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なぜ塾の狭い教室だと集中力が高まるのか?~少人数学級でもなかなか学力が高まりにくい原因と関係が?

 人は学ぶ環境によって,能力が高まりやすかったり,そうでなかったりする・・・・

 反論したい方もいるかもしれません。

 ただ,自分の努力だけで何とかやってきた,という自信がある人も,

 実は他の人の世話になっていたかもしれない,と思ってもらえるような,私なりの仮説を述べたいと思います。


 人は言葉によってコミュニケーションしていますが,

 日本には「空気」という独特の意思伝達システムがあります。

 この「空気」は「air」という訳し方ができない言葉です。

 「雰囲気」に近いですが,ちょっと違う。

 だれか一人でつくるものとは限らず,

 大勢が暗黙のうちに了解しあっている状態を示します。


 イルカは超音波でコミュニケーションをとっているようなのですが,

 もし日本人のコミュニケーション手段が,超音波のような,

 科学的根拠を示せる何かによって行われていたことがわかれば,

 大発見になるかもしれません。


 道のりは険しいかもしれませんが,

 まずは「伝染するあくび」からイメージをつくっていくといいかもしれません。

 あくびは「見る」ことによって「うつる」というイメージがありますが,

 目かくしをした状態で,あくびがうつるかどうかを実験したいものです。

 できれば,脳波をきちんと測定して,本当に眠たくなっているかどうかを調べながら。


 さて,「眠くなる状態」とは真逆の,「集中してものを考えることができる状態」を想定してみて下さい。


 脳波は空気を伝わって他者に通じるものとは考えられていませんが,

 もしかしたら自分以外のだれかに伝わる脳波というのがあるのではないか,

 という期待が私にはあります。


 たとえば,とても集中して活性化している人の近くにいると,

 自分の頭も冴えてくる,という人はいませんか。

 私はそういうタイプです。


 図書館はとてもいい環境のように思った人がいるかもしれませんが,

 そこには必ずと言っていいほど「寝ている人」がいるものなので,

 私は図書館で本を集中して読めたことはあまりありません。


 授業場面ではどうでしょうか。

 子どもたちの発言とファシリテーターとしての私の持っていき方がうまくマッチしていくときと

 そうでないときは,何が違っているか。

 私の感覚では,「ボーッとしている子どもがいるかいないか」で左右されるような気がします。

 集中していない子どもがいると,私の注意はそちらに向かってしまい,

 その子どもの反応をよくするような言葉を探しにかかります。


 ただそうすると,ほかの子どもの脳のはたらきがストップする場合があり,

 また私がそちらに気を取られるという悪循環がうまれます。

 うまくいっているときは,だれも「ボーッとしている」子どもがいないのです。


 それは,私と子どもたち,という関係だけでなく,

 子どもと子どもとの関係についても同じようなことが言えるかもしれません。

 学校では集中できないのに,塾では集中できる,という子どもがいます。

 これも,集中している他の生徒の脳によい影響を受けて,

 自分の集中力も高まる,という調子です。

 
 私がしていることで,妻が嫌がることがあります。

 それは,妻が練る前に集中して本を読んでいるとき,

 その近くで私が本を読むと,私も集中して読めるのです。

 しかし,妻が逆に集中力を失うことがあって,

 私も読めなくなる。

 いかにじゃましないように近づくかがポイントで,

 「近さ」によって全く効果が異なる,というのも大切なことのようです。

 
 塾の教室は,余計なものを持ち込まない前提で設計されていますから,

 とても狭い。

 
 しかし,その「狭さ」こそが,集中力を高め合える適切な空間なのかもしれません。

 
 さて,少人数の教室で,今まで通りの広さの部屋で一人一人の机を離してしまったら・・・・。

 少人数だから学力が高い,というデータはないことの原因の一つのもしかしたら・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
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  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より