそ,アクティブ・ラーニングに切り換えようとするのですが,能動的な学修ですから,学習成果は,あくまでも学修者の「姿勢」次第なのです。

 そもそも決まった時間に無理矢理学習を打ち切られるような学校で,真の能動的な学びなどできるでしょうか。

 あと10分,授業を延ばしてみよう,などという方法は,小学校でなら可能でしょうが・・・・。

 たとえ一斉授業でも,受け手の姿勢次第で,いくらでもアクティブになるのです。

 かつて,私語が大問題だった大学の授業を思い起こして下さい。みんなアクティブです。

 教師の話など,一切聞いていない。でも,アクティブに学んでいる学生はいくらでもいたのです。

 力をつけるのは,人によっては1時間ですむかもしれませんが,100時間でもたりない子どももいます。

 しかし,その100時間が強制のものでなく,自発的なものであったら,だれも邪魔はできません。

 それなのに学校は,そういう生徒の邪魔をしなければいけないカリキュラムを組んでいるのです。

 これほど簡単なことなのに,「何だかよさそう」なんて感覚で「アクティブ・ラーニング」に近づこうとしている人は,

 まず自分自身が本当の意味でアクティブなのか,考えてみると良いでしょう。

 本で読んで,何だかよさそうって・・・これ,「能動的な学び」ですか?

 まずは,自分が少しでもまともな授業を実践して,多くの「問題」を実感してからでも遅くはありません。

 自分自身がアクティブ・ラーニングをできていないのに,それを子どもたちだけに強いるのは罪です。

 繰り返します。アクティブ・ラーニングで身につけようとしている力(この場合,普通の授業で身につけようとしている力と同義ですが)は,それほど簡単につく力ではありません。

 しかし,すぐに力をつけられなくても,「こうやって考える習慣をつけていこう」という意識ができていれば,

 10年後か20年後に花が開くかもしれません。

 学校では失敗しても,将来には生きるかもしれない,という淡い期待を抱かせてくれる(もちろん幻想に過ぎないかもしれない)のが,アクティブ・ラーニングの魔力です。

 そういう「かもしれない」ものに時間を使うと,多くの人には,「時間の無駄遣い」に見えます。

 昔の「ゆとりの時間」の感覚がフラッシュバックしてくる人も多いかも知れません。

 たった50分の授業でも,頭からすべての汗が流れきったような感覚に襲われる学びは教材次第でいくらでもできます。

 残念ながら理科という教科は,新たな教材をつくりにくい教科のようで,そもそも教育内容自体が単純化され整理されたものばかり教え込んでいるために,そういう魅力的な授業はやりにくいのでしょう。ICT教材でお茶を濁すのが精一杯なのかもしれません。

 ドラえもんに登場する「暗記パン」の液体リキッド版をつくるのに,どのような化学物質が必要か・・・といった追究をさせてくれる理科の先生はいないでしょうか。

 「仮説実験授業」というのも,ずいぶん幼稚なものに見えましたが,それほどわかりやすくして後世に伝えてくれた先人の科学者たちに感謝です。

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IQが高くないのにテストの点が高い子どもたち

 知能検査も,何度も問題を見て慣れてしまうと,短い時間で勝負をかけるので高得点がとれてしまう。

 中学校の担任教師の場合,入学後すぐに実施することが多いので,3年に1回は同じ問題をながめることになる。

 だから教師が本気で実施したら,相当IQが高いことになってしまうのではないか。

 さすがに記憶力は衰えてきている気がするが,コツさえつかめば好結果を出しやすい。

 
 さて,前の記事とは逆に,IQは目を見張るものがないのに,テストの得点が高い子どもがいる。

 「それは努力のたまものだろう」と思われる人が多いと思うが,案外そうでもない。

 IQとテストは,同じ認知スキルでありながら,完全に相関関係にあるとは言えない。


 ある心理調査は,「あまり真面目にやらないこと」で良い評価がもらえる(悪い評価がつかない)ことがばれてしまったために,あまり当てにならなくなってしまった。

 知能検査も,もしかしたら「こんなパズルみたいなもの,どうでもいい」という「知性派」が,子どもの中にも隠れているかもしれない。

 知識をたくさん蓄えていたり,鋭い発想ができたりすることが,たとえばパズル系のクイズでわかったりすることがある。

 このようなクイズが好きな人が,よくできたりするというわけでもない。

 
 認知スキルとは言っても,奥が深く,人間はその正確な数値化ができたと言える段階にはないのかもしれない。

 
 非認知スキルとなると,なおさらである。

 同じパターンの問題を何回も解いて,また似たパターンのものが出題されれば,できがよくなるのはわかる。
 
 非認知スキルの向上には,「慣れ」が必要である。


 認知スキルと非認知スキルを相乗効果的に高める指導はないのだろうか。

 実は,すぐれた教師の一斉授業が,まさにその指導にあたる,という結論が出てしまうとしたら,

 アクティブ・ラーニングで食べようとしていた人たちの立場がなくなってしまうかもしれない。


 不思議と成績が上がってしまう子どもが多い家庭教師,塾講師,学校の教師を集めた分析を行ってくれた大学の先生はいないだろうか。その逆も。

 アクティブ・ラーニングをさせることよりも,自分自身がそのような学びができることの方が大切な教師が多いような気がする。
 
 どうしてそのような学び方に意義があるのか,よくわかっているというか,自分自身が実感している人でないと,子どもには意義が伝わりにくいのではないか。

 料理と同じで,食べさせることができるのなら話は早いが,味わったことのない料理を紹介するのは難しいに違いない。

 「おいしいとだれかが言っているが自分はその味がわからない料理」を自信をもって生徒にすすめる料理の先生はどこにもいないはずである。

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当ブログには珍しく,真正直なコメント・・・感謝です!

 久しぶりのコメントにびっくりです。

 きっとご本人様だと思いますが,当ブログで紹介(読書編でも)させていただいた

 北大路書房『子どもの思考が見える21のルーチン』の訳者の方から,翻訳にあたってのご苦労を教えていただきました。

 考えの導入と展開のためのルーチンの1つ,

 「Compass Points」はどう訳したらよいのか。

 もともと,意思決定のプロセスで考慮すべき4つのことがらを,

 東西南北の4つの頭文字と同じになるよう,

 無理矢理あわせているために起こった問題です。

 Excitement (わくわく感)

Worries (不安感)
 
Needs (必要感)

Stance, Steps, or Suggestions (立場・手順・提言)

の頭文字が,「東西南北」の順に並んでくれていれば・・・おしい。南北が逆。

 ただ,このようにやや複雑というかやることが多いルーチンは,

 考え方自体を忘れてしまうのを防ぐ仕組みがほしいので,

 NEWS から始まる単語を考えることで思い出せるメリットが英語を使う人には合っているのです。

 21のルーチンのうち,

 このルーチンはステップが4つ(6つ?)もあるために,内容がわかるようなタイトルにすると長くなるし・・・。

 私自身の実践で使っていた言葉で整理すると,

 メリデメ分析→課題発見→改善策提案 にやや近いのですが・・・。

 訳者解説には,

 説明や解釈をつくり上げる→疑問に思って質問する→根拠をもとに推論する→核心を見抜いて結論を導く

 いう各ステップの思考のタイプが整理されています。

 実際の授業をしていると,

 このルーチンの中に,別のルーチンが入っている,

 「入れ子」構造になっていく場合も少なくないでしょう。

 「考える授業」を中心としたよい授業実践を通して,何とか「考える文化」を構築したいものです。

 教育創造学の中心的なテーマになっていきそうです。


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「もったいない」のは日本人そのものだった?

 「もったいない」・・・ワンガリ・マータイさんが国連での環境に関する演説で紹介してくれた日本語である。
 
 リサイクルというとドイツが有名だが,日本も負けてはいない。

 物に感謝し,大切にする。そして無駄を出さない。

 この言葉は,能力は高いのに実力を発揮できない状態も表すことができる。

 学力の面で言えば,「記述問題に弱い」とされる日本人の力である。

 グローバル社会においては,能力が低い割に,しゃべることはご立派,というのが大事なようだが,日本人はまだそういう人を

 「舌先三寸」

 の人間と見て,軽蔑する傾向がある。

 こうしたブログのように面と向かわない相手を文字で攻撃することは得意でも,

 いざ本人の前に出ると,何も表現できなくなってしまう。

 ビジネスの世界でも,能力は高いのにうまく相手に意図が伝わらないとか,

 そもそも高い能力を発揮したりさらに伸ばしたりする方法がわからない,という悩みがあるようである。

 
 
 こうした「もったいない」人間が多くなってしまう原因は何かと考えると,まず思いつくのが

 日本における「言葉」の授業の在り方である。

 「国語」と「英語」。

 この2つの「言葉」の授業では,だれかが書いた文章から「読み取ること」が中心になっている。

 授業では,書いてあることを読むことや読み取ったことを発表することが中心で,「自分の考え」を述べる機会はほとんどないと言ってよいだろう。

 「言葉」の授業でそのような習慣を6年なり12年にわたって繰り返していれば,「相手のことを理解する」ことしか頭にない人が増えるのは当然である。

 日本人は,「自分の主張をする」前に,まずは「相手のことを理解する」ことが優先する傾向があり,おそらく道徳教育でもそこに重点が置かれているだろう。

 ビジネスの世界では,「自分の考えを相手に伝える」ことが最優先で,場合によっては相手のことを理解したり,相手に理解させることは二の次になっていく。

 そういう世界に生きる人間を育てるのにぴったりした教育をしている国も少なくない。

 もちろんバランス感覚が大事なのは当然だが,バランスを最重視しようとしている国は,どんどん相手の主張を受け入れざるを得なくなり,国益は失われていく方が多くなるだろう。

 それでも「バランス感覚が価値の最上位であり続けるべき」というのなら,そういう意識を相手に持たせるほどの影響力をもつには,どうしたらよいかを考えなければならない。

 グローバル社会のスタンダードは,「影響力」とは「自分の主張が無理にでも通せる力」と同じ意味である。

 パクリで稼ぎながら教育ブログで自画自賛系の発言をする人たちを,嗤っていられる余裕はない。


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IQが高いのにテストの点が低い子どもたち

 IQはいくつかのパターンのテストで測定することが可能である。

 学力のテストには正解と不正解があるから,これも測定可能である。

 この2つの「認知スキル」には,それなりの相関関係があることくらい,だれでもわかるだろうが,

 教師をしていると,やはり気になるのが

 IQが高いのに成績がよくない子どもの存在である。

 何が足りないのか。

 足りないものとは,数値化して示すことが難しい「非認知スキル」の不足にあるのだろう,と予想できる。

 たとえば「やり抜く力」。「自制心」。「意欲」。さまざまな非認知スキルがある。

 その中で私が最も注目しているのが,「社交性」である。

 小学校教育については,私の2人の子どもを見ている限り,取り立てて「社交性を身につけよう」とする教育がなされているようには思えない。課題が容易すぎて,協同して取り組む意味がないからである。

 1人でやっても,4人でやっても結果が同じで,4人でやった方が時間がかかるとなったら,子どもたちは気の毒に時間を浪費していることになる。

 ただ一緒に何かをさせておけばよい,というのは,保育園の発想である。

 『学び合い』と保育園の違いを説明できる人がいたら紹介してほしい。

 「あなたの子どもは,社交性に欠けますね」という評価を耳にしたこともないし,

 そもそもそういう評価の尺度は学校教育にはない。

 しかし,中学校では自治活動が多くなるため,嫌でも「社交性」が身につけさせられる活動が多くなる。

 残念ながら,IQが低い子どもの中に,「社交性」に大きな課題を抱えていることも原因となって,不登校になるケースが多い。

 勉強もわからず,人とうまく接することもできなければ,中学校で生活することは本当に苦痛になるだろうと想像する。


 IQが高い子どもの中に,社交性に乏しい子どもがいて,もちろん抜群に成績の良い子も多いのだが,ある一定の割合で存在する,IQの割に成績がふるわない子どものことを,ここでは話題にしたい。

 私の関心は,「ある仮説をくつがえすこと」にある。

 社交性というのは,小学校低学年までに,ある程度の「協同的で創造性が求められる遊び」を経験していなければ,(成長してからでは)高めることが難しい資質なのではないか・・・・という仮説である。

 中学校での「反証創造」が,なかなか上手くいかない。

 ただ,勉強を頑張れ,というより先に,もっとみんなと協力して何かを成し遂げろ!と叱咤する方が,成績を上げやすい,ということが実証されると,

 『学び合い』にも意義があることを示せるのである。

 今のところは,「努力中」といったところである。

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自分がよく理解できないことに対して徹底した非難を浴びせる人たち

 知性的な人の文章と,私のように知性に欠けているものがありそうな人の文章の最も大きな違いは何でしょう。

 知性的な人の文章では,知性的でない人に向けて「知性がない」と蔑むようなコメントをわざわざ発信しないものです。

 知性が足りないのに知性があるようなそぶりをしたい人は,自分より知性がありそうな人から,「あなた知性に乏しいね」と言われるのを防ぐために,ありとあらゆる努力をする。

 常に「私の方が知性の点で上だ」という発信をし続けていないと気が済まない人をよく観察していると,自分の経験値が乏しいこと」がばれてしまうリスクを冒してまで,相手の欠点を挙げ続ける傾向にあるようです。

 「他者理解」「思いやり」という非認知スキルに乏しい人は,人生でとても多くのものを失ったり,

 得損なったりする不利を背負って生きています。

 「本当に気の毒な人ですね」というメッセージを直接文字にしなくても,にじみでるように文章を組み立てることで,できれば「思い」が伝わるとよいのですが,

 「理解できない」という思い込みの蓋が外れない限り,非難の垂れ流しで人生も終わってしまうことになるでしょう。

 明らかに「理解しようとしていない」人に,何を言ってもムダだ,というあきらめを表明してしまうと,

 そもそも教育の現場に立つ資格すら失ってしまうという自覚があるので,あきらめずに発信します。

 知性の乏しさは,他人の(なりすましかもしれませんが)批判コメントを自分のブログの文章に貼り付けてまで,

 「貶めたい相手を徹底的に叩く」という醜さに象徴されています。

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事前・事後 どちらも大事

 学校における校内研修での研究授業,各種研究団体が行っている研究発表での研究授業は,

 「事前」の研究の基盤づくり,指導案づくりに相当の労力をかけています。

 肝心の「授業」は,50分で終わってしまうのですが。

 結婚式と同じで,こうした「授業」も準備がとてもたいへんで,実際に行われると

 あっという間に終わるもの。

 その後が本当の「始まり」となるのでしょうが。

 結婚式のように「研究授業」を1回きりのイベントと考えてしまうようでは,本当に意味はないのは確かです。

 そういう背景を知っている人が,「指導案づくりより優先すべきこと」を主張しているという,

 だれかの考えの背景を知っていないと,見当外れの「間違い探し」,「批判のための批判」となってしまいます。

 もちろん,私などは「それでも事前の研究や指導案づくりも大事」という立場(授業する前に,これはおかしいということがわかっていれば,授業そのものの失敗が防げるから)ですが,

 授業に関する意見交換がほとんど行われず,「指導と助言」でお茶を濁して終わりになってしまうような「研究授業」では全く意味がないので,「事前の研究を上回る努力を事後の検証と新たな仮説の提案などで行っていく」ことが大切なのでしょう。

 しかし,教師には時間がない。そこで,次のような佐藤学の主張(岩波書店『専門家として教師を育てる』125頁)が登場します。

>授業の有効な「教え方」は一つではない。一〇〇の正解がある。それぞれの教師の個性と教室の多様性に即して授業者自身による「学びのデザイン」が尊重されるべきであり,教師の「教え方」の是非を協議するのではなく,教室で生起した一人ひとりの学びの事実の省察(リフレクション)を中心に協議すべきである。どこで学びが成立し,どこで学びがつまずいたのか,そしてどこに学びの可能性が潜在していたのか,それはなぜなのかを教室の事実に即して,子細に研究する必要がある。

 上記の転換をはかるためには,事前の研究(指導案づくり)よりも,事後の研究(リフレクション)を中心に研究授業と授業協議会を行う必要がある。また,研究授業の回数を増やして校内の全教師に提案授業と協議の機会を保障するためには,事前の協同研究は最小限にして授業者のデザインにまかせ,事後の精緻なリフレクションを中心に校内研修を再組織することが必要ある。

 こうした主張についてすら,現場教師の立場からは,

 「そもそも一人ひとりの学びの事実を知るべき立場は授業者にあるのだが,40人の子どもを相手にそれを完璧にこなすのは難しいし,何より頻繁に授業を参観しにくる時間がある大学の研究者しかできないようなことを主張している。」

 「たった一時間の授業の学びもわからないでどうすると言われるかもしれないが,授業は年間に何百時間と行うもので,継続的に子どもを見続けていなければ,わからないことだらけだろう」

 という実感があり,「他の組の担任,他の教科の教師が見ても,子どもはふだんとは違った態度をとるに決まっているので,実態はあまり知ることができないで終わるだろう」という本音があるから,佐藤学の主張も主張されているだけで現場は何も変わらない状態が続くわけです。
 
 要は,「学ぶ姿勢」「学ぶ態度」が教師自身に身についていない,ということに尽きるわけですが。

 「学ぶ姿勢」「学ぶ態度」だけを主張する人たちがでてくるから,余計に反発を受けてしまう。

 「教える姿勢」と「学ぶ姿勢」がしっかりとかみ合っている教師にこそ,学ぶ価値があるわけです。

 ある研究会を主催していた先生に,以下のように申し上げましたが,なかなか実現はされていないようです。

 「この研究会に参加した先生方に,ご自分の実践を通して,研究会で学んだことの成果を発表していただく時間を研究会に設けてくださいませんか」

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自分ができないこと,失敗したものは,すべて「悪」?

 自分ができなかったこと,失敗したことを,すべて「そもそも良くないこと」として処理し,

 責任から逃れようとしたり,自分の精神の崩壊から免れようとする人間がいる。

 これが恋愛とか,結婚とか,個人的なことであれば,その人個人の問題で終わりとなるが,

 社会の多くの人たちがかかわるものが対象となると,

 負け惜しみとしかとれなくなることに気づいてほしい。


 絵画のコンクールに出品して,賞がとれなかったことに憤慨し,

 選考委員を侮辱するような言葉を投げかける人もいるのだろう。

 賞を逃したことに顔を歪める人間の姿など,想像もしたくない。

 人間の醜さの象徴である。


 「受験勉強」が悪という考え方は,わからないでもないが,

 繰り返し申し上げて恐縮ながら,たとえば東大の入試問題に対応しようとする受験勉強は,

 とても意義があるものと考えている。

 中高一貫校の適性検査問題に対応するための勉強も同様に,決して無駄になるとは思えない。


 だからコンクールで賞をねらうことが一律よくないものだとか,

 受験勉強は悪だとか,まるまるすべてをひっくるめて否定してしまうような発言は,

 あまりにレベルの低いコンクールなり受験を経験したことの悲劇的結末としてしか受け止められなくなってしまう。

 
 あとから自分の勝手な理屈をつけても,優れたコンクールで入賞した人たちの輝かしい

 未来や,受験勉強を突破し,志望校で一層の勉学に励む数多くの成功者たちから

 目を背けているとしか思われないのである。


 大学の先生の紹介でハーバード大に留学することに決まった教え子が,高校に成績証明書を取りに来た帰りに立ち寄ってくれた。

 同じ大学への合格を目指す生徒を鍛える塾の講師の仕事はとりあえずやめることになったという。

 この塾に通っている中高生にとっては,学習そのものはもちろんだが,「優れた先輩」に接する時間をもてるだけでも幸せだと私は考えている。

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「基礎」ほど難しいものはない

 スポーツにしろ勉学にしろ,「基礎が大事」だということを疑う人はいないだろう。

 わかりやすい例は,基礎問題ができないのに応用問題ができることはないという感覚。

 ただ,「基礎」の定義はとても難しいものである。

 「基礎」の中にすでに「応用的なもの」が含まれてしまっている場合があるし,

 「基礎」ができているつもりでも,全く「応用」に歯がたたない,という場合もあるからである。


 学習指導要領では,基礎的な知識・技能の習得が大事で,かつ,それらを活用する

 思考力を育成することが求められる,としている。

 実践している人はすぐにわかると思うが,実は基礎的な知識を単純に使えば思考できるわけでもない。

 思考した結果として,本当の知識が身に付くという場合も多い。

 だからこれらは単純に「基礎」と「応用」として区別することができないものである。

 知識はあるのに「教え方」がわからない教師がいるのもわかりやすい例だろう。


 文科省としては少し都合が悪いことに,「思考のルーチン」「思考の技能」などの新しい

 言葉が平気で使われるアクティブラーニングが注目されてしまった。

 従来の4つの観点では評価できないジャンルができてしまっていることに,一部の人は気づいている。

 これは,「新たに指導し,評価すべき観点が加わった」と捉えるべきである。


 「思考」するにもいくつもの方法があり,自分がどのような考え方を使うべきかを

 判断する能力も求められるようになっていくのがこれからの時代である。

 
 困るのは,教師の方である。

 今までに「検証」などという言葉を使ったことがない教師は,

 仮説も理論もなく,当たり前の実践をして,ただ気づいたことを挙げただけで

 「検証した」などとうかれてしまったりする。

 
 野球部が試合に勝てない。

 実践練習をやめて,単純なゴロのノックを繰り返ししてやった。

 そうしたら,野球が好きになってくれた。

 難しいプレーにチャレンジさせるだけでは,満足感は得られないことがわかった。

 これが本当にすべての生徒にあてはまるかどうかを確かめるのが「検証」である。

 「検証」を始める前に,ろくな「仮説」が立てられなければ,理論もくそもない。

 だれでもわかることを「仮説」と言ってみても仕方がないのだ。

 そもそも生徒は多様な価値観をもっているという大前提を喪失しているのがダメ教師の典型である。

 これから教師を志す学生たちも,気の毒である。

 教育実習の現場に行って,何を学ばせられて大学に帰ってくるのか。

 その実態を明らかにしたら,それこそ教職課程の単位そのものへの信頼など消し飛んでしまうかもしれない。

 
 自分にはできないことを,他人には平気で要求するのがダメな教師のわかりやすい姿である。


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だまってパクっている人を見つけてみて!~アクティブ・ラーニング~

 思考力の育成に目が向かうようになっている学校現場ではあるが,

 子どもたちが学校に買わされている教材をざっとながめてみてほしい。

 「思考力」が身につけられそうな教材がどのくらいあるだろうか。

 ドリル系のものは,どう見ても「数をこなして身につける」「書いて覚える」タイプのものが多く,

 実際の授業でも,あるいは定期テストでも,実際にはどうやって子どもが評価されているかは,

 ここで指摘するまでもない。「勉強」のイメージが変わらない限り,「知識重視」はゆらぎそうにない。
 
 まだまだ学校は「覚えさせること」にすら四苦八苦している状況にあるのだ。


 それでも学校,教育委員会から,「研究!研修!」と尻をたたかれる。

 毎年開かれるのが当たり前になっている地域の「研究会」などは,とにかく「はやり」のものを取り入れないと「研究した気にならない」というおそまつな発想に陥っている。

 だからアクティブ・ラーニングなどという「流行文句」を「ひっかける」常套手段として用いて,関心をひいたり,客寄せしたり,何だか新しいことをしているような気になったりする。

 
 紹介された実践が本当にアクティブ・ラーニングの名にふさわしいかどうかは,

 どれだけ子どもが「脳みそから汗をかく」ような実感がもてているかで判断できよう。


 さて,教育界では,人の実践をパクることなど,いつでも起こりうる。

 さすがに大学の先生は引用元を明かしてくれるだろうが,だまって自分のアイデアのように発表する人たちを監視する人がいないので,出版社は気をつけておくべきだろう。


 小中高におけるアクティブ・ラーニングの実践について,私が最も参考になると思っている本は,

 少し前に出版された「Making Thinking Visible」である。

 この翻訳が今年の9月に出版された。

 『子どもの思考が見える 21のルーチン』(北大路書房)は小中高,どの校種のどの教科の教師が読んでも,

 授業でアクティブ・ラーニングらしきものをする上で,参考になる。

 (ただし,翻訳本は,訳語にちょっと難があるものが気になる。「4つの方位」が何を示すか想像できる人はいないだろう。)

 
 原書を読んでいるであろう人が,第1章の言い回しなどをすでにいくつか自分の本などにパクっていることを発見した。

 もちろん,「そんなこと,俺は昔から知っていた」と白を切ることはできるだろう。

 私自身も読んでいて,全く同じことを感じていたし,すでに文章にしているものもあった。


 参考文献に「Making Thinking Visible」が載せられていないパクリ本を,どこかで紹介しておきたい。


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指導の意味がわかっていなくても,教師になれてしまう教育界

 最近は,研修でもただ話を聞いて終わり,ではなく,わずかな時間でも何かの活動を取り入れるところが多くなっている。

 私は現場の教師であるから,年に2~3回しか研修の依頼を受けることができないが,実際に自分が講師をつとめる研修で,何かの課題に取り組んでもらうと,

 参加者の教師としての資質を垣間見てしまうおそろしさを実感するようになってきた。

 これは教室の授業と全く同じ感覚である。

 うんうんとうなずいて授業に集中しているような子どもが,実際には何も理解できていなかったことにがっかりする経験を多くの教師がしているはずである。

 「集中して話を聞かせること」ができたからといって,子どもが何かをできるようになるとは限らないことくらい,普通の教師なら知っている。
 

 口では立派な見栄をはれるものの,実際に自分が他の人と協力して何かの作業をすることが苦手な人が教員には少なくない。

 中学生でもできる課題ができない教師がいる。

 教員採用の担当者には,ぜひこのような研修に参加してもらって,参加者の動きを観察してみてもらいたい。

 
 教育ブログを読んでいても,ほとんど「指導」の意味すら分かっていない人も見かけることがある。

 「できるようになるために,難しいところを集中的に練習すればよい」などということを,まともな教師が口にするわけがない。

 時間の感覚がマヒしているのは,本務ではない部活動で給料をもらっているような教師に多い。

 子どもの側も,教師の側も,時間が限られた中で学習活動,教育活動を行っていく上で,最も非効率なやり方は,

 「できないところばかりやって,できないまま終わる」パターンである。

 むしろ「どんどんやる気をなくしていく」結果に終わりやすい。

 こういうのが「指導」であると誤解しているような「鬼コーチ(すでに死語になっていると思われるが)」は,そろそろ死に絶えるはずである。

 私が勤務していた中学校の吹奏楽部は全国のコンクールで毎年金賞をとってくるような部活動であったが,練習時間に占める顧問が実際に指導にあたる時間はあまり多くはなく,基本的に上級生が下級生に教えていくスタイルをとっていた。

 もし教師が本当に自分の指導力を身につけたかったら,このような学校の生徒たちが下級生や同級生たちにどのような態度でどのような内容の言葉をかけることによって,できなかったことができるようになったか,上達していくのかを知ることから始めてみるとよい。

 上級生が下級生に教えることができる・・・生徒の自主的な活動の場であるべき学校の部活動と,ふつうの授業の場が決定的に違っていることを自覚しないと,現場感覚に乏しい偽物の教育論になってしまう。

 
 気の毒な話ではあるが,主体的な活動場面がある授業を自分が中学校時代に体験したことがない教師は,そもそもそのような場面で発表すべき「自分の言葉」が表に出てこない。

 優秀な答えを述べてくれた参加者の先生への拍手でその場は和むものの,

 このような発言ができない人は,教師としての致命的な欠陥を持っていると心の中で叫んで,研修を終わることがときどきある。

 指導とは,失敗させることからが本当の始まりである。その失敗に自らが気づき,改善点を自ら見出させ,進んで取り組ませることができない教師は,「指導者」ではない。ただ棒を振っているだけの「指揮者」のようなものである。


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「良い先生」の判断基準は人によって大違い

 「良い先生」と呼ばれたい教師は多いだろうか。
 
 この「良い先生」という判断の基準はさまざまなだから,八方美人にも限界がある。

 多くの場合,特定の個人から見て「自分に都合の良い先生」のことが「良い先生」の主たる意味だったりする。

 小学校では,「この先生はテストをあまりやらない」となれば,

 大人気になることがある。確かな学力を定着させるよりも,子どもを楽しませることが教師の仕事になる。

 また,「この先生はあまり細かいところで注意をしない」となれば,

 「とてもやさしい良い先生」になる。

 「生活指導は生徒の自主的な判断が大事」というお題目を盾に,何もしないことがよいことだという教師がいた学校は,荒れに荒れていた。

 でも「やさしい先生」という評価は揺らぐことがない。

 ある人は,「良い先生というのは自分の宣伝をしない」という。

 一方で,「自分の宣伝をしない人は信用しない」という。

 自分は自分の宣伝をしているから,自分のことを「良い先生」だとは思っていないようだが,

 「良い先生」の存在自体が想定にない人間もごくまれにいるようだ。

 
 「良い先生と呼ばれたい症候群」の治療には,「子どもに好かれたい」という単純な欲求だけしかないと思われずにすむような行動が必要である。

 おおげさなようだが,まずは「教育の目標」にたちかえることが,公務員としての教師のつとめだろう。

 教育基本法の第2条。

教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 これらの目標に対して,直球=ストレートで挑もうとしているのが「道徳科」である。

 「道徳科」実践の最大の課題は,目標達成への一人一人の意欲を高めるための方法である。

 当たり前すぎることだが,「週1時間の教室での授業」をすれば達成できるものではない。

 生徒がどのような体験を通して,それらの価値の大切さを実感できるかが勝負である。

 本当に「良い先生」なら,何を子どもに体験させようと考えるだろうか。 


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教育に情熱をささげられなかった人たちの「退職後」

 教師に対する最も厳しい評価の目をもっているのは子どもたちである。

 日本には「目上の人たちには有無を言わさず敬意を払うことを強いる」文化があるが,

 心の中では何を思っても自由である。

 だからこそ,かつての教え子と再会としたときの「ぶっちゃけトーク」を教師は大事にしておきたい。

 まだ退職まで間がある教師なら,自分の成長を30歳も年齢の開きのある教え子たちとの会話で確認することができるだろう。

 
 退職を迎えて,過去に自分に影響を与えてくれた恩師を思い出して,

 「恩師を超えることができた」などと思うことは不遜な態度と見なされる。

 ただそのような傲慢な人間でも,教育に対する情熱をもっており,退職後もその情熱を失わないのであれば,

 学校で今,どのようなことが課題になっているのか,

 子どもを取り巻く環境はどうなっているのか,

 スマホが子どもをどのように変えているのか,

 などといったことに興味なり関心なりがあることだろう。

 恩師の時代と今とでは,子どもを取り巻く環境が大きく変化しており,

 教師の役割は肥大化している。

 しかし変わらないのは,人間が人間に自分が学んだことを教えて伝えていくという基本スタイルである。

 誤った『学び合い』の実践が拡大しているようだが,それは大学教育の質の劣化が招いた当然の結果だろう。

 そもそも自ら学ぶ意欲のない大学生が,教育実習が始まってから3週間たって「勉強の意味がわかった」などという感想を残すような大学に,教員養成の期待などかけられない。採用試験には決して間に合わないだろう。

 子どもの質問に正面から向き合えない大学生を見て,教員に採用しようとする愚かな人間は幸いにも行政にはいないので助かっている。

 話がそれてしまった。


 退職金がもらえなかったり,年金や退職金だけでは老後の生活が不安だという人が,

 金儲けのことを考えること自体は,

 「1億総活躍社会」では「求められる高齢者像」にあたるのかもしれない。
 
 趣味で生きていくにもお金がかかるものである。


 私が知る限り,教育への情熱を失っていない人,

 しっかりとした信頼なり実績を残した人というのは,

 やはり教育の世界に根をはって生活されている。

 大学の教師になる人,教育委員会の事務局に残る人,地域の学校でボランティアをしている人などなど・・・・。

 
 孫を進学校に入れたくて子や孫の尻をたたいているじーじやばーばも増えているようだが,

 教育の世界で本当に充実した仕事を終えて,さらに充実した退職後の生活を本物の「教育」を通して実現する人というのは一握りだけかもしれない。


 手当たり次第に毒をはきまくって,過去のろくでもない思い出話ばかりしているようでは,

 教育の仕事への魅力が失われるばかりである。

 
 本当に幸せな教師生活が送れていたと思えるような文章を残していただくことを,

 「元教師」の方々にはぜひともお願いしたい。


 見苦しい醜態を退職後もさらし続けないでいただきたい。

 現役の教師は,やはり現場にいるうちに,自分の「真価」を発揮すべきである。

 その「真価」には,「あとを引き継ぐ教師たちの教育」という側面があることも,決して忘れてはならない。


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小中学校における児童虐待

 児童相談所への相談件数が増加の一途をたどっているという。

 児童虐待の定義の範囲が広まったことが背景にあるというが,

 増加の一途をたどる「相談」自体も,実は氷山の一角にすぎないであろうと多くの教師は感じているだろう。

 「学校は閉ざされている」と批判されている。

 しかし,「閉ざしていて当然の家庭」の実態がつかめない学校の教師が,

 確かな情報をつかみ,子どもを理解することは難しい。

 学校の中には,今や教育機関というより,福祉施設のような様相を呈しているところがある。

 施設内でも虐待が起こることがあるが,情報が外にもれにくいのは,
  
 子どもが幼く,「閉ざされた空間」になりがちな小学校の「学級王国」である。

 児童虐待にはネグレクトも含まれる。

 指導に従わない児童を放置している学級があるが,これはネグレクトに近い。

 担任教師による「言葉の暴力」といわれる精神的虐待も,接している時間が長い小学校で起こりやすい。

 中学校では,入学当初から教師不信の塊のような子どもを見ることがあるが,

 子どもの視野を広げてあげるには,さまざまなエピソードを語ってあげることに限る。

 「まだ自分はましだった」と思わせることができるようなエピソードが豊富に聞ける立場にあるということは,

 指導上有効的であるとは言っても,決して幸せな気持ちがすることではない。

 学級を留守にすることが多い小学校の担任教師の姿を想像することができる人はいるだろうか。

 「ネグレクト教師」は「(遊んでばかりで)楽しかった小学校生活」を演出してくれたが,

 そのおかげで深刻となった学力不信をとりかえすのは,なかなか困難なものである。


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自己弁護のための「作文」ほど見苦しいものはない

 自分の指導の成果が上がらないことを,前の指導者のせいにする「一流の人」はいないだろう。

 たとえば中学校の教師だったら,小学校で学習習慣をつけられなかった低学力の子どもがいたら,

 まずは学習の習慣なり,学び方なりを教えてあげることが自分の役割となる。

 そして,「できない」理由を勝手に自分で解釈してはいけない。

 たとえば,耳から聞いただけの情報と,自分がその課題のどこが重要かを人に話してみることを通しての理解の度合いは全く違うという,教師としては当たり前の知識を前提に,自分の指導がどうなっているかをふり返ることを忘れてはならない。

 責任を目の前の子どもと前の指導者になすりつけるだけの人間は教師失格である。


 学習活動は,能力の向上の度合いに合わせて,だんだん難しい課題になっていくように配列されている。

 だから,中学校には「すべての子どもが容易に理解することは難しい学習内容」がだんだん増えていく。

 「こんな簡単なことをすぐに忘れるのか!」と憤るのではなく,

 一つ一つの「単純なこと」がお互いに絡み合って,「複雑なこと」になっていくことや,

 そもそも「複雑なこと」だったものを,いくつかの「単純なこと」に分解して,全体像を理解することのおもしろさを味わわせたりするのが教師の役割である。

 たった一人の人間ですら決して「単純」ではないのだから,身近なクラス,そして学校,社会というものの「複雑さ」は想像ができないほどのもののはずである。

 

 指導力がない教師の場合は,先にあげたように子どもは自分でだれかに説明することによって学習対象の理解はしやすくなるから,『学び合い』の効果が認められる場合がある。

 ただし,その説明が正しいかどうかを1人の教師が確かめることはできないので,「誤解」を防ぐための「安全策」として欠かせないのが「一斉授業」なのである。

 指導力のない教師は,「部分」をしっかり理解できていないことにすぐに怒ってしまうが,「全体」像を把握させようとしない教師では,たとえ「部分」の理解が完全になっても,全く異なる「全体」像を描かせてしまっているおそれがある。

 「木を見て森を見ず」

 「群盲象をなでる」

 という教訓くらいは知っておくべきだろう。

 「~なんて大嫌いだ」という印象を子どもに植え付ける教師も,それに近い問題に当たる。

 私もそのおかげで小学校のときに理科が大嫌いになったが,なんとか中学校,高校で挽回できた経験をもっている。

 音楽の演奏なら,楽譜通りに演奏しているはずなのに,「いい音楽」に聞こえてこない。どこかが違う。

 違和感の根本原因が「演奏者自身が音楽を楽しんでいるように見えない」ことだったりもする。

 小学校の教師が,やたら「教科を好きにさせること」に執着する理由がわかったような気がする。

 「~先生に~を習ったから,大嫌いになった。やる気がしない」という子どもをたくさん目の前にして当惑した経験があるからだろうか。

 しかし,もし指導力のある教師なら,そういうときこそ最大のチャンスになるだろう。

 「~先生の~って,本当におもしろい。好きになった」

 指導力のある教師でも,そう言われて嫌な思いをする人がいないから,

 「教科を好きになることは大事」と口にするのかもしれない。

 大切なのは,「なぜ好きになったか」ということである。

 充実した指導があって,子どもはその教科を好きになるのだから,

 「好きにさせること」というより,「充実した指導をすること」が大事なのである。

 
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「子育て」の成功への意欲

 「子育て」への関心の高さは,子どもが何歳くらいのときがピークだろうか。

 「子育て支援本」「子育て指南本」では,何歳くらいの子どもをもつ親をターゲットにしているのだろうか。
 
 小学校の中学年くらいになると,「受験指南」の本を求める親が多くなるが,

 ここでは「お受験」ママ・パパの話は除外させていただく。

 「希望格差時代」というのは少し前にはやったかもしれない言葉だが,

 あまりに現実的すぎる言葉というのもマスコミなどは使うことを遠慮するものである。

 ここでは,子どもに期待をかけてくれる親を想定する。

 中でも「成功」のハードルが高い親。

 多くの親は,ある程度の時期を過ぎると,現実を知って,「あきらめ」てくれる。

 期待をかけて育ててきたものの,すべての子どもがノーベル賞をもらえるような学者や文学者などになれるわけではない。

 すべての子どもが東大に合格できるわけではない。

 すべての子どもが甲子園で優秀できるわけではない。

 みんな,「ほどほど」まで活躍できて,満足せざるを得ないのがこの世というものである。


 しかし,中学生ぐらいまでは,どうしても「過剰期待」を継続する親が少なくない。

 特に,それなりのネームバリューがある学校に通わせていたり,

 トップアスリートを育ててきたコーチに習っていたりすると,

 「夢をあきらめない」親がたくさんいたりする。

 「成功」への意欲というものがあるから,「成功」への道が見えてくると信じている。

 最も重要な事実から目を背けて。


 最も重要な事実とは,

 「成功」させるのは子どもの方だ,ということである。

 「親は本気だが子どもの気が乗らない」という話は耳にタコができるほど聞いた。

 「成功」するためには努力が必要である。

 その努力をするのは子どもである。

 親は何を努力しているのか。


 子どもに努力させようとする努力をする。

 いちいち細かな指示を出し,「努力している」姿を見ないと気がすまない。

 こういう親の子どもの中に,

 「成功とは親を喜ばせることだ」と誤解する「よい子」がつくられていく。

 そして,やがて,つぶれていく。

 親がまず心を病み,続いて子どもの心も蝕まれていく。


 こういうタイプの「心の病気」に対して,カウンセラーはどのような役に立てるのだろう。

 子どもがつぶれた後の親の中には,

 「こんなことになったのは学校のせいだ」と教師への攻撃を開始する人が増えてくる。

 それが今の「教師の多忙化」の原因の一つである。


 「成功」とは何がどうなった状態を示すのか。

 「夢のような成功」と,送りバントの成功のような,「手堅い成功」と,区別できているか。

 
 そして,「成功への意欲」によって,とても醜い姿を子どもの前でさらしていないか。

 親は鏡を見るべきであり,自分が鏡であるべきである。

 
 玄関のくつをそろえてくれてありがとう。

 食器をかたづけてくれてありがとう。

 洗濯物をたたんでくれてありがとう。

 
 親が子に,子が親に感謝できる家庭の中から,「子育ての成功者」は生まれると信じていたい。


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「子育ての成功」とは何か

 「子育て」に悩んでいる親は少なくない。
 
 私のように「子育て」に悩もうとしていない親も,少なくない。

 どちらかというと,「子育て」に悩んでいる親の方が素晴らしいと思う。
 
 教師になって,「教育」の諸問題に悩んだ経験がない人はいないだろう。

 もし悩んだ経験がないという人がいたら,その人の仕事ぶりを見てみたい。

 人を思いきり悩ませるわりに,自分は全く悩まないという困った人は教師にもいるかもしれない。

 さて,「子育て」に悩むといったとき,そもそも「子育て」は何をどうしたらいいのかわからない,

 という人もいるだろうが,

 「言うことをきかない」

 「勉強しない」

 「勉強ができない」

 「片づけができない」

 「夜更かしして寝ない」

 など,現実的な問題に直面している親が多いはずである。

 ただ,「それは子育てという親としての役割を果たしていないせいなのか」という自問を経た上での悩みなのかどうかは確認してみてほしい。

 ある小学校では,子どもの基礎学力の定着に関する努力を完全に放棄し,

 「親の役割だ」というスタンスをとっている。

 こういう小学校に子どもを通わせていた親の中に,

 「私のせいで子どもが勉強できないでいる」という悩みを抱えてしまう人がいる。

 親のイライラは,子どもによい影響を与えない。

 子どももイライラし,学校では保健室に行ってばかりという悪循環に陥る。

 一方で,完全に放任し,気楽なままでいる親(「悩む」という選択肢をとらない親)もいるが,

 こっちの子どもの方がよほど勉強ができるようになったりもする。

 もちろん,全くできないまま終わる子どももいるから,「必ずこうなる」と誤解されるのは困る。

 そもそも「子育て」とは何なのだろう,子どもが何歳になるまで「子育て」が続くのだろう。

 子どもが教師=社会人になっても,欠勤の連絡を親が入れるというあきれた話も耳にするが,

 これこそが「子育ての失敗」の典型例だろう。

 「子育て」に悩み,自分が何かをしている,子どもに何かを言っている,

 そのこと自体が「子育ての失敗」と言えるような例もあるだろう。

 「悩んでいる状態」こそが失敗している状況になっているケースである。

 しっかりとした衣食住をととのえてこその「子育て」である。

 「心のよりどころとなる場所」としての家庭を築くことは,「子育て」の基本ではないか。

 おそらく今日も,何人もの子どもたちが「家に帰りたくない」と思っているだろう。

 子ども時代にそうやって育ってきた親たちができることは何だろう。

 「子育ての成功」とは何か。何がどのようになっている状態が理想なのか。

 自分ならできることはどこまでか。

 できないことは何か。

 できないことで悩んでいても仕方がない。

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日本社会に備わっている道徳性を育む文化への信頼

 子どもたちが自らの道徳性を高めようとする気持ちになるためには,何が必要だろうか。

 どのような経験が効果的になるだろうか。

 これまでの「道徳」教育の最大の問題点は,

 「その道徳的価値を今ここで考えることの必然性や妥当性」を子どもが認識しにくいことにあった。

 おそらく,「道徳科」になってもその問題は解消されないだろう。

 22の項目に向き合うための心の準備の時間が足りないのである。

 道徳的価値に向き合うための準備ができあがる場として多くの人が想像できる例がある。

 その一つが「組体操」である。

 なぜ危険な取組みなのに,学校は実践を続けるのか。

 それは子どもが道徳的価値に直接的に向き合うことが可能になるチャレンジだからである。

 道徳的価値を学ぶのに十分な準備ができていない状態で授業を行うと効果に乏しいことを多くの教師は知っている。

 たとえ,「考える道徳」になったとしても,「考えるための材料」がなければ役に立たない。

 どの引き出しをあけてもからっぽだらけでは,出てくるのは思いつきの言葉だけである。

 言葉だけが無意味に飛び交う道徳の授業を受けた経験はないだろうか。

 もし,道徳の時間を廃止して,特別活動の時間を増やしたら,どのような教育を学校はできるだろうか。

 日本には,「道徳の授業をせずにどれだけ道徳教育を充実できるか」という研究ができるところはほとんどないが,「教育特区」ではチャレンジしてみてもらいたい。

 そして,そもそも日本社会には,人間の道徳性を育む文化があり,そこに包まれている間は安心だという信頼感をもてるような国を目指したい。

 これからの学校は,子どもにもっと社会にふれされる場をたくさん設けるべきである。

 
 新しい道徳科の授業案を,各企業に提案してもらう機会をつくってほしい。

 テレビのCFを道徳の授業で使ったことがあったが,働く人たちの現場からの声を聞ける機会を子どもに提供してあげたい。

 
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不満のぶつけどころがない人の悲哀

 家族が一人もいない生活を送っている人が増えている。

 愚痴を言われないかわりに,自分も愚痴をこぼせない。

 厳しい言葉をかけられる心配がないのと同様に,優しい言葉をかけられることもない。

 ネットのように不満の「処理場」を持っている人は気を紛らわせることができるかもしれないが,

 「思い出」だけではやがて生きている実感を失いかねない。

 家族とは何だろうか。

 実は,家族がいるのに同じような境遇にある人も少なくないことを知っている。

 教育現場にいると,多くのことを知ることになる。

 子どもたちの心の健康は,学校だけで守れるものではない。

 学校は一時的な避難所として使えるところかもしれないが,

 学校の中の保健室にしか避難できない子どももいる。

 経済的な貧困だけが,子どもを蝕んでいるのではない。

 心の貧困の解消に,どれだけの大人が自覚的になれるかが,

 将来全く同じような境遇の子どもをつくってしまうかどうかの別れ道となる。

 自分の力不足を見苦しい他人批判で紛らわすような行動をとる大人をいろんな場で目にする。

 「恥」の文化が失われてしまったことが残念でならない。


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巨人ファンを止める日

 父親の膝の上で,物心つく前から「野球は巨人を応援するもの」と思い込まされてから,

 すでに半世紀近くが経過しようとしているが,他球団の主力選手がクリーンアップを打ち始めるようになってから,いつかは巨人ファンでなくなる日が来るのではないかと不安とも何とも言えない気持ちでいた。

 昨年,リーグ優勝を3にのばしても,それほどうれしくなかったのは日本シリーズに出られなかったからなのか,どうかははっきりしない。

 今年はリーグ優勝を逃したが,日本一になるチャンスは残されている(これもヘンな話と言えば・・)。

 まだヤクルトを破って日本シリーズに出ることを期待している気持ちがあるということは,

 今でも巨人ファンであったのだと確認することができた。

 しかし,巨人の現役選手が賭博にからんでいたという報道は,衝撃的なものである。

 軽い気持ちから手を出し始めたのかもしれないが,すでに相撲界でも問題になっていたことでもあり,

 球団がそれなりの「教育」もしていたはずである。

 今回,「借金取りが来て発覚」という何とも情けない形で明るみになったようだが,

 「情けない」ではすまされない大問題だろう。

 すでに遠藤大臣からもコメントが出されている。

 東京オリンピック招致が決まって今まで,いろんなゴタゴタがあったが,せめて

 スポーツ界自体はまともであってほしかった。

 が,そうではなかった。

 とうとう巨人ファンであることを止める日が来るのか。

 何かあり得ないほどとてつもない大きなものを失った気がするが,

 きっと私個人の感傷で終わる話ではないだろう。

 全選手への聞き取り調査が行われるという。

 クライマックスシリーズどころではない。

 高校野球では,出場停止は当たり前のことである。

 プロなら許されるというのは200%誤った論理である。

 今時,「野球以外のこと,相撲以外のことは何も知らない」ですまされる時代ではない。

 巨人でなければ,これほどまでの衝撃がなかったかもしれないという

 気持ちがあることも,今,居心地が悪い原因である。

 山本太郎議員の国会でのパフォーマンスがふと目に浮かんだ。

 絶対に死んではならない魂が,どこかにあるはずなのだ。

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学び合いを充実させるための教材づくりの悩み方

 教材づくりでどのような「悩み方」をすると「教師らしい実感」を得ることができるのか。

 引用が長くなるが,ジョン・ハンターの『小学4年生の世界平和』(角川書店)で,教材づくりへの葛藤が描かれている部分を紹介したい。

>危機を脱する何らかの道を子供たちに残してやらねばならないぞ。わかりきったことではダメだし,何か決まった答えを見つけるのでもダメだ。生徒たちが活用できる要素がいくつかほしい・・・充分な洞察力と,抜け目なく関係を築くこと,関係構築ができれば活かせる何か・・・それでみずから危機から脱することができる道・・・それどころか自分たちの利益にすらなる方法・・・いや,ほかの人たちまでも利する方法! そう,そこが肝心だった。

 あと少しでわかりそうなタイミングで,教師が与える絶妙なヒントの感覚は,授業でなければ養えない。

 失敗したか成功したかは,生徒の反応でわかる。

>生徒たちを危機の山で圧倒する必要があることはわかっていたが,絶望の淵に沈めてしまうわけにはいかない。何か抜け道を用意しておいてやらないと・・・ただし,そう簡単ではないやつを。ゲームは絶妙なさじ加減で難しくしなければならない・・・ただし,難しすぎてもいけない。生徒たちの能力を最大限まで発揮させる必要がある・・・ただし,その上限をわずかでも超えることは決して要求できない。

 生徒の能力を信頼することが大事,なんていう話は,アメリカとの戦争を開始する前に軍の幹部が主張したこととたいした違いはないだろう。

 大事なのは,実際に生徒の能力に照らして,どの程度の難易度の教材として提示するかということである。

 難しすぎることに問題があるのはだれが考えてもわかるが,易しすぎても生徒は意欲をなくすおそれがある。

 体の柔軟性を増したり,筋肉を鍛えたりすることと,頭の柔軟性や思考力を向上させる方法には似ている点があるだろう。

 「ちょうどよい負荷をかけること」が大事なのである。

 問題は,能力にかなりのばらつきがある集団で,本当にすべての生徒の能力を高められるのか,という点にある。

 教壇に立ったことがある人でなくても気づくことだろうが,ある生徒にとって難しいことでも,それより能力の高い生徒にとっては易しいこととなってしまうのではないか。

 もちろんその通りである。

 だから,授業では一度にすべての生徒にとっての「適切な難易度の課題」は出しにくい。

 1時間の授業内で,あるいは数時間の単元の中で,その難易度にバリエーションをつけなければならない。

 いつも易→難というパターンではなく,ときには難→易へと難易度を下げて,生徒を安心させる配慮もすべきである。

 最初に難しいところから入る場合には,できるだけ好奇心をもたせる工夫も必要になる。

 こういう授業をつくる苦労を,できれば教育実習期間に経験してほしい。


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教科書に載せたい「議論し合える組織」の大切さ

 道徳科の教科書にぜひ採用してほしい話がある。

 田原総一朗氏が週刊朝日に寄稿した自民党・民主党批判の話である。

 結論から言うと,趣旨は次のようなものである。

 組織は,短期的な視点で自分たちを守るために組織内の議論,反論を封じることがあるが,

 長期的に見るとそれは組織を,さらには国を劣化させる原因となる。
 
 主語を「組織」としたのは,日本では必ずしもリーダーがそうさせるというより,

 空気を読んで組織のメンバーが自らそういう態度をとることがあるから,「リーダーが」とはしなかった。

 そもそも「民主主義とは何か」を考えるきっかけにもなる。

 学級内で意見がまとまらなかったとき,最終的には多数派の考えに少数派が屈服しなければならない場合がある。

 当然,少数派が納得できないままだと,学級の雰囲気は悪くなり,効率が低下し,パフォーマンスが落ちていく。

 多数派が少数派を納得させる説明をできるようになったり,少数派の意見を一部は取り入れたりすることによって,よりよい組織として成長していけることを教えるのが学校教育である。

 こうした「成長する組織」と対極にあると思われるのが,田原総一朗氏が紹介している

 安保法制に代表される両政党の態度である。

 民主党では,対案が考えられていたようだが,党内での対立を避けるために,

 ただの「自民党への反対」ということでまとめたらしい。

 自民党では,党のOBは反対しているが,内部で「反対派がいる」という話を聞いたことがない。

 「民主主義の劣化」は,短期的な視点で一部の組織全体を守ろうとすることで,

 国全体の利益が損なわれる結果に陥る危機を予測しているわけである。

 戦前の日本でも,政党政治が機能していた時期は,軍事費をある程度は抑制できていた。

 しかし,「わが国の利益」より「わが党の利益」を優先させるようになり,1930年代を迎えていく。

 海軍と陸軍の関係は,もっと前から「わが軍の利益」が大事だったようだ。


 「わが党の未来」ではなく,「わが国の未来」を語れる国会議員が政党内に必要である。

 今は,企業と同じように,トップの判断に身を委ねる組織に「政党」が陥っている。

 田原氏はかつて自民が旧ソ連や中国を「独裁」として批判していたが,今は自分たちがそうなっている,と指摘している。

 その背景として,

>衆院の選挙制度が小選挙区制に変わり,執行部が推薦する人物しか立候補できなくなったため,反主流派,非主流派がなくなってしまった

 ことを指摘している。

 また,総裁戦のタイミングでは,

>かつての自民党ならば複数の議員が出馬して,それぞれの自民党論を打ち上げて競うのが通常のパターンだった。そのことで,国民は自民党の議員の発想の広さを知ることができた

 と言う。今は総裁への忠誠心のあかしの方が大切になってしまったのかと。

 すぐお隣の国にも似てきているのか。


 もちろん検定のある教科書に政党批判の話が載ることはない。

 しかし「組織内での議論の大切さ」は最も重視すべき価値として示してもらいたい。


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『学び合い』批判を読むとわかる教育観と指導力

 『学び合い』に対する批判を読むと,その人の教育観なり学習観,結果的には指導力まで見えてしまう。

 一番醜いのは,「先生は生徒より優れている(べきだ)」という奢りや,

 「先生は生徒より優れていなければならない」という焦りである。

 私が『学び合い』の批判をしたきっかけは,ある指導案にあった。

 先生が課題を与える。

 教卓に指導書の該当ページを広げておいておく。

 グループごとに課題の「答え」を考え,わかる人がわからない人に教える。

 だれもわかる人がいなければ,教卓の指導書を見に来てよい。

 答え合わせ。終わり。

 これでは教師は必要ない。

 生徒にとって,切り札は教師用の「指導書」である(さすがに教師もそのレベルでは悲しい)。


 このような実践例が紹介されてしまうような『学び合い』だから,

 あわてて批判したり非難したりする人が出てくる。

 「こんな指導案を教育実習生がつくってきたら,どうする?」

 なんていう「恐怖心」も芽生えてしまう。
 
 もちろん,すべての時間ではなく,最初の授業で実践してみる価値はある。

 どの生徒がどの程度の知識を持ち,説明する力,発表する力,聞いて理解する力があるかを観察することができるからである。

 教師の話は聞かないような生徒でも,本当にやる気がない生徒以外は,とりあえず参加していることに気づけば,「教師が生徒よりもたくさんものを知っていること」が決定的に大事なものではないことが肌でわかるようになる効果がある。

 教師は生徒の能力を「引き出す」ことが仕事であり,

 自分の能力の高さを「ひけらかす」ことが仕事ではない。

 ただし,教師は生徒の能力を「高める」ことも仕事である。

 そこで問われているのが,教師の「指導力」である。

 一斉授業でも,すべての生徒が教師の話に引き込まれ,複雑な関係性をもつことがらについても理解できるようになるには,教師がわかりやすく図で示しながら説明したり,例を挙げてわかりやすくしたり,アナロジー思考を生徒に促したり,生徒なりの意見が出せる場面を用意したり,異なる考えの良さを発見させたり,新たな課題を発見させたりする指導ができているからである。

 こうした「指導力」を生徒に要求することはできないから,先生の存在意義があると言えるのである。

 生徒より楽器が上手に弾ける?当たり前である。

 でもすべての音楽教師がヴァイオリンを演奏できるか? 琴や尺八はどうか?

 50歳を超えてどの生徒により速く走れる先生はどのくらいいるだろう。

 自然の素晴らしさ,集団で協力し合うことの素晴らしさに感動できる人はどのくらいいるだろう。

 元野球選手でも,サッカーの基礎技術を育てるのが「先生」の仕事である。

 サッカーの上手な生徒を先生役にしたり,あるいはモデルにして先生が動きの解説ができるようにする場面を教師はつくるから,「自分自身の技術が高度である」というのは理想ではあるが現実的には不可能である。

 自分の技術をひけらかすよりも,むしろ生徒の良さに目を向けて,生徒が主役になるような授業場面をつくることで,子どもはやる気を出したり,達成できそうな近くて小さめな目標を少しずつクリアし,やがて大きな目標を達成できるようになるのである。

 生徒の「目標達成のプロセス」を目の当たりにできる教師は,経験年数を重ねるほど「よりよい指導計画」を作成できる主体となる。

 子どもの能力に高い期待を寄せ,「やらせてみる」機会を増やすことは正しいが,それだけが「指導」ではないことは明らかであり,子どもから子どもへの「指導」に対する「指導」を忘れてはならないのである。


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「十分な防災設備をつくるべき」VS「海が見えないまちには住みたくない」

 東日本大震災の被災地を定期的に訪れている中学生のレポートを読ませてもらった。

 詳しく紹介したいところだが,一番印象に残った内容だけ書き留めておく。

 新たな堤防づくりが計画されているそうだが,住民の中には「海が見えなくなるような堤防はいやだ」という意見もあるらしい。

 まちを訪れた中学生は,住民に共感していたようである。

 歴史的に,隣国などとの戦争で亡くなる人が多かった国と,日本のように災害で命を落とす人が多かった国では,ものの考え方に決定的な違いをもらたす可能性があることにも気づかされる。

 後者のような危険がある日本は,世界の国々の中では少数派であり,

 他国にはない「強み」を日本人が持っている一方で,「弱み」の根も深いようだ。

 災害をもたらす可能性がある日本の自然は,「美」であふれている。

 噴火をすれば恨みの対象になる火山も,穏やかなうちは「宝物」である。

 災害のおそろしさを知っている日本人は,同時に自然のはてしない美に囲まれて生きている。

 万葉集や古今和歌集の歌にふれると,1000年以上も変わらない自然を五感で楽しむ心があることを実感することができる。

 危険をゼロにすることはできないし,ゼロに近づければ近づけるほど,生活がしにくくなり,不自由さに息が詰まってくるだろう。

 自然の美を十分に堪能しつつ,リスクを上手にコントロールする知恵を磨いていきたい。

 「ここの堤防は完璧だ」という極端な「信仰」によって命を落とす人もいた。

 「安全だ」と信じることで本当に「安全」になるという「信仰」によって命を落とす人もいた。

 
 じっとしていないで,動きながら考え,考えながら動ける人になれるような教育を心がけたい。
 
 
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なぜ学校は「やめる」決断を下せないのか

 教育に限らず,人間の生活というものは,それまで当たり前だったものにあまり疑問を感じずに,繰り返していくという性質をもっている。

 人間は「習慣の奴隷」という言い方があるが,無理矢理やらされているというよりは,

 むしろ進んで過去の通りに行動しようとする傾向がある。

 組体操でのタワーは,運動会最大の「見せ場」である。

 これを廃止しようという声がたとえ内部から起こっても,なかなか「廃止」を決断できないでいるのは,

 意思の弱さの証明でもあり,逆に強さの証明にもなる。

 「困難に打ちかつ」「成功をみんなで勝ち取る」までの努力と,達成できたときの充実感,達成感の大きさが教育上はかりしれないくらいの意義をもっていることを教師たちは知っている。

 学習指導要領に載っているとか載っていないの問題ではない。

 教育効果が高いか低いかと言われれば,高いのである。

 ただし,危険を伴うわけで,「ハイリスク・ハイリターン」の教育の典型である。

 「大けがしたらどうする」という声は,「させないように努力する」という声でかき消されていく。

 「かわりに何をするのか」という「攻撃」をかわすには,それ以上の「代案」が必要であるが,なかなかいいアイデアは浮かばない。

 伝統の上に乗っかっていることが楽でよいのだ。

 しかし「歴史」はあまりそういう趣旨で「利用」してほしくはない。

 本当の「伝統」は常に進化しているからこそ存続している,という実感をもてている人は一部だろうから,

 そこは地道な「啓発活動」が大切である。

 「全員参加」にこだわることはやめる。

 鍛え抜かれたメンバーで,怪我のリスクを最小化して臨む。

 選抜されなかった生徒も,気持ちを一つにして応援する。

 そういう学校もたくさんあるはずである。

 安易に「安全重視」に走ると,運動会には「かけっこ」だけになってしまう。

 「安全重視」と「安全軽視」の間が,日本の場合,スカスカであるのが問題なのだろう。

 「危険が全くない安全」などあり得ない。

 「安全はコントロールするもの」という意識がほしい。

 「安全」を「平和」におきかえても同じような気がするが,長くなりそうなのでやめておく。

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1億総活躍社会・・・「高齢者」概念の廃止?

 中学生に「1億総活躍社会」と聞いて,どんなイメージが浮かぶか聞いてみた。

 「全校生徒が活躍できる学校づくり」などは生徒会役員選挙に立候補する生徒がスローガンに掲げそうなフレーズだが,「1億火の玉」・・・ではなく「1億総活躍」とは,ずいぶんスケールが大きな話である。

 ある生徒は,「高齢者」という概念はなくし,「定年制」も廃止,と主張。

 働けるだけ働いてもらう。

 若い人が就職できなくなるのでは?という質問には・・・

 人口が減っていくのだから,代わりに働く人が必ず必要になる,とのこと。

 人口が1億人に減少したときには,とにかく1億人全員が活躍できないといけない・・・?

 ここで一言。

 このスローガンは,寝たきりの人とか,介護が必要な人にとってはつらい言葉ではないか。

 まるでそんな人は存在してはいけないみたいな。

 One for All と同じで,全体主義的な香りはしないか。

 すぐに「1億火の玉」というスローガンを思い浮かべてしまった人が多いと思われるのは,

 日本の歴史を学んだから・・・・。

 担当大臣が選ばれるらしい。

 1人で10人分の活躍をするとかいう話なら,わからないでもない。

 教師なら,「1人で3人分は働いてくれている」と褒められた(おだてられた)経験をもっているものである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より