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前提がハテナの「成功するアクティブ・ラーニングの考え方」

 西川純著『すぐわかる!できる!アクティブ・ラーニング』(学陽書房)の内容に関する大きな疑問は,読書編で記事にしたので,ここでは「成功するアクティブ・ラーニングの考え方」の記述について,疑問を投げかけたい。

 その前に,そもそもこの本は,だれを対象にして書かれている本なのかがわかりにくい。

 表紙に掲載されている写真は中学生か高校生だろう。男子がいないから女子高だろうか。

 冒頭で紹介されている授業の写真は,生徒を「子ども」と表現しているが,高校生のもので,

 「成績が上がった」コメントを寄せているのも,高校の先生である。

 ちなみにこの記事でもことわっておくが,アクティブ・ラーニングの重要性が叫ばれているのは,

 進研模試の偏差値を上げるためではない。

 この本は,高校の先生向けの本であって,

 だから各校は学習指導要領の内容を「無視」して(必修の教科も教えないように)いると表現したのだろうか。

 少し理解に苦しむ。


 さて,「成功するアクティブ・ラーニングの考え方」では,

>部活指導と同じにすればアクティブ・ラーニング指導はOK!とある。

 さすがにこれにはだれもがハテナマークをつけたがるだろう。

 そもそも,部活は好きな活動場所を生徒が選んで取り組んでいるものである。

 授業とは根本的に生徒の活動意欲の次元が異なる。

 また,部活動には1年~2年間,長く活動している「先輩」が「後輩」を指導することが可能である。

 普通の部活動では,1年生は自分の頭でいろいろ考える余裕などない。

 先輩が行っている練習を見守るか,与えられたメニューをこなすのが一般的であろう。

 
 著者は,教科における一斉授業を無味乾燥のものと断罪しながら,

 部活指導は理想的な能力が身につけられるような幻想を抱いている。


 少なくとも中学校では,著者の想定する一斉授業よりはかなりましな授業が行われる一方,

 部活動はそれほど理想通りに展開されていないのが実情である。

 
 自分自身が理想的な部活動を経験していない小学校の教師には,何が何だかわからないことだろう。

>部活と同じように,子どもに任せることが重要

 これは,高校の先生には通用する言葉なのだろうか。

 たとえば野球経験のないのに高校野球の顧問になった教師を想定しているのだろうか。

 
 たとえ理想の部活動ができている高校があったとしても,

 教科のアクティブ・ラーニングと同じ手法だというのは無理筋ではなかろうか。

  
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より