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2015年8月

『いじめ』からは「逃げろ!」「離れろ!」

 「学校に行きたくない子どもは図書館へ」

 図書館の司書の方のつぶやきへの反響が広がり,

 NHKのニュースにも取り上げられています。

 夏休み明けの子どもの自殺を防ぐための大人たちからのメッセージ。

 アナウンサーからも手書きのフリップでSOSを寄せてほしいというメッセージが紹介されるのは,異例のことではないでしょうか。

 本当に困っている子どもがNHKを見ている余裕があるかどうかはわかりませんが,

 「大人ががんばるべきだ」ということを伝えたかったのだろうと解釈しました。


 「学校の教師はどうなんだ」という無言のメッセージも伝わってきます。

 教師の立場で,「逃げろ!」「離れろ!」と言うことは可能でしょうか。

 親の立場なら,どうでしょう。

 「当事者じゃない人は,何でも言える」

 という冷めた目で見てくる教師や親もいるでしょう。

 
 「戦わなくていい」「がんばらなくてもいい」という言葉を伝えるべき子どもと,

 伝えると逆効果になる子どもはどう見分けたらいいのか。

 
 社会全体として,何を最重視していくのか。

 優先順位で言えば文句なく「命」でしょうが・・・。

 
 本日は,教育基本法の第1条(教育の目的)を再確認する機会がありました。

 
>教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
 
 「心身ともに健康な子ども」の部分は,絶対に削れないことを確認しておきたいと思います。

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関東第一高校のオコエくんの成長力を伝える素晴らしい記事

 デイリースポーツが8月30日午後12時30分に配信している記事『オコエの変化したスイングに,指導した西谷監督もビックリ』の取材内容がとても素晴らしかった。

 バッティング理論がわからない人にも,関東第一高校のオコエくんが何をどのように矯正したかがわかるように書いているし,その成果もわかりやすく記されている。

 右打ちを意識してることは,アメリカ戦での1回の攻撃から理解できたが,その背景もよくわかった。

 「木製バットを1本も折っていない」ことの意味は一般の方にはわかりにくいことかもしれないが,

 きっと「金属バット」と「木製バット」の違いについては,何となく想像できるかもしれない。

 西谷監督の起用法や指導法にもふれており,スポーツの取材記事としてとても良質で,かつタイムリーな話題で,久しぶりに「ニュースらしいニュース」「記事らしい記事」を読ませていただいた気がした。


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「金融教育・投資教育を推進すべき」という前に,国が教育に投資する姿勢が大事ですね

 この記事は,タイトルですべてが言い尽くされている気がいたします。

 あれこれと要求ばかりをしたためていながら,ご自分は全くその逆を繰り返しているブロガーの方にとてもよいヒントをいただきました。

 国の姿勢と全く同じです。

 人間は,批判をしている人間像と全く同じ姿をしている自分自身に気づきにくい動物なのかもしれません。

 「裸の王様」は,人生についての諸問題に多くの示唆を与えてくれる物語でもあります。

 アンデルセンの「裸の王様」の元になった伝承では,王様が裸であったことを指摘したのが

 子どもではなく黒人だったという話です。多文化共生社会の大切さも教えられます。


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「おたがいさま」精神を涵養するための防災週間の取組み

 防災教育は,法教育,金融教育,資源・エネルギー教育,消費者教育のような学校教育に求められる新しい課題の教育の中で,今後,より身近で切実感の高いものになるだろう。

 すでに地域社会での取組みが最も進んでいるのが「防災」であるとも言える。

 学校での「防災教育」は,ただ単に校舎内での「避難訓練」に終始するのではなく,地域社会の「防災活動」との連携を強化すべきだろう。「児童・生徒の引き取り訓練」レベルではない活動が期待される。

 日本は古来より多くの自然災害が発生する「災害大国」である。

 「経済大国」などという地位は,わずか数十年程度でできたものだが,国ができる以前より,大きな災害にいつ見舞われるかわからない場所に住んで生活してきた祖先がいる。そして祖先たちが残してくれた貴重な知恵もある。

 「戦災」も含めれば,環濠集落などは広い意味での「防災遺跡」「減災遺跡」である。

 「災いを減ずる」ための行動は,「災害発生後」にも問われるのが,

 「避難民」たちへの支援である。

 「もったいない」,「おもてなし」など,世界の人々が注目してくれるきっかけがあった日本語だが,

 「おたがいさま」精神は世界の国々,さまざまな宗教のなかにも存在する。

 言葉はあっても行動がともなわなければ,言葉は死んでしまう。

 企業にはさまざまな社会貢献が求められているが,

 学校ができる社会貢献も模索していくべきときだろう。

 ゴールドマンサックス証券に勤めている後輩が,会社の社会貢献活動が自分の人生にとって,

 たいへん意義のあるものになっている,という趣旨の講演を母校でしてくれた。

 学校に通っている生徒たちにも,「人生を豊かにする」ほどの地域貢献活動を体験させてあげたい。

 自治会や町内会との連携も含めて,私もできることを探ってみようと思う。

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U-18野球W杯に見る「日本の力」

 昨日の晩は,プロ野球の巨人・中日戦とU-18野球W杯の日本・アメリカ戦がほぼ同じ時間に放送されていました。

 3安打で勝利し,阪神とのゲーム差を2に縮めた巨人の野球も意味がないわけではありませんが,
 
 「王者」と称されるアメリカを3-0で破った球児たちへの活躍に私は釘付けになってしまいました。

 インタビューからもわかるように,国際大会ではボークの基準が異なるようで,

 日本ではボークにあたる動きからの牽制球で,何人かがスタートをきり,

 そのうち2つが「結果オーライ」を招くこととなりました。

 攻撃面での采配が素晴らしかったのは,ミスがあってもどんどん次の塁を狙わせた点で,

 チャレンジ精神がよい方向へと影響した試合だったと思います。

 高校1年生の清宮選手に結果は出ませんでしたが,ホームラン性の距離のあるファールを打つなど,見せ場はつくりました。

 最後は2盗を刺して終わるなど,バッテリーの素晴らしさが守備の柱になっていましたが,

 慣れないナイターの試合で「王者」を完封できたことはさらなる自信につながったでしょう。

 各高校の実力のある中心選手が集まった日本代表チームですが,

 まとまり観という点での,アメリカにとっては非常に大きなプレッシャーになったのではないでしょうか。

 甲子園に出場していない高校からも素晴らしい選手が選ばれている点なども,

 チームづくりをする裏方のすばらしさとして評価できると思います。

 大正時代に大学野球人気がすさまじくなり,「野球害毒論」キャンペーンが新聞で展開されたときに,

 野球というスポーツのチームづくりの素晴らしさが,リーダーの方針や教育を誤ると真逆に作用する点は指摘されてきたと思います。

 「最高の教育」を「最悪の教育」に貶めてしまうことにならないように,

 リーダーが舵取りを誤らないようなフォローをする仕組みがあるかどうか,

 教育現場でも確認しておきたいところです。

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「~は相手にしない」と明言しているのに相手にする人

 身近にも,ちらほら見え隠れする人である。

 「もう,こんな生徒のめんどうは見たくない!」

 心からの訴えだろうが,そういう生徒の面倒をみるのが教師の役割である。

 それも分かっていて教師は愚痴をこぼすのである。

 ただときどき,本当に面倒をみなくなってしまう教師がいる。

 昔は,調整力のある生徒が気を利かせて先生のご機嫌をとりにいったものだが,

 核家族化が進んでそういう「調整場面」を経験したことがない親子が増えて,

 「かんしゃくを起こした大人」への対処がわからない人が多くなっている。

 「へそを曲げる」のは子どもだけでなく,子どもばかりに囲まれて成長する教師も起こしてしまう。

 
 世の中には,そういう「相手にしたくない」人を「相手にしてばかりいる」人がいる。

 それしかやることがないからだろう。

 
 われわれ現場の教師たちは,「相手にしたい」「したくない」など関係なく,

 相手にしなければならない。

 そうでない人の場合は,「相手にしたくない」人は相手にしないですむはずなのだが。

 やはり,攻撃できると思えば,「相手にしたくてしょうがない」というのが本音なのだろう。

 私はこういうタイプの人間が,教育現場にとって「必要悪」であると認識しているから,「相手にする」。

 
 人間の生きるエネルギーは,「怒り」から湧くものだと『北斗の拳』の愛読者は悟っていく。

 「愛する人を傷つける者への怒り」。

 こういうタイプの怒りには,バランスのとりようがないのだろう。攻撃一点張りとなる。

 
 ネットという場の姑息さは,「防御を必要としない空間」という特質にある。

 バランス感覚を失っていく人間が増えてしまうのは,このせいだろう。

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好きなことをして収入を得られる教師たち

 教員採用試験の面接で必ず問われることが,

 「なぜ教師になりたいのか」という動機や使命感にかかわる質問である。

 教員採用試験というのは,公務員試験とかねているわけだから,

 「全体の奉仕者」になろうとする強い決意をもっている人を採用しなければならない。

 
 公務員になる人間を選ぶ人間というのは,実は非常に責任の重い仕事をしていると考えられる。

 面接試験では「面接官をだます」ことが可能であるから,

 「ださまれない」ためのノウハウを構築しておかなければならない。
 
 どこでボロを出させるかが,面接官の腕である。


 「安定した職につけた」と実感したとたんに働く意欲をなくす人がいる。

 「非常勤講師だったころの評判はどこにいったのか」とがっかりさせられる人がいる。

 こういう人たちの心に「灯をともす」存在が,学校現場にいるかいないかは大きい。

 
 私の場合は,とても恵まれていたせいか,「いやいや教師をやっている」というタイプの人に出会った印象が少ない。

 むしろ,「教師の仕事が楽しくて仕方がない」という人ばかりに出会ったおかげで,
 
 「自分もそうなりたい」と思うようになった人間である。

 面接でも正直に,そのように答えた記憶がある。

  
 教師になってから,最初の職場の先生方に恵まれて,「一緒に仕事をするのが楽しくて仕方がない」状態になった。

 好きなことをして収入が得られるなんて,何と幸せなことかと思った。

 最初の職場で覚えたことが,2校目,教育委員会,3校目と生きていった。

 
 若いうちは,子どもと一緒にいることが楽しい。苦しいこともあるが,何倍もの楽しさがかえってくる。

 経験を重ねてくると,一緒に働いている教員の存在がとても大切であることがじわじわわかってくる。

 教育委員会の指導主事の先生や文部科学省の教科調査官との出会いも重要だったが,

 その方々と一緒の場にいる力のある先生方との出会いが大きかった。

 
 これから教師になろうと考えている人たちには,こうした「人との出会い」ができる職場であるということも想定に入れて,「成長を続けようとする人間」であることをアピールしてもらいたいと思う。

 そのために,現場に足を運ぶ機会があったら,「この人との出会いで自分が変わった」というエピソードを集めてみてほしい。

 校長先生,荒れた子ども,希望を捨てなかった子ども,PTA会長さん,地域の商店街のおやじやおばさん,なんでもかまわない。

 教師は現場で成長する存在であり,現場とは学校の校舎内とは限らない。

 私はある教育委員さんとエレベーター内で一緒になった経験があるが,言葉をかわさず,挨拶だけでも,期待をかけられていることを実感したことがある。

 たとえ気のせいでも,期待をかけられる人間になろうとする意欲は忘れてはならない。

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議論の空中戦・組織の空中分解

 空中戦とは,論点があいまいでかみ合うことのない議論を揶揄して呼ぶものだが,

 そもそもが,自己の主張をするだけで,議論をする気がない人どうしがぶつかるときに起こりやすいものでもある。

 たとえば物事を「良い」「悪い」と分類し,「良い面も悪い面もある」とか,「良くも悪くもない」という大部分の事柄を抜きにして語ろうとする人間にこのタイプが多い。

 「富裕層」という数%の人間と,その対極にいるこれも数%の人間を対比してみせる場合もある。

 主張そのものが極端すぎたり,大昔からの単純化されたイメージそのままだったりと,

 自分の頭の中がほとんど更新されないまま年齢だけ増していく教師たちにその傾向が強かったりする。

 「悪いことばかり指摘しないように」と注意している自分自身が

 「悪いことばかり指摘している」ことに気づけない。

 なぜ教師はこんな人間になってしまうのかというと,それは

 だれかによって教師としての自分を教育してくれる機会を逃してしまったことが主な原因だろう。

 教師は現場で成長する(はずの)人間である。

 そもそも教育力のある教師が周囲にいなかったのか,

 いてもそういう教師の言葉に耳を傾けなかったのか,

 あるいはそういう教師もあきらめて言葉をかけてくれなかったのかはわからないが。

 従順なままの子どもに囲まれて仕事をする教師が陥りやすい最も危険な落とし穴である。


 こういう教師が複数集まる学校では,組織が空中分解する。

 荒れている学校の典型的なパターンがこれである。

 「仲良く話し合いをしよう」なんてことが職員室でできない学校で,

 教師が子どもにそれを語りかけられるわけがない。


 さて,空中分解する組織のパターンには,

 リーダーが消え去るというものもある。

 「ワンマン経営」は成功する場合もあるが,「その後」が難しいことは,

 たとえを引っ張ってくる必要もないくらい,あちこちで見られる現象だろう。

 
 「はしごをおろされた人たち」が,「本物の政治家」であったかどうかが問われる政党がある。

 では,「本物の教師」とは,どういう存在でなければならないのか。

 「自分に厳しい人間である」という資質だけは,欠かしてはならないものだと思う。

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『いじめ』での「謝罪の会」は強烈な遺恨を生む可能性あり

 『いじめ』に関する調査や情報の共有には,かかわっている(傍観者的にあおるケースも含めると)生徒の数が非常に多いため,1件当たりでも相当の時間を要する。

 人間のとても『醜い部分』を直視することになるから,精神的な疲弊も大きい。

 学校では週1回のペースで職員全体の会議を行っているが,『いじめ』の報告だけで2時間,3時間かかるケースもあるだろう。職員会議だけでなく,学年の会議で夜の9時を過ぎるという経験をした教師も少なくないはずである。

 『いじめ』に関する「十分な情報共有」をするべきだという主張は正しい。
 
 しかし,「十分」とはどの程度のものなのかを言葉で説明することは難しい。

 そもそもが,「十分な情報が得られていない」ケースがほとんどで,

 今,「どこまでわかっているか」の確認だけでも毎日10分や15分ではすまない。

 中学校には,小学校から継続した人間関係のもとで生活している子どもがとても多いわけだが,

 小学校で『いじめ』の適切な対応ができていないと,

 とてもこじれた形で中学校に「借金の肩代わり」が要求される。

 イメージは,膨らむ利子に,処理が追いついていかない,というものである。

 負債が負債を呼ぶ。膨れあがる国債残高のイメージである。

 しかし学校には,不良債権を税金で処理してくれるようなシステムがない。

 現場は,とてつもなく疲弊していく。

 仙台のケースでは,『いじめ』の「謝罪の会」からさらに『いじめ』がひどくなったという。

 『いじめ』に対する毅然とした態度を学校は求められるが,

 一歩間違えると,学校側が『いじめ』をさらに深刻化するケースがあることを,

 教師ならよくわかっている。

 「あの教師に,『いじめ』の実態を知らせてはならない」

 という同僚がいる学校も少なくないだろう。
 
 「あいつが介入すると,余計にことがこじれる」 

 「学園ドラマのように熱血的な指導で『いじめ』が根絶できると誤解している」

 と思われる教師がいる。

 「迅速な対応」は,ときとして「拙速」な指導を生むおそれがある。

 教師はこれをおそれすぎて,対応が遅れるというケースもある。


 また,教師が「中立の立場」で子どもと接することは,案外と難しいものである。

 いつも嘘ばかりついていたり,問題行動を繰り返す子どもが『いじめ』の被害を訴えてきたときに,

 「お前は~を『いじめ』たばかりじゃないか」と突き放してしまうようなケースもあるだろう。

 今や,かつては「ケンカ」に過ぎなかった暴言や身体の接触は,すべて『いじめ』のカテゴリーに入ってくるから,

 「俺(子ども)が『いじめ』られてるって言ってんだから,『いじめ』だろうが!」

 とすごむ生徒(保護者)もいる。


 生徒をよく見る機会にはなる。

 しかし,1人対40人が基本の教室空間で,教師ができることは限られてくる。

 学校において,子どもに健全な成長を促すのが教師の役割だが,

 その解決にどの程度教師がかかわるべきなのかという議論も必要になってくるだろう。

 ある学級では,障害のある生徒が『いじめ』の加害者となった。

 このようなケースも,非常に指導が難しい。

 被害者と加害者が一夜にして入れ替わっているというケースもある『いじめ』。


 下剋上こそないが,

 群雄割拠の戦国時代を生き抜く武将たちのせめぎ合いのようにも見えてくる。

 異年齢集団で過ごす時間を増やすことなど,

 学校の制度全体を見直すきっかけになるほど,『いじめ』というのは

 解決が一筋縄ではいかない問題であり,

 これがLINEによるママ友どうしの『いやがらせ』ともなると,学校は手に負えないのである。


 救世主はいない。

 ただ子どものために親身になって相談にのってあげる人間が一人でも多く求められるだけである。

 教師だけでも,友達だけでも,家族だけでも解決しないのが『いじめ』であり,

 『いじめ』をなくそう,というかけ声だけでは何も変わらないし,

 『いじめ』を放置した教師を懲戒処分で脅す,という方法も,あまり効果を発揮しない・・・・
 
 むしろ,戦国の世がさらに混乱するだけだろうと思われるのは,

 今,改めて『劉邦』を読んでいるからだろうか。

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すぐにでも退職すべき教師

 どうしてこういう人が教師を続けていられるんだろう,と驚くことがあるのは,子どもや保護者だけではありません。

 同じ教師の立場の人間でも,そういう経験があるものです。

 校務分掌がろくにこなせないだけでなく,学習指導も怪しい。

 学級担任も持たせられない。

 なにせ子どもたちとの会話が成立しない。

 相談されるとだまってしまったり,

 「~先生に聞いておく」と言ったっきり,

 実際には聞けないまま,放置してしまう。

 子どもたちはあきらめて話しかけることすらやめてしまう。

 何か気に障ることがあると暴言を吐き,

 手がつけられない状態になる。

 勝手なルールをつくってそれを子どもに押しつける。

 「そんなルール守らなくていい」と横やりを入れられると,

 「ルールを守ることを教えるのは教師の努めだ」

 と逆切れする。

 丁寧に「ルールとは何か」「ルールを決めるのはだれで,どんな方法で決めるのか」

 「状況が変わればルールも変えるべき」と説明しても,
 
 「ルールとは守るべきもの」というただその一点しか主張できずに居直る。

 こんな人間が,教育現場に20年も30年も居続けることができたのは,なぜなのだろう。

 最大の理由は,「これではいけないんだ」という自覚が本人にないことです。

 「これではいけない」と悩むような人なら,病休に入って現場から離れることになるのに,そうはならない。

 管理職になったときに,本当に頭が痛いのは,こういう教師をどうやって「隔離するか」知恵をしぼらなければならないということです。

 教員採用試験に合格できない人から見て,どう考えても「自分の方がまし」という教師がいるのは,納得できないことかもしれません。

 自分の問題に気づけない人が書く文章かどうかは,本当にわかりやすい。

 「自分とは違う考え方をする人」を平気で攻撃できてしまうから。

 だから教育という仕事には,絶対に向かない。

 思考力が発達していない子どもを平気で攻撃し出すから。

 攻撃性が強いという自覚のない教師に,どれだけの子どもが犠牲になってきたことか。

 子どもを守るためにできることは,できるだけ子どもから「遠ざけること」しかない。

 

 地震保険に加入している世帯は,全体の何%くらいでしょうか。

 加入している人のうち,加入していない世帯の人に対して,「おかしいんじゃないの?」と言える人は,何%くらいいるでしょうか。

 加入しないことのリスクが大きいから,そもそも保険というものは成立する。

 しかし,加入すること自体にも,リスクはあるのです。さらに,保険も万能ではありません。

 加入することのリスクを隠して保険の勧誘をするような人にだまされてはいけません。

 持病があっても入れるような保険は高額になり,

 保険が役に立った,という人が非常に少ない場合に,保険は安くなるものです。

 いろんな角度から物事を考えなければならない,ということはわかっているのに,

 自分がそれをできていないことが,わかっていない。

 自己責任,自己決定権という概念には,いろいろな意味があることを自分で認識できていないからこそ,

 ~の考え方ができない人はおかしい,なんて主張をしているわけですね。 
 

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「いじめられていることは,知らなかったことにしておいてください」~懲戒処分を受けるか,『いじめ』を受けた子どもの要求をきくか~

 教師なら,一度くらいはこう言われたことがあるだろう。

 「いじめられていることは,他の人には言わないでください」

 どういう対応をすればよいのだろう。

 本人からだけでなく,保護者からも同じ要請を受けることがある。

 消極的な理由は,

 教師や他の生徒が動けば,『いじめ』がもっとひどくなる。

 積極的な理由は,

 自分なりに解決していきたい,あるいは,乗り越えていきたい。

 ある人は,

 「何もしなければ,いじめはなくならない。」

 というが,

 ある人は,

 「耐えていれば,過ぎ去っていく嵐のように,なくなっていく」

 ともいう。

 2014年には,小学校のいじめ件数が過去最高になったと報道された。

 学校の『いじめ』対策は,充実に向かって動いているはずである。

 それなのに,『いじめ』はなくならない。

 私の経験では,『いじめ』への対応を小学校で行ったときに,

 それが「よい結果」を招く確率が低かったのではないか,と思ってしまうほど,

 「学校が動く」「教師が動く」ことに拒否反応を示す子どもや保護者が少なくないのである。

 もちろん,積極的に動くことを要望される保護者はいるが,

 このケースは,逆に『いじめ』の側に立っていたことがわかることも多い。

 昔の「弱いものいじめ」と違って,今の『いじめ』は強い側もターゲットになる。

 「ボスの新旧交代」「求心力のある生徒の交代」が起こるときに発生しやすい。

 「過去のいじめの報復」としての『いじめ』もある。

 昔からあった『いじめ』のうち,最近多いように感じるのは,

 「先生にチクった」ことが原因となる『いじめ』である。

 「チクり魔」という陰口を言われるのが嫌な子どもは,

 教師に相談しつつも,「絶対に内緒にしておいてください」と困った要望もするのはこのためである。

 
 大阪市では,『いじめ』には「すぐに対応する」ことを要求するような基本方針をまとめているそうであるが,

 教師が「いじめの事実を隠す」のではなく,

 子どもが「いじめの事実を隠す」ようになるのではないかと心配になるのは,

 上のような理由による。

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新しい入試のスタイルをご存じない方へ~ぜひチャレンジなさってください

 覚えていればできるなどという古いタイプの受験知識しかお持ちでない方には,

 公立の中高一貫校の適性検査問題に目を通してみることをお薦めします。

 新しい大学入試問題のイメージも,ここからやってきているものがあるので。

 「適性検査問題」は,いわゆる「学力検査」ではありません。

 なぜ「いわゆる」という言葉を使ったかというと,実質的には学力検査でありながら,

 それをやってはいけないというルールに従っているという名目だから,という意味です。

 ふつうの私立中の入試と何が異なっているかというと,大きな問題の中に,

 算数や社会,理科の問題が混じっているという形式をとっているからです。

 中には,知識はなくてもそこにある資料をもとに考えればわかるようになっている

 良問もあり,「知識よりも思考力を問うている」ように見えるのが,

 この「適性検査問題」の特徴です。

 
 では,「適性検査問題」への準備は,個人でできるのでしょうか。

 私は過去問なり,全国の問題をまとめている本がありますから,それをやっていればできると思っていますが,

 塾は適性検査問題自体をよく分析しており,パターンを見つけて,それぞれに合った

 「解法」を教えてくれているようです。

  
 中高一貫校の先生にお聞きすると,やはり勉強ができるできないというより,

 解き方,答え方に慣れている子どもがいるのがわかる,という話でした。

 そして,そういう子どもの方が受かりやすい(高い点が取りやすい)と。

 
 これは何を意味するかというと,本当に頭が良い子だけが高得点をとれるというわけではなくて,

 訓練されている子が点をとっている,ということになります。

 
 すでに塾業界の中で,「公立中高一貫校向き」という定評がある場所も存在し,

 成果が後押ししている模様でもあります。

 
 とても古い塾のイメージしかない方には,参考になりますので,

 ご自分が時間内に解けるかどうかを試すことも含めて,チャレンジしてみてはいかがでしょう。

 
 蛇足ですが,偏差値というのは,合格への目安,目印です。

 問題の難易度によって合格最低点もかわりますから,「何点とれば合格」とは塾も言えません。

 しかし,偏差値で示せば,合格の可能性がわかりやすくなるのです。

 言うまでもないことですが,確認まで。 


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中学生の守り方

 教員採用試験の面接の模擬練習です。

面接官>夏休み中に中学生が犯罪にまきこまれる事件が増えています。あなたが中学校の教員になったら,どのような指導を中学生にしたいですか。

 まだ「組織の一員」として,あるいは「公務員」としての仕事をしたことがない方は,

 「一人の教員」と「中学生たち」という関係でこの質問をとらえてしまうかもしれませんが,

 質問者の意図は,

>どんな個人プレーができるか

 を確かめたいわけではないことは明らかでしょう。

 ポイントは,「夏休み中」のことだということ,そして

 指導するとしたら,「夏休み前」であるということに留意が必要です。

 模範的な解答は,

 家庭と警察を含む地域社会との連携づくりができていることを前提としたフォローがあるとはいえ,

 最も重視すべきことは中学生に「適切な判断力を発揮すること」を促す指導を心がけたい,というもの。

 このように,具体例を出す前に,「基本的な方針」を答えれば,面接官から

 具体的には?と先に進めてくれます。

 道徳の時間なら,どのような価値と結びつけて指導するか。

 警察との連携はどのように行うのか。

 保護者との関係はどうするのか。

 どのような条例が地域にはあり,中学生を守る力になっているのか。

 しかし基本は,「自分で自分を守る力を身につけさせたい」という熱意がほしいところです。


 これが対象が小学生ということになると,

 何年生かにもよりますが「適切な判断力」を求めるのは無理なので,別の答えが必要になります。

 さて,もし私が面接官なら,

>中学生が犯罪にまきこまれる事件が・・・

 という言葉の瞬間にみせる目や表情全体のようすに注目します。

 感受性プラス,瞬発力。

 「問題」に直面したときに,どのような精神的な強さを発揮できるかを見定めたいのです。

 「学校内で起こる問題ではないから・・・」なんていう甘い人間を採用したくはありません。


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中学生の深夜徘徊と殺人事件

 小学生には少なく,中学生になると増える問題行動が「深夜徘徊」です。

 痴呆老人ではないので,「徘徊」という言葉が適切かどうかはわかりませんが。

 地域によるかもしれませんが,中学生が徘徊する場所は地元が多く,

 24時間営業のコンビニなど,必ず立ち寄る場があるので,

 親はもちろん,地域の人たちの目があれば,ある程度は防ぐことが可能だと思われます。

 都市部では,条例での取り締まりが強化されることも予想されます。

 親と地域の力が弱い地域では,教員が深夜に見回ることがあります。

 何が本業かわからないニックネームをつけられた先生もいたようですね。

 私の場合は,たばこを自動販売機で買う(今はできなくなっているはずですが)子どもを

 つかまえるために,深夜の2時まで張り込みをしていたことがありました。

 次の日が休日の夜だったと記憶しています。


 今回,大阪で中学生2人が犠牲者になりました。

 犠牲者本人やその家族をむち打つような報道はされていないように思いますが,

 お茶の間で交わされている会話はだれもが想像できるものでしょう。


 生命の危険をおかしてまで深夜徘徊をしますか?

 というフレーズができてしまうほど,危険な世の中というのは,

 中学生の問題行動を抑止する意味ではプラスにはたらく可能性もあるかもしれませんが,

 公園で深夜にたむろしている中学生に注意する勇気がある大人がどのくらいいるでしょうか。

 実は,危険な世の中というのは,子どもが被害車になるとは限らない,ということも忘れてはなりません。

 ほんのささいなことをきっかけにして,子どもが加害者になるケースがあとをたたないのです。

 問題発生を防ぐ手段は,そのような「場」に行かない,行かせないことしかありません。

 
 防犯カメラを増やすという安易な方向に流れてしまうだけでは,

 犯人はつかまりやすくなるかもしれませんが,

 被害自体が減るとは到底思えません。


 事件の再発を防止する役割がだれにあるのか。

 勇気をもってコメントできる人がテレビ業界にいるでしょうか。

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ジャーナリストの命は「取材」にあり~池上彰さんのこだわり

 池上彰さんの「高校野球史解説」で,インタビュー内容紹介の時間枠をポカで使い果たしてしまって放映ができなかったために,取材相手に対する謝罪が行われたのか,という予想を記事にしたわけですが,

 ふり返って考えると,これは池上さんの「仕事への向き合い方」を番組スタッフはもちろん,視聴者にも(取材相手にはもちろんですが)伝えようとした行為だったのでは,というのが頭に浮かんだイメージでした。

 私自身,新聞記者に取材をされた経験がありますが,私の口から発したことはほとんど書かれず,言ってもいないことが大きな文字で示されていました。そのとき,新聞は,記者が書きたいことを書くメディアだ,というだれかの話を思い出しました。

 新聞に限らず,テレビ番組でも,取材された内容がすべてオモテに出されるとは限りません。

 多くの良質なニュースが「お蔵入り」しています。

 特に,大きな事件が起こって世間の注目が集まってしまっているときなどは,

 そちらの記事を埋めるために紙面が無駄遣いされてしまう。

 どこの会社の記事を読んでも同じような内容でも,読者はそれを期待してしまう。


 そんなことが頭をよぎりながら,実は池上さんはポカをしたわけではなくて,・・・・

 事前の打ち合わせで尺が足りずに削除されたVTRであることは分かっていたのに,

 実際には自分がポカをしたことにして,

 「取材内容が放映できなくて申し訳ない」という態度を示したのではないか,

 と思えてきたのです。

 
 実際には,GHQの人からボールを渡された方は,どんな印象を抱いたのか,

 聞いてみたかった話でした。

 まさか,その内容が書かれた本がまもなく出版される,なんてことになっていたら・・・・

 
 そういう「惹きつけ方」もなしではないような気もしますが・・・。

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織田信長の「天下布武」の「天下」とは?

 「天下」が日本全体を示すというイメージは,「天下統一」などの言葉によって強化されている面があるでしょうが,

 昨日放映されたNHK「英雄たちの選択」の

 『信長は本当に天下を狙ったのか~新発見・幻の上洛計画』では,

 「天下」=「畿内」という考え方について,なるほどと思われるコメントをうまく構成してありました。

 京を中心とした5つの国の平和(天下静謐)を将軍権威の復活のために果たしていく・・・・

 信長の革新性よりも,

 伝統的権威を利用するというパターン化された行為に注目し,

 「本当の革新とは,革新そのものを目指すことではなく,現状の枠組みの中で精一杯やった結果として生まれてくる」といった価値観も披露されていました。

 この話を聞いて真っ先に思い立ったのは,

 新しいものを次々に導入させられ,しかもその成果があまり見られないという教育現場の苦悩です。

 小学校英語は,日本人にとって非常に大切なもの(いわゆる「学力」そのものも含めて)が失われる最悪な政策だという意見もあるようですが,今までの総合的な学習の時間にしろ,週5日制にしろ,実際には失敗に終わっているのが現状です。

 ごくごく単純な話ですが,教科指導をしっかりやる。

 生徒指導をしっかりやる。

 進路指導をしっかりやる。

 この3つがしっかりとできないままで,アクティブラーニングだなんだと言っても,何の価値もないことです。

 
 畿内制圧という「天下布武」のように,もう少しスケールの小さな目標を掲げてみたらいかがでしょうか。

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池上さんのポカ?~高校野球史解説~

 今朝のニュース番組で,池上彰さんの高校野球解説史が紹介されており,とても勉強になりました。

 高校野球はそもそもニュースが少なく「夏枯れ」の時期の問題を克服しようとして

 新聞社が主催するようになったとか,

 主催を始めた朝日新聞は,その4年前(1911年)には,野球の害毒論のキャンペーンをはっていたとか,

 それに対抗して読売新聞が野球擁護のキャンペーンで対抗するとか・・・。

 新渡戸稲造が「野球はスリみたいな能力を高める」と言って批判していたことはどこかの本で読んだことがあったのですが,初耳の情報もいくつかありました。

 戦争直後は米軍に甲子園が接収されており,アメリカ人が

 野球などを楽しむために使っていたとか・・・。

 戦後すぐの大会では,GHQから各校の選手にボールを贈ってもらえるセレモニーがあったとか・・・。

 
 ところで,このGHQからボールを贈られた経験のある方へのインタビューも行われて映像があったようなのですが,時間オーバーで放送できなかったことを池上さんが詫びるシーンがありました。

 折り込み済みだったのか,それとも本当に池上さんのポカだったのか,

 真相はわかりませんが,朝のナマのニュースであれだけの質と量の内容を原稿も見ずに解説されることは常人には無理なことです。

 社会科の教師は毎日そんなことをしているわけですが,そんな話のせいで,時間が足りなくなるのはいつものことで・・・。

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人間の感情翻訳アプリの必要性~「豊かな人間性」ができる背景とは何か?

 バウリンガルやニャウリンガルのようなアプリで人間向けのソフトは開発できないでしょうか。

 人工知能が「言葉の裏に隠された相手の感情」を暴き出し,

 「本心の声」を翻訳してくれるソフト。

 「絵文字」による感情の伝達方法がある,と反論いただくかもしれませんが,

 それもしょせんは2次元世界のものです。

 実際の会話が何となくスムーズに進まない人が増えてこないように,

 最初は洒落で全くかまわないので,

 「本当は別のことを考えているのかもしれない」ことに気づくことができる何かが必要な時代がやってくるかもしれません。

 相手に共感できる機会を増やすことは簡単なのですが,

 大切なのは,共感できない相手にも接することができる場所に居続けることです。

 むしろ,「あんたの気持ちなんて,絶対に理解できない!」なんていう相手がいてくれることの意義に自ら気づける人を増やしたい。

 そのためには,繰り返すようですが,「相手の気持ちを分かろうとしない」という悪い方向へ,引っ張っていってくれる人・・・・それは,「相手の気持ちを分かろうとしない人」かもしれませんが・・・・を排除せずに集団の一員にしておくことが大事です。

 「相手の気持ちを分かろうとしない自分」を,「静かに観察できる自分自身」がどう解釈してくれるか。

 「はずし」のような行為ができるLINEはある意味で,自分の人間性をはかり知るためのとても重要なツールかもしれません。

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相変わらずミスジャッジが多い高校野球

 ゲームの展開が早い高校野球は,よそ見をしていると決定的なシーンを見逃してしまうサッカーのようだった。

 回転のきいているピッチャーの球を見るのは気持ちがよい。

 きれいなフォームからいいストレートをくりだす中京大中京の上野投手は本当によく投げていた。

 ピンチでも危なげなく切り抜けており,延長戦突入だろうと思って少し油断していたら,

 関東一高がサヨナラホームランで勝利してしまった。

 この試合では,関東一高にとって不利なミスジャッジが2つあり,こういうときは

 ジャッジで負けている方が試合には勝つ,という不思議な法則があてはまりそうな予感はしていた。

 主審のストライクゾーンもインコースと言うより,3塁側に大きくずれていたが,これは両チームにとって平等であり,「そういうものだ」と思って戦うしかない。

 しかし,アウト・セーフの判定は,不思議と,片方のチームだけに有利に働くことが多い。

 関東一高の送りバントは強い打球で一塁方向に飛んだから,あるいは先入観が生まれたのかもしれない。

 中京大中京の一塁手は二塁に送球したが,テレビの映像で見る限り,足が先に入っていた。

 ホースプレーは,見る位置(角度)が悪いと,判定を誤る可能性が高まるが,

 ボールをキャッチする位置と,ランナーがベースにタッチする位置が離れているから,

 タッチプレーよりも少し判定が難しくなるのも事実である。

 もう一つは,三塁ゴロの送球がそれて,一塁手がランナーにタッチしたプレーで,

 テレビではリプレーが出なかったので何とも言えなかったが,

 タッチした位置と,一塁手の様子を見ている限り,アウトだったのだろう。

 判定はセーフとなった。

 一塁審判の位置が,ラインよりだったことが気になる。

 もっと内に入った方が,タッチプレーになったときに見やすくなるというのは,

 私が大昔に審判講習会で習ったことである。

 ネット上では,高校野球の「世紀の大誤審」など,ミスジャッジに関する映像も多く紹介されており,

 「素人審判の質の低さ」がバッシングの対象になっている。

 甲子園出場校の選手の質の高さと,審判の技術の低さの乖離は,

 「審判の判定への絶対的服従」という「権威主義」「審判絶対主義」によって

 「ないもの」のされているが,テレビでリプレイを見ると素人でもわかるので,

 メジャーリーグのような新しいルールが高校野球にも(高校野球にこそ?)

 求められるのかもしれない。

 今のところは,ミスジャッジで苦しめられた方が負けないジンクスだけが,

 せめてもの救いである。


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サメの海岸接近と大地震の関係~情報リテラシー学習と防災・減災学習の両立

 今が長期休業期間中でなければ,中学生が学校で話題にするかもしれないことが,

 「海岸へのサメの接近は,大地震の前兆ではないか?」という話である。

 すでに,ネタを披露してくれているところもあるようだが,

 もちろん因果関係を証明するものはないだろう。

 静岡市清水区の海水浴場では,サメの死骸が発見された。

 恐怖心や不安をあおる材料としては格好のネタだが,

 今最も心配すべきは,想定していた稼ぎがふっとんでしまいそうな

 「海の家」を経営する方々のことである。

 「遊泳禁止」が決まれば,商売あがったりだろう。


 海水浴を楽しんでいる人たちにとってサメは心配だろうが,

 地震の方も,いつやってくるかはわからない。

 桜島は噴火寸前になっているし,可能性はほとんどゼロかもしれないが,

 日本にある複数の火山が同時に噴火することだってあり得る。

 火山の噴火と巨大地震が重なれば,人々の不安はどうしたって高まってしまうだろう。


 ネットにあげられた「注目されること自体を重視した記事」を真に受ける人は少ないかもしれないが,

 本当に心配になる子どももいるかもしれない。

 だから,情報リテラシー学習は今の時代,とても重視されていいものに違いない。


 一方で,防災や減災の意識を高め,準備を怠りなくしておく姿勢を身につけるのにもよい機会である。

 視聴者が多いメディアでサメと大地震を結びつけるようなコメントは控えてほしいが,

 こちらも視聴率を高めるためにやらかすかもしれないことを念頭にしつつ,

 防災意識を確かなものにする工夫とセットにしてなら,報道のよい機会かもしれない。


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真の教育者キドリができない教師たち

 ある学年の子どもたちが,小学校時代に「史上最低の学年だ」と教師たちから呼ばれていた,という話を聞いて,哀れでならない,という話を以前に紹介しました。

 中学校に入って教師不信がどれほど払拭できたかはわかりません。

 「負け犬根性」というのは犬には失礼かもしれませんが,精神的にはさらに落ち込んだ様相を呈していた記憶があります。

 読書編で宮城谷昌光の『劉邦』で語られている「教育観」にふれましたが,若干補足が必要だと思いますので,こちらで記しておきます。

**********************

>諸将を厳しく統御せず,その独自色を消さないように働かせるという発想は,その底に農業における,

 「育苗」

 というものがあるかもしれない。

 劉邦は農家に生まれた。農民は土壌の良否を知り,耕耘し,種を播き,苗を育てる。その作業のなかで育った劉邦は,人の制御力には限界があることを痛感したであろう。(中略)できることは,それら植物の生命力が蝗旱によってそこなわれないようにするだけであるといってよい。そういう関係を,劉邦は自軍にもちこんだ。これによって劉邦軍にのびやかさとしなやかさが生じた。

 だが,劉邦以外の将帥がおなじことをすれば,その軍は統率のきかない,だらしなさを露呈することになるであろう。

 教育関係者としては,担任教師という立場だけでなく,管理職にも,教育委員会の人間にもあてはまる言葉であろうし,企業経営者にとっても,政治家にとっても似たような光景が目に浮かぶのではないでしょうか。

 時代は,ますます劉邦のような生き方がしにくくなってきています。

 「王者」のふるまいができる環境に今の社会はあるでしょうか。

 実は,それができたかもしれないのは,30年以上前の学校であったのかもしれません。

 もし「理想像」を無理にもちこもうとすると,教育現場は異常なまでに歪んでいく懸念があります。

 「歪み」に加えてさらに複雑な「ねじれ」をもたらす環境も浸透しつつあります。

*****************************

 劉邦は,多くの民に慕われたから,「王者」のふるまいができ,そのふるまいによって,さらなる支持を受けたのに対して,

 公立学校の現場というところは,「王者」のふるまいが容易にはできない環境であることについては,今更説明の必要はないでしょう。

 「学校の常識は世間の非常識」

 「教師はよく犯罪を起こしている」

 「教師は社会で鍛えられずに先生とよばれるから,社会常識が身に付いていない」

 などという批判的な見方はともかく,

 「いじめも阻止できない」

 「塾に通わないと学力がつかない」

 という批判は当たっているところがあり,

 つくづく劉邦は自身の能力でというより,他の人の能力に頼った生き方を選択して成功した例の一つだと思い知らされます。

 もちろん,学校の教師は子どもも親たちも信頼したいのです。

 子どもや親たちにとっても,それ以上に教師は「信頼したい」対象であるはずです。

 それが,ときにぎくしゃくするときがある。

 「どうしてこんなに真面目にノートをとっているのに,勉強ができるようにならないのか,

 先生の教え方がよくないのではないか」

 という批判はときどき寄せられます。

 まさか,「子どもの理解力が足りない」という正直な感想は言えませんから,

 「こういう勉強の仕方,授業の受け方をして,伸びている子がいます」という

 間接的な説明で逃げざるを得ません。教師の側も,「どうして理解できないのだろう」と

 疑問になっているわけです。

 どんなときも,教師は「わかったふり」はせずに,「わからない」ことは「わからない」と伝えるべきです。

 それでわかってもらえる保護者もいれば,「どうしても教師の側に非がある」ことを認めさせないと気が済まない人もいる。

 人間だから教師も間違うことがある,教師にもわからないことはある,というおおらかな心持ちでいられる人ばかりではないのです。

 教育現場の「歪み」というのは,

 「このまま頑張っていれば,必ず理解できます」という,根拠のない「希望」にすぎないことを,「確信」というかたちで親に伝えてしまうところから始まります。

 もっともまずいのは,「~先生はとてもいい先生だ」という信仰にのっかってしまい,

 「~先生が必ず~になる」と言っているのに,そうならないのは

 自分(の子ども)が悪いからだと思い込まされる親子がいることです。

 教育を農業にたとえることで,どれだけの人が共感してくれるかわかりませんが,

 土壌の良否に通じるものは教育では何か。

 天候の善し悪しに通じるものは。

 肥料はいつどれだけ与えたらいいのか。

 雑草とは何か。除くのか,除かないのか。

 害虫と益虫とは何か。

 種をまくのはいつがいいのか。

 教育の果実とは何か。

 小中高いずれも,「通過点」であることが多い教育現場でありながら,

 「結果」を求める風潮なり,環境なりが多くなっており,

 「選択ができずにそのまま受け入れるだけ」なのが公立の小中学校という現場です。

 公立小中学校は,LINEなどによって偏った集団による,偏った情報のみが錯綜するなかで生活している親子とどう格闘していくかが大きな課題となっています。

 情報が伝わりやすいということは,それだけ関係がねじれやすくなっているということで,

 「交わっている」点がありそうでない,そんな「ねじれ」の関係性のなかで,たとえば『いじめ』の全貌を理解するのはほとんど不可能であるように思えてきます。

 高校が教員に対して生徒等とのLINEでのやりとりを禁止した教育委員会があるようです。

 これはどうしても「一部の生徒」とのつながりを生むという点で,公務員がすべきことではないことが明らかだから,反対する市民はいないでしょうが,部活動の連絡など,隠れてつながっている人たちは少なくないでしょう。

 家庭や社会,企業などから多くの要請を受けている学校現場ですが,

 そこにいるのは「王者」ではなく,「官」および「民」の「しもべ」ばかりであるという制度から,見直していく方法を模索できないでしょうか。

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前提がハテナの「成功するアクティブ・ラーニングの考え方」

 西川純著『すぐわかる!できる!アクティブ・ラーニング』(学陽書房)の内容に関する大きな疑問は,読書編で記事にしたので,ここでは「成功するアクティブ・ラーニングの考え方」の記述について,疑問を投げかけたい。

 その前に,そもそもこの本は,だれを対象にして書かれている本なのかがわかりにくい。

 表紙に掲載されている写真は中学生か高校生だろう。男子がいないから女子高だろうか。

 冒頭で紹介されている授業の写真は,生徒を「子ども」と表現しているが,高校生のもので,

 「成績が上がった」コメントを寄せているのも,高校の先生である。

 ちなみにこの記事でもことわっておくが,アクティブ・ラーニングの重要性が叫ばれているのは,

 進研模試の偏差値を上げるためではない。

 この本は,高校の先生向けの本であって,

 だから各校は学習指導要領の内容を「無視」して(必修の教科も教えないように)いると表現したのだろうか。

 少し理解に苦しむ。


 さて,「成功するアクティブ・ラーニングの考え方」では,

>部活指導と同じにすればアクティブ・ラーニング指導はOK!とある。

 さすがにこれにはだれもがハテナマークをつけたがるだろう。

 そもそも,部活は好きな活動場所を生徒が選んで取り組んでいるものである。

 授業とは根本的に生徒の活動意欲の次元が異なる。

 また,部活動には1年~2年間,長く活動している「先輩」が「後輩」を指導することが可能である。

 普通の部活動では,1年生は自分の頭でいろいろ考える余裕などない。

 先輩が行っている練習を見守るか,与えられたメニューをこなすのが一般的であろう。

 
 著者は,教科における一斉授業を無味乾燥のものと断罪しながら,

 部活指導は理想的な能力が身につけられるような幻想を抱いている。


 少なくとも中学校では,著者の想定する一斉授業よりはかなりましな授業が行われる一方,

 部活動はそれほど理想通りに展開されていないのが実情である。

 
 自分自身が理想的な部活動を経験していない小学校の教師には,何が何だかわからないことだろう。

>部活と同じように,子どもに任せることが重要

 これは,高校の先生には通用する言葉なのだろうか。

 たとえば野球経験のないのに高校野球の顧問になった教師を想定しているのだろうか。

 
 たとえ理想の部活動ができている高校があったとしても,

 教科のアクティブ・ラーニングと同じ手法だというのは無理筋ではなかろうか。

  
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ヤンキー化した生徒と親との対峙方法

 精神科医の斎藤環さんが指摘している日本の反知性主義=「ヤンキー化」が各所で進んでいることについて,

 最もわかりやすい事例が,「周辺の人たち」の過激な言動である。

 ニュースに一通り目を通されている方には,「ボス」がだれで,「周辺の人たち」がだれで,「過激な言動」が何をさしているか,おわかりになるだろう。

 かつてある人物が東京都知事をしていたときにも,同じような光景を目にした記憶があるが,

 今の日本で進行している「ヤンキー化」は,本物のヤンキーとかかわってきた経験のある人にとっては,

 とても「わかりやすい現象」と受け取られるだろう。

 
 私が教師になって最初に出会った「ヤンキー化」した生徒たちとの向き合い方は,

 「ボス」を見定め,そことのつながりを断ち切ってあげることか,

 「ボス」に正論を語らせることに主眼をおいていた。

 
 ヤンキーは,ボスが考えていることを想像して,具体的な指示を受けずに動き,その「成果」をもってボスの信頼を得ようと努力する傾向がある。

 だからヤンキーによる『いじめ』を根絶するには,「ボス」に「そんなことをしてはいけない」と言わせる必要がある。

 それも,「先生から言わされている」という印象をもたせないように。

 ヤンキーのボスにはそれなりの人望があるだけでなく,頭がいい生徒が多い。
 
 手下がどんな目にあっても気にしないが,自分が損する状態になることは避けようとしてくれる。


 ヤンキーは仲間内からハブにされることを極端に嫌がるから,

 自分が『いじめ』を受けないように,自ら進んで『いじめ』に手を染める傾向が強い。

 『いじめ』を根絶するためには,ヤンキー組織内での人間関係をよくするために,

 教師が介入してくれているという安心感をもたせることが必要である(難しいことだが)。


 一番よいのは「組織」から抜けることであるが,それを実現させるためには,ヤンキーにとって,「学級全体」が新しい居場所としての機能を果たせるようにしておくことが,何よりも大切なことである。

 
 政治学者たちには,日本の「ボス」にさまざまな働きかけをしていただきたいが,

 学校の教師たちにとって,一筋縄ではいかない古くて新しい「ヤンキー」の登場が頭を悩ませている現状がある。


 かつて教育現場で救われなかった「元ヤンキー」を含む,「ヤンキー化」した親たちの増加である。


 少し前までは,親と親との連絡手段はメール程度で事務的な内容が中心だったが,

 目的ごとの複数のグループで容易に情報交換ができるLINEの登場によって,

 場合によっては子どもよりも大変な「集団」ができてしまった。

 集団が完全が分かれているようで一部が重なっているところがあったり,
 
 属している集団によって態度を変える人がいる。

 集団によっては一致団結して,ものすごいバッシングを個人宛に行う場合がある。

 それがどのような事件を引き起こしたかは,記憶に新しい。

 「ママ友連続自殺」は本当に痛ましい出来事だった。


 自分の子どもとか,一部の子どもからしか得られない偏った情報を頼りに,

 ときにはそれを武器にして,他の子どもやその親たち,

 さらには学校に攻撃をしかけてくる「ヤンキー」が増加傾向にある。


 親の人間関係まで把握できない教師たちには,「ボス」が見えにくい。

 直接働きかけているのが「周辺の人たち」である場合に,問題の本質を見誤る可能性が高い。

  
 だから学校は,こういう「ヤンキー」は「相手にしない」のが最も有効な手段となる。

 もちろん,学校に直接やってきていただき,情報源や人間関係を詳しく話してもらえる人は手厚く保護すべきである。

 LINEは本当に便利(情報の発信のしやすさ,見やすさも含めて)なツールだが,

 学力低下や生活指導上の問題との密接な関係を詳細にまとめたレポートが出されるまで,

 親と子どもの油断は自覚されないままかもしれない。


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問題行動を起こした子どもの親とのかかわり方

 先日,旅行先のプールを家族で利用していたら,

 小学生低学年か中学年の子どもがあるルールに違反して,係員から注意を受けていた。

 禁止事項ではあっても,まあ,この程度は仕方ないかなと思ってはいたが,

 気づいた係員はすぐに飛んでいって注意をしていたから,

 「注意をしないことへの苦情」への対応を行うというマニュアルどおりなのかなと思いながら眺めていた。

 するとしばらくして,その子どもの父親と思われる人物が,

 全く同じことをして,同じ係員から注意を受けていた。

 
 教員になってすぐは,親の年齢が自分よりもずっと上で,

 どの方もそれなりの分別をもち,自分の子どもに対する教育に責任を持っているように

 見えたものだった。

 
 それが,だんだんこちらも歳を重ねるにつれ,そうではない親が目立つようになってきた。

 もしからしたら,それは昔から変わらぬことだったのかもしれないが,

 自分も親になってからか,気になる存在になってきた。


 学校では,子どもが重大な生徒指導上の問題を起こした場合,

 親を呼んで事情を説明し,協力を要請することがある。

 
 しかし,この場面で「もめる」ケースが増えてきているように思える。

 子どもよりも,親の方に問題があるケースが多い。

 
 昔は,「そんなことは他の生徒もしている」と責任逃れをする子どもが見られたが,

 同じことを親が言ってくる。

 
 交通違反でも同じようなことを言う人はいるだろうが,

 問題を起こしたのは本人ではなくて,自分の子どもである。


 要は,子どものころにそういう反応を教師にしていた子どもが,

 親としてというより人間としての成長ができなかったために,

 
 「親を呼んでも意味がない」という状況を生み出していると考えられる。


 学校では,親と話をすると,子どもの方がまともに見えてくることも多い。

 気の毒なことかもしれないが,自分が子ども時代に周囲にいた問題行動を起こす

 同級生の顔が親と重なって見えてくるのである。


 学校は「家庭と連携して教育に相乗効果が生まれるようにすること」をめざしているため,

 なかなか難しいことかもしれないが,

 「危険なにおい」のする親とはかかわりをもたないようにするのも一つの方法だろう。

 親より子どもの教育を優先すべきだからである。

 
 ちなみに,冒頭のプールでは,子どもは係員に謝りもせずに去っていったが,

 父親は気まずそうに笑いながら係員の話を聞いていた。


 社会の中での失敗は人間を育てている面があるが,

 親は社会の中ではなく,家庭の中で「親として」成長しなくてはならない。


 ロールモデルとしての自分の親は家庭にいない世帯が多いから,

 自分なりに成長の道を見つけるしかない。

 
 これは多くの親にあてはまることであり,学校に通って学べることではない。

 もちろん,他人事ではない話である。

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なぜ塾の狭い教室だと集中力が高まるのか?~少人数学級でもなかなか学力が高まりにくい原因と関係が?

 人は学ぶ環境によって,能力が高まりやすかったり,そうでなかったりする・・・・

 反論したい方もいるかもしれません。

 ただ,自分の努力だけで何とかやってきた,という自信がある人も,

 実は他の人の世話になっていたかもしれない,と思ってもらえるような,私なりの仮説を述べたいと思います。


 人は言葉によってコミュニケーションしていますが,

 日本には「空気」という独特の意思伝達システムがあります。

 この「空気」は「air」という訳し方ができない言葉です。

 「雰囲気」に近いですが,ちょっと違う。

 だれか一人でつくるものとは限らず,

 大勢が暗黙のうちに了解しあっている状態を示します。


 イルカは超音波でコミュニケーションをとっているようなのですが,

 もし日本人のコミュニケーション手段が,超音波のような,

 科学的根拠を示せる何かによって行われていたことがわかれば,

 大発見になるかもしれません。


 道のりは険しいかもしれませんが,

 まずは「伝染するあくび」からイメージをつくっていくといいかもしれません。

 あくびは「見る」ことによって「うつる」というイメージがありますが,

 目かくしをした状態で,あくびがうつるかどうかを実験したいものです。

 できれば,脳波をきちんと測定して,本当に眠たくなっているかどうかを調べながら。


 さて,「眠くなる状態」とは真逆の,「集中してものを考えることができる状態」を想定してみて下さい。


 脳波は空気を伝わって他者に通じるものとは考えられていませんが,

 もしかしたら自分以外のだれかに伝わる脳波というのがあるのではないか,

 という期待が私にはあります。


 たとえば,とても集中して活性化している人の近くにいると,

 自分の頭も冴えてくる,という人はいませんか。

 私はそういうタイプです。


 図書館はとてもいい環境のように思った人がいるかもしれませんが,

 そこには必ずと言っていいほど「寝ている人」がいるものなので,

 私は図書館で本を集中して読めたことはあまりありません。


 授業場面ではどうでしょうか。

 子どもたちの発言とファシリテーターとしての私の持っていき方がうまくマッチしていくときと

 そうでないときは,何が違っているか。

 私の感覚では,「ボーッとしている子どもがいるかいないか」で左右されるような気がします。

 集中していない子どもがいると,私の注意はそちらに向かってしまい,

 その子どもの反応をよくするような言葉を探しにかかります。


 ただそうすると,ほかの子どもの脳のはたらきがストップする場合があり,

 また私がそちらに気を取られるという悪循環がうまれます。

 うまくいっているときは,だれも「ボーッとしている」子どもがいないのです。


 それは,私と子どもたち,という関係だけでなく,

 子どもと子どもとの関係についても同じようなことが言えるかもしれません。

 学校では集中できないのに,塾では集中できる,という子どもがいます。

 これも,集中している他の生徒の脳によい影響を受けて,

 自分の集中力も高まる,という調子です。

 
 私がしていることで,妻が嫌がることがあります。

 それは,妻が練る前に集中して本を読んでいるとき,

 その近くで私が本を読むと,私も集中して読めるのです。

 しかし,妻が逆に集中力を失うことがあって,

 私も読めなくなる。

 いかにじゃましないように近づくかがポイントで,

 「近さ」によって全く効果が異なる,というのも大切なことのようです。

 
 塾の教室は,余計なものを持ち込まない前提で設計されていますから,

 とても狭い。

 
 しかし,その「狭さ」こそが,集中力を高め合える適切な空間なのかもしれません。

 
 さて,少人数の教室で,今まで通りの広さの部屋で一人一人の机を離してしまったら・・・・。

 少人数だから学力が高い,というデータはないことの原因の一つのもしかしたら・・・。

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異教徒を迫害する強烈な心性が育まれる小学校の授業研究

 小学校の教師は,中学校の教師と比べると,とても勉強熱心で,

 小学校教師向けの教育書は出版不況かつ少子化が進んでいる現在でも,

 山のように出版されており,自腹をきっている人も多いようだ。

 私もときどきタイトルだけ見て買ってしまい,だまされてしまうことがある。

 出版社の方には,ぜひ「小学校向け」という副題を本の表紙に載せるか,

 本の説明を出しておいてほしい。

 授業研究も学校ごとに熱心に行われており,

 公開授業や研究授業への参加者も多い。

 子どもの学力を高めようとする強い意欲をもっていただいていることは,

 公立小学校に通う子どもをもつ親としては,とてもありがたく思う。

 
 公開授業や研究授業の成果は,「研究協議」で何が「協議」されたかで決まるといってよい。

 お芝居のように事前の練習の成果をみせるような授業だったとしても,

 「協議」の題材は山のようにある。

 
 「協議会」に参加していて楽しいのは,意見の対立が起こるときである。

 授業者にとっては,自分で授業をしているだけでは気づきえないような発見をする

 きっかけを与えてもらえる機会である。

 
 ただ残念ながら,「授業」のことではなくて,「信奉者の方針」との違いにこだわる人がときどき見られる。

 「私は~と思う」ではなく,

 「(私が信奉する)~先生なら,こうおっしゃるだろう」なんていう発言の仕方である。

 ~先生がそこにいるのなら意味があるかもしれないが,

 わざわざ「~先生の考え(と思われること)」をその場で登場させる意味はどこにあるのか。

 思えば,そういう発言をする人は,授業中にとても険しい表情で授業者や子どもたちを見ていることが多い。

 
 つまり,自分が目にしているのは,

 異教徒による,異端行為であり,「悪魔の教育」だということを言いたいのである。

 
 『学び合い』を正面から罵倒する人も似たようなところがある。

 
 私としては,お互いを「悪魔」呼ばわりしている人たちのどちらも「天使」には見えようもないが,

 「より教育効果が高くなる悪魔はどちらか」という目で比べたがってしまう。

 
 しかし,当時者たちには,議論の余地はないのである。

 昔のように,政治権力者が宗論の決着をつけることもできない(そこが,最近怪しくなっている面はある)。

 
 私は,~したい。それは,子どもたちにとって,~という効果が期待できるから。

 いやいや,私は~を優先したい。それは,そのことができれば,自然に~ができるようになることが

 期待できるから。

 といった「議論」を期待したい。


 子どもたちの成長を心から願っている人たちが,目の前の子どもを見て,議論ができる「協議会」の運営を心がけていただきたいと思う。


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悪魔の教育~子どもが動物園の猿であったことを自覚できるタイミング~

 小学校の授業参観をしていると,子どもたちが上手に空気を読みながら・・・・

 授業に熱中しているように装いながらも,決して教師や仲間たちの

 「意に背く」行為をしないように・・・・

 「息を合わせた」学習を展開しているようすがよくわかる。

 当然,「空気を読まない」「空気を読めない」子どもはろくな扱い方を受けない。

 教師はもちろん,クラスの子どもたちからも。

 教師は発言の機会を与えないし,子どもも話を聞こうとしない。

 教師は子どもの発言を否定することはしないが,

 たまに「空気を読まない」子どもが発言すると,

 教師のかわりにやっきになって内容を否定しにかかる。

 おそろしい世界である。

 汚れ役を子どもに肩代わりさせる教師は悪魔に見えてくる。


 小学校からの参観者たちも,そのあたりはすぐにわかるのだろうが,

 授業研究で話題にする人はいない。

 もちろん,「空気を読んで」。

 小学校では迫害されていたこういう子どもだが,中学校に上がってくると,

 俄然,活躍できるようになっていく。

 不満なのは,空気を読みながら成長して,担任からつねにご機嫌伺いをされていた子どもたちである。

 中学校では,教科によって教師が代わる代わるやってくるが,

 どの教師も「ご機嫌伺いはしない」から,実は

 迫害されていた子どもが,本当は「正しいこと」をしてきたのだ,ということに優れた子どもから気づき始め,

 中学校の頭に切り換えていく。

 それができない子どもたちは,みんなおそろしく学力が低い子どもたちばかりである。

 小学校では,計算ができなかろうが,漢字が書けなかろうが,

 研究授業で気の利いた発言さえすれば,「貢献者」となるから,

 教師から重宝がられ,可愛がられて育つ。


 自分が動物園の猿だったことに気づいたときには,

 高校への進路がまるで見えない状態であることを自覚するときである。

 まだそれを自覚できる子どもは救いがある。


 「基礎」が身に付いていないことに気づける子どもは,自分の学力の課題が自覚できるのだが,

 「基礎」がろくに身に付いていない子どもは,自分の学力の課題に気づきすらしない。

 思い浮かぶのは,自分に優しくしてくれた小学校の担任の先生の顔だけである。

 
 このような「悪魔の教育」に,堂々と立ち向かっていく人たちも,一部には存在するが・・・。

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世代間の交流を深める最良の場=学校

 私が教員になってからしばらく,新規採用が少ない時期が続いた。

 そのおかげで,「若い人」がすべき仕事にかなりの期間,取組み続けることができた。

 今は段階の世代の教員の大量退職が始まり,学校の統廃合を進めなければ,

 その分の補充を大量採用という形で実現しなくてはならなくなる。

 すでに学校によっては,若い先生方が多くなり,

 「若い人」がすべき仕事を大勢で分担するようになってしまい,

 仕事量の格差(能力差に比例する場合が多い。つまり,できる人には仕事が集まる)が

 大きくなっているところもあるという。

 女性の中には「いつ産休に入るかわからないから,仕事はまわさないで」などと主張する教員もいるようで,

 管理職としては頭が痛いところである。

 さて,私よりも少し年齢が下の教員の実数は少ないのだが,

 学校がある程度の規模を維持すると,

 それなりの世代の人たちが集まることができる。

 異なる世代にはそれぞれ独特の価値観があり,多様な考えを生かすべき時代には

 なくてはならない環境ではないだろうか。


 しかし,学校にはあまり足を踏み入れることがない世代の人がいる。

 学齢に達していない子どもは言うまでもないが,

 私が注目したいのは高齢者である。


 今や,高齢者とはいっても,「60代は見習いみたいなもの」と言われるような組織もあり,

 70代でやっと一人前,80代で落ち着きが出て,90代でもまだまだ現役という時代である。

 足腰さえしっかりしていれば,頭は冴えているから社会の一線に復帰しても,

 それなりの仕事ができるような高齢者も少なくない。


 教育委員会はリスクを恐れるからどうぞとは言わないだろうが,

 学校という場で高齢者が活躍できる仕組みをつくることで,

 これからを生きる子どもたちにはとてつもないパワーをもらえるような気がしてならない。

 もはや「報酬」は「カネ」ではない,「子どもの笑顔」だけでよい,

 なんていう人を生かす政策を実現させる気概のある自治体はないだろうか。


 高齢者が中心のNPO法人が次々につくられ,グループごとにメンバーの強みを生かした

 「教育的プロジェクト」を提案して学校にPRしにきてくれれば,

 お金がない日本の教育では願ったり叶ったりではないか。


 借金まみれの日本を救う一番の方法は,高齢者の価値観が変わることである。

 もちろん,固定的な価値観を強化していく場になる可能性もある。

 
 そこは,斬新なアイデアを競って提供しあえるようなムーブメントで防ぐしかない。

 教育環境を変えることで,日本の未来をより身近な肌感覚で考えられるような次世代が育成できるのではないか。

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【真の教育改革】 数社の教科書から中学生が自由に選べるとしたら・・・

 教科書の採択のあり方について,学習観が一変する改革案を提示します。

 教科書は,教育委員会が自治体の学校で使用されるものを一律で決めるのではなく,

 生徒が書店に行って自由に選べる仕組みとします。

 当然,教室では,さまざまな会社の教科書をもった生徒たちが集まるので教師の側は混乱しそうですが,

 教科書は学習指導要領の内容が習得できるように編集され,文部科学省の検定を通過しています。

 基本的には,章ごとのまとまりが教科書にはもれなくあるでしょうから,

 「何かが不足する」という事態は起こりません。

 教科書ごとに評価規準が異なるわけではないのですから,別々の教科書が使用されていても,評価は公平に行うことができるはずです。

 入試問題もそのようにできています。

 同じ内容について,教科書によって表記が異なるのはなぜかを考えるだけで,

 授業は盛り上がるかもしれません。

 この際ですから,「教科書」は「教科用学習書」と名前を変更したらどうでしょう。

 短くすると「教科書」のままでもいいし,「学習書」と言い方を変えてもいいでしょう。

 国語の場合,教科書に掲載されている文章をそのまま使うのではなく,

 その文章を読むことでつけることができる力とは何かに焦点をあてて,

 教師自らが教材を選ぶことが重要になってきます。

 当然ながら,教師は全社の教科書に目を通し,それぞれの特徴を熟知した上で授業に臨むので,

 それなりの知識やスキルが身に付いていきます。

 教科書の指導書ではなく,教科書ごとの比較対照ができる参考書が必要になってくるかもしれません。

 「主たる教材」としての「教科用図書」から,

 「主たる学習材」としての「教科用学習書」への変化は,

 学習の主体が生徒たちであることを明確に示すことになり,

 日本の学校教育に大きな変革をもたらしてくれるように思います。

 何より,それぞれの教科書のどこがどのように優れているのか,

 本気で多くの人が長所を探すようになっていくでしょう。

 
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正直すぎた秋田県教委~教科書を読まずに採択~

 やはり教育委員会が教科書を決定するという現行の仕組みは,無理があるようだ。

 地方教育行政法によれば,教科書採択の権限は教育委員会にある。

 文部科学省は,「各委員が職責を果たして,教育委員会が合議等により責任を持って行う必要がある」とし,

 4月には通知を出して,下部機関による絞り込みを禁じている。

 秋田県教委の教育委員が,正直に

 「すべての教科書は読んでいない」

 「読んでも理解できない」

 「教員が選んだものを信頼する」

 ことを打ち明けている。

 こういう教育委員会は全国にいくつくらいあるのだろう。

 ・・・・というより,たとえば数社ある中学の歴史教科書の特徴を読み取り,

 地域の子どもたちにとって最適なものを選ぶという作業を

 教科に関する専門的な知識もない地域の教育委員がすることは本当に可能なのか。

 もし「下部組織」の人間が,採択していた教科書会社と関係があったら,

 だれがどのような責任を問われるのか,明らかにされるべきである。

 監督する責任のある文部科学省は調査に乗り出すべきだろう。

 教科書の比較をどのような基準で行い,各委員がどのような意見を出しているかは議事録を読めばわかるのだが,そもそも読んでいない教科書の意見など言えないわけだ。

 採択される学校の多い少ないは問題ではない。

 ルールの意義を教えてくれる中学校の社会科教科書を読めば,

 ルール通りに採択が行われるはずだ,と言えないことも哀しい。

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2社の教科書で学ぶ社会科~大阪市教委の教科書採択~

 来春から使用される教科書の採択結果が次々に発表されている。

 教科書会社にとっては,固唾をのんで見守るニュースになっているのだろう。

 平成28年度から4年間使われる教科書が決まっているのだ。

 大阪市教委が発表した社会科の歴史と公民の教科書採択については,

 これから決定が予定されている他の自治体にも影響を与えていくだろうか。

 ちょっと変わったことが検討されることとなった。

 歴史も公民も,育鵬社版を採択したのだが,次点で採択されなかった教科書を副読本として使うという案が出されたのである。

 副読本になりそうなのは,歴史は帝国書院,公民は日本文教出版の教科書である。

 
 課題がいくつか考えられる。

 さすがに同じ教科・分野の教科書2冊目は独自の予算を組まないと保護者負担になってしまう。

 教師によっては「副読本の方を主にして学習した方がやりやすい」などということにもなりかねない。

 子どもにとっても「2冊勉強しないといけないのか」と負担感を訴える人たちが出てくるだろう。


 ただ,今回の提案がもし決定されると,

 「多面的・多角的な見方や考え方を養う」という趣旨から,2社の教科書を見比べながら学習するという,

 非常に斬新というか学習の効果が相当に期待できそうな政策になるとも言える。


 育鵬社版といえば,自由社とともに自民党が推奨している教科書である。

 他方が野党推薦,というわけではないが,「バランス感覚重視」という観点から考えれば,

 財政負担はかかるとはいえ,とても優れた決定のようにも見える。

 下村文科大臣も評価しているとのコメントを出しているようだ。


 ちなみに,横浜市では,歴史教科書は育鵬社と帝国書院の投票結果が3対3となり,結果,教育長が育鵬社を選んで決着したようである。

 素人が見れば,「政治がらみだな」ということがよくわかる。

 教科書の勢力図が大きく変化することに,抵抗感をおぼえる人も少ない時代になったとしたら,

 時代の大きな転換点になっていくのかもしれない。
 
 教科書はどのような基準をもとに選ばれているのか,各自治体の議事録などからその様子をうかがい知ることもできるだろう。

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ブログ記事は書き手の「不安」を映す鏡~おとろえた部分を何でカバーするか~

 将来への不安は,多かれ少なかれ,どんな人でも抱いている。

 そして,その不安の解消方法は人それぞれである。

 ブログの記事に注目すると,書き手がどのような「不安」を抱えて生きているかがよくわかる。

 たとえば私の記事からは,どのような「不安」を私が抱いていることがにじみ出ているのだろう。

 文章の読み手には,書き手の「不安」を想像する自由がある。

 人によっては,「社会から忘れ去られる不安」から逃れるためにネットの世界に手を出していることがわかる。

 たとえば,「なぜそれを匿名ブログで公表する必要があるのか」と思ってしまう記事にでくわすことがある。

 関心があるブログに頻繁にコメントを書き込んでいくのも,「存在を認識されない不安」を紛らわせるための方法の一つなのかもしれない。

 私の教育に対する不安の最大要素は,

 「勘違い」している人たちが犯し続けている過ちによって,子どもの健全なる成長が阻害されることである。

 もちろんその背後には,「勘違い」しているのはこちら側かもしれない,という「不安」もある。


 小学校英語の導入は,「英語が話せる日本人」を本当に作れるのだろうか。

 大きな深みにはまって出られない学校をつくるのではないだろうか。

 子どもたちは今以上に英語が嫌いになるのではないだろうか。

 道徳の教科化で,「道徳的価値判断ができる人」が本当に増やせるのだろうか。

 「教師(評価してくる相手)の前だけはちゃんとしていて,裏では180度違うことをする」ような人間を増やさないことができるだろうか。

 私は中学校教師として,小学校の教師たちの悪口を子どもたちから散々聞かされている。

 小学校を卒業すれば,「演技」する必要がなくなるから,子どもたちは素のままで言いたい放題になる。
 

 ろくな授業をしない,遅刻をしてくる,役員の子どもだけ甘やかす,などなど。

 もっと困るのは,「小学校の先生は授業中にマンガを読んでいても注意しなかった」と,ろくでもない教師の肩をもつ子どもがいることである。

 

 それなりに長く生きた人間は,脳の衰えをほかの分野の力・・・経験にもとづいた使える知識とか,感情をコントロールする力など・・・でカバーしている。

 子どもにそっぽを向かれないことだけを考えて教育している教師や親を想像するだけで,自分にかかる負担の重さが増幅して感じられてしまうのが今の悩みだろうか。

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教師のメンタルの強さは厳しい環境の中で育まれる

 子どもが言うことをきかなかったり,親が騒いだりすると,

 とたんに精神的ダメージを受けて「登校拒否」になってしまう教員がいる。

 自分は親の言うことを聞く子ども時代を過ごしたし,

 真面目な子どもだから親が逆上しているところなど見たこともないといった教師が増えているのかもしれない。

 いい大人が激怒している姿を間近で見る経験など,ほとんどの人にはなくなっているのだろう。

 私の場合は父親,近所のおやじ,小学校や中学校,高校の教師,中学校の部活動のコーチなどの激怒場面に遭遇しているから,

 「そのときどうすればよいか」

 「そのあとどうすればよいか」

 などという対処法を自然に身につけることができた。

 余談だが,私と接したことがある子どもたちは,幸いにも,「そういう場面」を経験することができているから,

 大人になっても慌てる必要なないだろう。

 「そういう場面」に遭遇した経験がない教師たちに,マニュアルで対処法を学べ,というのは無理な相談だろう。

 やはり実際に「それ」を経験してもらうのが一番である。

 とりあえずアドバイスできる「対処法」は,そういう場面を

 「哀しい表情で耐える」ことである。

 決して笑ってはならないし,避けようとしてもいけない。

 火に油を注ぐようなものである。

 また,謝ってはならない。その点については別の機会に説明する。

 人によっては無尽蔵かと思われるような燃料が体内に蓄積されており,

 長時間,激怒が持続できる人がいるが,

 その間は,哀しい表情を浮かべながら,エネルギーの源泉がどこにあるのかを想像しているとよい。

 その人を襲ってきた不幸に思いを巡らせ,同情できるような境地に立つことができれば,

 「怒鳴り込み場面」に出会っても冷静に対処することができるようになる。

 メンタルが強いつもりでいる人間の中には,相手の欠点をあげつらい,しまいには「頭がおかしい」などと言い出すような者がいる。

 逆ギレはメンタルが弱い人間のすることである。

 攻撃は最大の防御,などという戦略を,不適切な場面で使ってしまう人間がいる。

 そうすると「激怒」ではすまなくなり,

 相手を逆に冷静にさせてしまい,本当の意味で学校が「負ける」結果となる。

 学校の中にいる「黙っておかせるべき人間」をきちんと洗い出しておくことも,

 管理職などにとってはリスクマネジメントの重要な要素である。


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格差をなくそうとする教育が格差を広げる

 小学校英語熱がしばらく続きそうです。

 本当に他にやることがないのであれば,反対する筋合いのものでもないかもしれませんが,

 ある先生から気になる情報を耳にしたので記事にしておきます。

 どこかの自治体の話なのでしょうが,小学校での英語の活動を低学年から始めているところがあるのだそうです。

 しかし,その子どもたちが,英語ができるようにはなっていない。

 むしろ,「しっかりと嫌いになって」中学校に進学することになってしまっている。

 どうしてこういうことが起きるのでしょうか。

 小学校の先生の能力の問題として片付けてしまうこともできるのでしょうが,

 もっと根本的な何かが隠されているような気がしています。

 「格差をなくしたり,縮めようとする目的の改革が,かえって格差を拡大してしまっている」

 英語教育だけの話ではないような・・・・。

 要は,「やらされる仕事ではダメ」という一言に尽きるのでは?


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目標ができるとやる気がなくなる子どもをどう育てるか

 一般的には,「授業のめあて」を導入ではっきりと児童に示すべきだという「指導」が教師に対して行われています。

 人は,明確な目標ができると,それに向かって着実に努力しようとするだろう,という「まともな人間像」が根拠にあるからでしょう。

 しかし,人間はそう単純な生きものではありません。

 子どもは特に,・・・・教師を20年以上続けている私から見ても,

 「未知なる生きもの」です。

 目標がはっきりと示されてしまうことで,かえってやる気を失う子どもというのが必ずいます。

 このマイナス面に目を向けようとする人は多くはないでしょう。

 「そんな子どもは本当にいるのか」と疑問の方は,

 教師が課題を提示して,「なんだ,そんなことか」と授業のゴールが見えてしまう子どもの気持ちになって考えてみてください。

 やる気の失い方の種類は,それだけではありません。

 授業参観とか公開授業のときだけ張り切って「よい子」のふりをするような児童ばかりの学校だけを見ていては,気づけないことがたくさんあります。

 教師が話していることや,他の児童が発表していることに集中できる子どもの評価が高くなる仕組みがあるうちは,そう簡単には対応策は見つかりません。

 もし「個に応じた指導」に真剣に取り組みたいのであれば,別の評価システムが・・・個別の評価システムが必要になってくるでしょう。

 特別支援の学級では,実際にそれがつくられています。

 ユニバーサルデザインのというのは,本来,一斉授業を想定したものではないはずのものだということが,こういう経緯から理解されるべきでしょう。

 一斉授業で,みんながハイハイと挙手するようなものは,決してユニバーサルデザインではないのです。

 「収容所デザイン」とまで表現すると酷かもしれませんが。

 「はいまわる」ことの中に,本当の「楽しさ」を感じる子どもはどう評価してあげたらよいのでしょうか。

 ユニバーサルデザインとは,そういう子どもも教育対象にできる仕組みのことであるべきです。

 いつの間にかエセ「ユニバーサルデザイン」の批判になってしまいましたが,

 この記事は,宮城谷昌光の『劉邦 上』で劉邦が語っている言葉をヒントに書くことになりました。

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より「やりがいのある仕事」を報酬とする人事が機能する学校づくり

 成果主義による人事考課が適していないのは,学校の教育現場だけでなく,実は企業の現場でも同じだという主張がある。

 結局はどんぐりの背比べで差がでない,という現状もあるようだし,

 成果の報酬を単なる給与アップとか,管理職への昇進だ,ということになると,

 逆に仕事のやりがいを失っていき,以前よりも成果ががた落ちする,というマイナス面にも着目する必要があるだろう。

 ポイントは,「仕事の報酬をどうとらえるか」という点で,見解の一致がない場では,混乱が起きやすいということである。

 学校現場では,より「やりがいのある仕事」を報酬として求める人が増えれば増えるほど,教育力は向上していく。

 だから教員採用の場では,積極的に仕事を下さいとアピールできる人に高い点数を与えてほしい。

 ただ,「やりがいのある仕事」は報酬として与えられるものであり,最初から「ただで」与えてはならない。

 力のある教師たちは,授業や学級指導,放課後の部活動での生徒とのやりとりを見ただけで,「やりがいのある仕事」を任せることができる人間かどうかを見抜いてくれる。

 そういう教師たちに認めてもらうためには,先頭に立とうする積極性だけではダメで,

 様々な場で挫折したり離脱したりした生徒たちをフォローする役割を自ら担っていくことが大事である。

 もちろん,こういうフォローにやりがいを求める教師がいてもよいだろう。

 教育という仕事にたずさわれる「幸せ」をもっともっと強く感じるために,

 教師はどのように子どもや同僚と向き合うべきなのか。

 自分自身にも強く問いかけていきたい。

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ロボットのような人間

 人間のような知能をもったり表情をしたりするロボットの開発が進む中,

 「人間の開発」が後れをとっている気がするのは,学校の教師だけに限ったことではないだろう。

 「人間に近いロボット」が生まれてくる一方で,

 「ロボットのような人間」が増えていることに不安を抱く人は少なくないのではないか。

 「ロボットのような人間」という言葉には,

 「ロボット」に対する「人間の思い通りに動く」というイメージを抱くがゆえの意味や,

 「機械らしく正確に動く」というイメージに基づく意味など,多様なニュアンスが含まれていく。

 どちらかというと,負のイメージが強い言葉であろう。

 「感情がない」などといった「人間らしくない」イメージが最悪のものかもしれない。

 何度も紹介して恐縮だが,

 私が参観した中学校の社会科の授業では,40体のロボットにお目にかかれた。

 時間内に自分が用意していた原稿を読み,自分とほぼ同じ内容の他の生徒に対して,

 自分でも答えられそうな質問をしていく。

 そこにはグループによる発表はあったが,まるでコピーしたかのように通り一遍の内容しか登場せず,

 「個性」のかけらも見えなかった。

 アクティブ・ラーニングが,こんな生徒たちを大量生産する可能性があることを知っておいてほしい。

 『学び合い』が,どんな生徒たちをつくっていくか,警戒心をもっておいてほしい。

 教科指導の専門性が必要ないしくみを広めようとしている校長先生にかつて出会ったことがあった。

 そこで育った子どもが気の毒でならなかった。

 失敗を恐れると,教育は陳腐化という言葉では語りきれないほど,味気なくつまらないものになっていく。

 しかし,ロボットのような人間だと,その「味気なさ」は感じることなく,必要な能力だけどんどん身につけていける存在なのかもしれない。

 
 人間よりも,ロボットの方が「人間の心が理解できる」と思われる存在になるとき,

 本来はあってはならないはずの「差別」が正当化される時代がやってくるかもしれない。


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環境が人を変え,育てていく

 何をもって幸と不幸を分けるかは人それぞれの基準があってかまわないだろうが,

 「おかしなことを言うお前は頭がおかしい」と子どもに言ってきかせ続ける親がいたらどうだろう。

 「おかしなことを言うお前は,すぐに教員をやめろ」と上から目線でモノを言う同僚の教員がいたらどうだろう。

 教育とは,だれが何のために行うのか。

 教師教育という分野は,だれを対象としているのか。


 人は,だれと一緒にいるかということが,将来を左右されるような存在である,
 
 ということに気づく経験ができる人はどのくらいいるだろう。

 「あの上司でなければ・・・」という悔恨の念をもって会社をやめた人はどのくらいいるだろう。

 校長に恨みを抱きながら現場を去っていく教員も少なくない。


 逆に,今の自分があるのは,~さんのおかげ,と感謝する相手がたくさんいる教師というのは強い。

 ~さんたちの教えを生かす,とか,~さんに恥じないことをしよう,とかいうように,

 ただ「子どものため」という単純な理由で仕事をしない教師でいられる。

 そういうすばらしい同僚や先輩に恵まれなかったであろう人の言葉は無残である。


 残念な指導力不足教員たちのまわりに,少しでも理解力・包容力・粘り強さのある教員がいてくれたら,ここまでひどいことにはならなかっただろう,と思われる事例は少なくないはずである。

 また,どんなに自分勝手な行動を指導力不足教員がとろうとも,学校というところはある程度のカバーができる場所であるはずである。

 しかし,残念ながら,それが難しい場所が一つだけある。それは小学校である。

 小中高の公立学校の中でも,これから若い教師の割合が急激に増えていく小学校。

 小学校教師にとって手強い相手は子どもだけでない。

 くれぐれも,親を相手にしてつぶれていきそうな若い教師を学校は全力でフォローしてあげてほしい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より