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教育では何が語られるべきなのか

 教育を語っている人間をみるときに,重要な視点になるものは何か。

 それは,「この人は何のために教師になったのだろう」

 「教師になって,この人は何がしたかったのだろう」というものである。

 この視点で教員採用試験の面接をしてくれたら,

 「間違った採用」が激減するはずである。

 たとえば,なぜ音楽が学校の教科として採用されているのか。

 その理由を小学校の教師には説明できるようにしておいてほしい。

 音楽のすばらしさとは何なのか。

 感動するからいいのか。

 ただそれだけなら,親にCDを買ってもらえばよい。

 家で音楽が聴ければそれでよいではないか。

 音楽に興味がない子どもがいる。

 その子どもになぜ興味を抱かせることができないかがわからないような人間は,教師には向いていない。

 「私は国語を教えていますが,なぜ興味をもってくれないのか,わかりません」

 という教師がいたら,すぐにでもやめさせるべきである。

 「音楽に興味をもっていない人間がそもそもおかしい」

 といって逆に子どもを責めるような人間は,親になってはいけない。

  
 
 どんなに力がない教師にでも,子どもを集中させることができる場面がある。

 始業の挨拶のとき。

 全校での集会での挨拶。

 運動会での100m走などのスターター。

 合唱発表会での指揮。

 これで集中できない子どもはいない。

 
 子どもが集中して当たり前の状態で,その教師の力量は図れない。

 
 教師は教育のプロとしての技量を求められる存在である。

 
 子どもを前にした教師は権力者である。

 権力を欲する者は,ときとしてその使い途を誤る。

 子どもを言いなりにさせることに快感を覚えるようになる。

 その方法を教える本が小学校教師を対象としてたくさん出版されている。

 そこに,教師としての本当の「技量」が書かれていないことが深刻な憂慮のもとである。

 
 子どもを「操る手段」として教育を語ることはもってのほかである。

 「子どもを操る手段」で教師を操ろうとしている「言葉」が語られることは残念でならない。

 「相手が望むような返事をするな」(自分の意に反して)

 教育で語るべき言葉である。

  
 教師向けの本は,何が書かれているべきなのか。

 教育では,何が語られるべきなのか。

 
 なぜそれを教えるのか,なぜそれを学ぶのかという問いの答えである。

 完全正答など存在しない。

 問い続けることが,人間の使命である。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より