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小学校と中学校の教師をそっくり入れ替えてみる

 中高の溝はそれほど深くないが,決定的な断裂がある小中の関係。

 学校文化が決定的に異なっているのは言うまでもなく,学力観から学習観まで格差が大きい。

 もちろん,小学校にも中学校的な教師がいるし,中学校にも小学校的な教師がいる。

 小学校から中学校に異動したある教師は,さかんに小学校に帰りたがっていた。

 中学生の荒れに対応できないという。理由はそれだけではないかもしれないが。

 では,中学校の教師が小学校で勤務することになったら,どうだろう。

 「中学校の教師に小1の宇宙人を扱えるわけがない」と思っている人もいるかもしれない。

 小学校教師には小学校教師としての,中学校教師には中学校教師なりのプライドがある。


 では,「小学校的」「中学校的」という表現を教育関係者以外の人が解釈すると,どうなるだろう。

 自分が受けた教育の違い,学校文化の違い,教師の資質能力の違いなどから,やはり正反対の意味で捉えられるという場合もあるだろう。

 たとえば,「ここよく覚えておいて」という言葉をよく使うのは,小学校の教師だろうか,それとも中学校の教師だろうか。

 「テスト」が大好きなように思われる中学校教師の中には,「覚える」ことを重視している者もいるだろうが,

 「考えたり話し合ったりすることが大切」と言って授業をしている小学校教師の中にも,いざテストとなると

 「覚えて」と言ってしまい,小学生の中には(特に学力が低い子どもにその傾向が強いのだが)

 「勉強とは覚えること」と決めてつけている子どもがいる。


 言うまでもなく「考えること」は大切なことである。「話し合う」ことの意義も大きい。

 しかし話し合って考えてみても理解できない子どもにとっては,とりあえず「覚える」ことしかできない。

 そもそも「覚えるべきこと」が非常に多いという課題もあるが。

 
 「理解できない子ども」を中学校の教師はたくさん知っている。

 学習意欲がないわけではない。楽しそうに話し合いに参加している。

 しかし,理解はできていない。自分の言葉で説明することができない。

 小学校の学習に「ついていけなかった子ども」が大量に中学校に入ってくるからである。

 そういう中学校の教師は,どんな教育ができるだろうか。

 
 小学校の教師は中学校では,特定の教科を担当することになる。
 
 なんだ,5クラスで同じ授業をやればいいだけじゃないか,と気楽でいられるだろうか。

 「理解できない子ども」の数が5倍になっている。


 どこかの自治体で決断してくれないだろうか。

 1週間でもよい。

 学年主任を残し,小学校と中学校の教師をそっくり入れ替えてみる。

 
 いくつかの大発見ができるのではないかと期待できる。

 何よりも,教師には子どもを好きになってほしい。

 そして,責任を感じてほしい。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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