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ヤンキー化した生徒と親との対峙方法

 精神科医の斎藤環さんが指摘している日本の反知性主義=「ヤンキー化」が各所で進んでいることについて,

 最もわかりやすい事例が,「周辺の人たち」の過激な言動である。

 ニュースに一通り目を通されている方には,「ボス」がだれで,「周辺の人たち」がだれで,「過激な言動」が何をさしているか,おわかりになるだろう。

 かつてある人物が東京都知事をしていたときにも,同じような光景を目にした記憶があるが,

 今の日本で進行している「ヤンキー化」は,本物のヤンキーとかかわってきた経験のある人にとっては,

 とても「わかりやすい現象」と受け取られるだろう。

 
 私が教師になって最初に出会った「ヤンキー化」した生徒たちとの向き合い方は,

 「ボス」を見定め,そことのつながりを断ち切ってあげることか,

 「ボス」に正論を語らせることに主眼をおいていた。

 
 ヤンキーは,ボスが考えていることを想像して,具体的な指示を受けずに動き,その「成果」をもってボスの信頼を得ようと努力する傾向がある。

 だからヤンキーによる『いじめ』を根絶するには,「ボス」に「そんなことをしてはいけない」と言わせる必要がある。

 それも,「先生から言わされている」という印象をもたせないように。

 ヤンキーのボスにはそれなりの人望があるだけでなく,頭がいい生徒が多い。
 
 手下がどんな目にあっても気にしないが,自分が損する状態になることは避けようとしてくれる。


 ヤンキーは仲間内からハブにされることを極端に嫌がるから,

 自分が『いじめ』を受けないように,自ら進んで『いじめ』に手を染める傾向が強い。

 『いじめ』を根絶するためには,ヤンキー組織内での人間関係をよくするために,

 教師が介入してくれているという安心感をもたせることが必要である(難しいことだが)。


 一番よいのは「組織」から抜けることであるが,それを実現させるためには,ヤンキーにとって,「学級全体」が新しい居場所としての機能を果たせるようにしておくことが,何よりも大切なことである。

 
 政治学者たちには,日本の「ボス」にさまざまな働きかけをしていただきたいが,

 学校の教師たちにとって,一筋縄ではいかない古くて新しい「ヤンキー」の登場が頭を悩ませている現状がある。


 かつて教育現場で救われなかった「元ヤンキー」を含む,「ヤンキー化」した親たちの増加である。


 少し前までは,親と親との連絡手段はメール程度で事務的な内容が中心だったが,

 目的ごとの複数のグループで容易に情報交換ができるLINEの登場によって,

 場合によっては子どもよりも大変な「集団」ができてしまった。

 集団が完全が分かれているようで一部が重なっているところがあったり,
 
 属している集団によって態度を変える人がいる。

 集団によっては一致団結して,ものすごいバッシングを個人宛に行う場合がある。

 それがどのような事件を引き起こしたかは,記憶に新しい。

 「ママ友連続自殺」は本当に痛ましい出来事だった。


 自分の子どもとか,一部の子どもからしか得られない偏った情報を頼りに,

 ときにはそれを武器にして,他の子どもやその親たち,

 さらには学校に攻撃をしかけてくる「ヤンキー」が増加傾向にある。


 親の人間関係まで把握できない教師たちには,「ボス」が見えにくい。

 直接働きかけているのが「周辺の人たち」である場合に,問題の本質を見誤る可能性が高い。

  
 だから学校は,こういう「ヤンキー」は「相手にしない」のが最も有効な手段となる。

 もちろん,学校に直接やってきていただき,情報源や人間関係を詳しく話してもらえる人は手厚く保護すべきである。

 LINEは本当に便利(情報の発信のしやすさ,見やすさも含めて)なツールだが,

 学力低下や生活指導上の問題との密接な関係を詳細にまとめたレポートが出されるまで,

 親と子どもの油断は自覚されないままかもしれない。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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