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子どもを利用して「覚え込ませる」狡猾さ

 『学び合い』で授業を行った後も,どのような実力がついているかを確かめる場面があるだろう。

 記憶だけで解けてしまうような単純なテストでは,「覚えているかどうか」だけで得点が上がったり下がったりする。

 『学び合い』で,「どこがテストに出そうか」「何が(テストに出そうな)大切な言葉か」を話し合っている生徒がいるとする。

 当然,テストを前にして,生徒は「これがテストに出ますか?」とたずねる。
 
 ずるい教師は,「みなさんが大切だと思った内容を,テストに出すようにします」と指示する。

 そうすると,「教師から教え込まれている」「教師が覚えさせている」という実感をもたずに,

 「自分たちが選んだものがテストに出る」という意識で学習するようになる。

 こうやってテストの点を高くしていくことが,『学び合い』の理想なのだろうか。

 受験の世界ではなく,教育の世界で求められているのが『学び合い』だとしたら,

 決してそうではあるまい。

 「教え込む」「覚えさせる」という教師の嫌な役回りを,ただ子どもになすりつけているだけ,

 というのが私の『学び合い』のイメージだが,反論してくれる人がどこにもいないので書きっぱなしで終わるだろう。

 私が最近実施したアンケートでも,授業で大切にしていることは何か,

 という問いに,小学校時代は「覚えること」が主流だった子どもも,

 中学校に入って「考えること」「理解すること」が大事だと答えるようになっている。

 それは,「ただ覚えているだけではだめ」

 「覚えていても,使えないと意味がない」

 ことに中学校1年生でも気づくことができるからである。

 教育基本法でも,学校教育法でも,学習指導要領でも,口を酸っぱくして言っている。

 「覚える」という意識で漢字を学ぶのは,つらいだけだろう。
 
 それは「活用する場面」で生きてくるのである。

 だから,「活用する場面」がない授業では意味がないのである。

 今までは,「活用する場面」が定期テストや受験のときしかなかった。

 それを授業で実現しようとしているのが,アクティブ・ラーニングの基本的な考え方である。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より