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真の教育者キドリができない教師たち

 ある学年の子どもたちが,小学校時代に「史上最低の学年だ」と教師たちから呼ばれていた,という話を聞いて,哀れでならない,という話を以前に紹介しました。

 中学校に入って教師不信がどれほど払拭できたかはわかりません。

 「負け犬根性」というのは犬には失礼かもしれませんが,精神的にはさらに落ち込んだ様相を呈していた記憶があります。

 読書編で宮城谷昌光の『劉邦』で語られている「教育観」にふれましたが,若干補足が必要だと思いますので,こちらで記しておきます。

**********************

>諸将を厳しく統御せず,その独自色を消さないように働かせるという発想は,その底に農業における,

 「育苗」

 というものがあるかもしれない。

 劉邦は農家に生まれた。農民は土壌の良否を知り,耕耘し,種を播き,苗を育てる。その作業のなかで育った劉邦は,人の制御力には限界があることを痛感したであろう。(中略)できることは,それら植物の生命力が蝗旱によってそこなわれないようにするだけであるといってよい。そういう関係を,劉邦は自軍にもちこんだ。これによって劉邦軍にのびやかさとしなやかさが生じた。

 だが,劉邦以外の将帥がおなじことをすれば,その軍は統率のきかない,だらしなさを露呈することになるであろう。

 教育関係者としては,担任教師という立場だけでなく,管理職にも,教育委員会の人間にもあてはまる言葉であろうし,企業経営者にとっても,政治家にとっても似たような光景が目に浮かぶのではないでしょうか。

 時代は,ますます劉邦のような生き方がしにくくなってきています。

 「王者」のふるまいができる環境に今の社会はあるでしょうか。

 実は,それができたかもしれないのは,30年以上前の学校であったのかもしれません。

 もし「理想像」を無理にもちこもうとすると,教育現場は異常なまでに歪んでいく懸念があります。

 「歪み」に加えてさらに複雑な「ねじれ」をもたらす環境も浸透しつつあります。

*****************************

 劉邦は,多くの民に慕われたから,「王者」のふるまいができ,そのふるまいによって,さらなる支持を受けたのに対して,

 公立学校の現場というところは,「王者」のふるまいが容易にはできない環境であることについては,今更説明の必要はないでしょう。

 「学校の常識は世間の非常識」

 「教師はよく犯罪を起こしている」

 「教師は社会で鍛えられずに先生とよばれるから,社会常識が身に付いていない」

 などという批判的な見方はともかく,

 「いじめも阻止できない」

 「塾に通わないと学力がつかない」

 という批判は当たっているところがあり,

 つくづく劉邦は自身の能力でというより,他の人の能力に頼った生き方を選択して成功した例の一つだと思い知らされます。

 もちろん,学校の教師は子どもも親たちも信頼したいのです。

 子どもや親たちにとっても,それ以上に教師は「信頼したい」対象であるはずです。

 それが,ときにぎくしゃくするときがある。

 「どうしてこんなに真面目にノートをとっているのに,勉強ができるようにならないのか,

 先生の教え方がよくないのではないか」

 という批判はときどき寄せられます。

 まさか,「子どもの理解力が足りない」という正直な感想は言えませんから,

 「こういう勉強の仕方,授業の受け方をして,伸びている子がいます」という

 間接的な説明で逃げざるを得ません。教師の側も,「どうして理解できないのだろう」と

 疑問になっているわけです。

 どんなときも,教師は「わかったふり」はせずに,「わからない」ことは「わからない」と伝えるべきです。

 それでわかってもらえる保護者もいれば,「どうしても教師の側に非がある」ことを認めさせないと気が済まない人もいる。

 人間だから教師も間違うことがある,教師にもわからないことはある,というおおらかな心持ちでいられる人ばかりではないのです。

 教育現場の「歪み」というのは,

 「このまま頑張っていれば,必ず理解できます」という,根拠のない「希望」にすぎないことを,「確信」というかたちで親に伝えてしまうところから始まります。

 もっともまずいのは,「~先生はとてもいい先生だ」という信仰にのっかってしまい,

 「~先生が必ず~になる」と言っているのに,そうならないのは

 自分(の子ども)が悪いからだと思い込まされる親子がいることです。

 教育を農業にたとえることで,どれだけの人が共感してくれるかわかりませんが,

 土壌の良否に通じるものは教育では何か。

 天候の善し悪しに通じるものは。

 肥料はいつどれだけ与えたらいいのか。

 雑草とは何か。除くのか,除かないのか。

 害虫と益虫とは何か。

 種をまくのはいつがいいのか。

 教育の果実とは何か。

 小中高いずれも,「通過点」であることが多い教育現場でありながら,

 「結果」を求める風潮なり,環境なりが多くなっており,

 「選択ができずにそのまま受け入れるだけ」なのが公立の小中学校という現場です。

 公立小中学校は,LINEなどによって偏った集団による,偏った情報のみが錯綜するなかで生活している親子とどう格闘していくかが大きな課題となっています。

 情報が伝わりやすいということは,それだけ関係がねじれやすくなっているということで,

 「交わっている」点がありそうでない,そんな「ねじれ」の関係性のなかで,たとえば『いじめ』の全貌を理解するのはほとんど不可能であるように思えてきます。

 高校が教員に対して生徒等とのLINEでのやりとりを禁止した教育委員会があるようです。

 これはどうしても「一部の生徒」とのつながりを生むという点で,公務員がすべきことではないことが明らかだから,反対する市民はいないでしょうが,部活動の連絡など,隠れてつながっている人たちは少なくないでしょう。

 家庭や社会,企業などから多くの要請を受けている学校現場ですが,

 そこにいるのは「王者」ではなく,「官」および「民」の「しもべ」ばかりであるという制度から,見直していく方法を模索できないでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より