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悪魔の教育~子どもが動物園の猿であったことを自覚できるタイミング~

 小学校の授業参観をしていると,子どもたちが上手に空気を読みながら・・・・

 授業に熱中しているように装いながらも,決して教師や仲間たちの

 「意に背く」行為をしないように・・・・

 「息を合わせた」学習を展開しているようすがよくわかる。

 当然,「空気を読まない」「空気を読めない」子どもはろくな扱い方を受けない。

 教師はもちろん,クラスの子どもたちからも。

 教師は発言の機会を与えないし,子どもも話を聞こうとしない。

 教師は子どもの発言を否定することはしないが,

 たまに「空気を読まない」子どもが発言すると,

 教師のかわりにやっきになって内容を否定しにかかる。

 おそろしい世界である。

 汚れ役を子どもに肩代わりさせる教師は悪魔に見えてくる。


 小学校からの参観者たちも,そのあたりはすぐにわかるのだろうが,

 授業研究で話題にする人はいない。

 もちろん,「空気を読んで」。

 小学校では迫害されていたこういう子どもだが,中学校に上がってくると,

 俄然,活躍できるようになっていく。

 不満なのは,空気を読みながら成長して,担任からつねにご機嫌伺いをされていた子どもたちである。

 中学校では,教科によって教師が代わる代わるやってくるが,

 どの教師も「ご機嫌伺いはしない」から,実は

 迫害されていた子どもが,本当は「正しいこと」をしてきたのだ,ということに優れた子どもから気づき始め,

 中学校の頭に切り換えていく。

 それができない子どもたちは,みんなおそろしく学力が低い子どもたちばかりである。

 小学校では,計算ができなかろうが,漢字が書けなかろうが,

 研究授業で気の利いた発言さえすれば,「貢献者」となるから,

 教師から重宝がられ,可愛がられて育つ。


 自分が動物園の猿だったことに気づいたときには,

 高校への進路がまるで見えない状態であることを自覚するときである。

 まだそれを自覚できる子どもは救いがある。


 「基礎」が身に付いていないことに気づける子どもは,自分の学力の課題が自覚できるのだが,

 「基礎」がろくに身に付いていない子どもは,自分の学力の課題に気づきすらしない。

 思い浮かぶのは,自分に優しくしてくれた小学校の担任の先生の顔だけである。

 
 このような「悪魔の教育」に,堂々と立ち向かっていく人たちも,一部には存在するが・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より