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中学校教師の勤務時間を短くする方法 その1 「教科書」を革新する

 昨日の記事で紹介した「中学校教師の勤務時間が長くなる理由」に関連して,

 「中学校教師の勤務時間を短くする方法」を提案したい。
 
 しかし,残念ながら,この方法の大部分は,中学校ではできないことである。

 私は中学校教師の勤務時間が長くなる原因の多くは,小学校教育のお粗末さにあると感じながら仕事をしてきた。

 中学校教師の立場としても,

 小学校の子どもの保護者の立場としても,

 教育委員会の指導主事という立場としても,

 文部科学省が実施している調査の内容や結果を分析できる立場としても,

 小学校教育に多くの課題があることが,中学校の負担が大きくなる原因であると実感している。

 もちろん,勤務時間が終わったらすぐに帰宅する小学校教員を非難したいわけではない。

 「私はこういうやり方で仕事をしてきて,勤務時間が終わったらすぐに帰れるようになった」

 などということを紹介している本には強い嫌悪感を覚えるが,

 「勤務時間を超えてでも子どもに向き合え」などと要求する資格はだれにもない。

 あるとしたら,「教師の使命感に日本の教育の質を期待する」ことを信仰している人たちである。

 小学校教員のなかにも,夜遅くまで教材研究をしている人もいるし,

 生活指導に時間をかけてくれる人もいる。
 
 校内研修にも,中学校よりはるかに時間をさいている。

 部活動がないのだから,中学校教師よりも,担任している子どもたちと接する時間は長く確保できる。

 しかし,学力についても,生活指導の面についても,

 現行の学習指導要領に示された内容をしっかり習得していない子どもがとても多いのが現状である。

 地域によっては優秀な子どもたちが公立学校に進学しない現状もあり,

 小学校教員が抱いているイメージから,上位の子どもたちを除外した集団を想定する必要があることも忘れてはならない。

 薄っぺらな小学校の教科書の内容すら理解できていない子どもたちが,

 中学校・高等学校の授業についてこれないのは入学する以前からわかっている。

 学力調査というのは,「個人の学習状況」を主たる分析対象にするべきなのである。

 学校によっては,中学校入学時点で,小学校の学習内容の理解度を測定する検査を実施し,

 中学校卒業時点でも同じ趣旨で作成された検査を実施し,個人の発達の状況を調べている。

 その結果は,「入学時点で課題がある生徒は,卒業時点で非常に課題がある生徒になっている」というものである。

 こうした問題を解決する方法として,私が強く望んでいるのは,小学校の教科書の内容の充実である。

 「教科書」という概念の革新が最重要課題だと考えている。

 「教科書」という名称自体が,日本の公教育のレベル向上に「蓋がかかっている」状況を生んでいる。

 授業で使用する主たる教材としての「教科書」は,「学力検定図書」としての位置付けとし,

 「学力」はいわゆる「生活指導」「進路指導」で教師が語るような内容も含んだ概念とする。

 先日,宿泊行事で問題を起こした生徒に,どのような小学校時代を送っていたかを書かせたところ,

 「やるべきことをやったら,あとは何をしてもよかった」

 言葉づかいに課題がある点については,

 「担任の先生とは常にタメ口で会話していた」

 「中学校に進学したら,それではだめだということで,小6の卒業間際に敬語を使わせられた」

 このような学習指導や生活指導以前の低レベルの小学校をなくさない限り,中学校教師の勤務時間を短くすることはできない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より