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エセ・アクティブ・ラーニング論者の見抜き方

 アクティブ・ラーニングというキーワードをタイトルに入れればとりあえず読んでくれると思っているのか,内容のない記事が散見される。

 注目されるべき言葉であることは確かだが,「なぜそれが求められているのか」については,教育現場の人間ならだれでもわかっている。

 国がどうとか言う以前に,生徒がどうなのか,自分の教え方がどうなのかを問わない人間は教育の世界に必要ない。

 そもそも小中学校の教師が研究授業をするとしたら,教育基本法が改正させるずっと前から,アクティブ・ラーニングでないと話にならない。

 問題は高校や大学の授業のあり方に焦点があたっているのであり,

 たとえば産業能率大学の小林昭文教授(元は高校の先生)の『アクティブラーニング入門』の帯には,

 「すべての高校教員必携!」と示されている。

 中には,みんなを満点にする確認テストといった,どこかの大学の医学部で大量留年の危機があったことを知っているのか?と突っ込みたくなるものも紹介されているが,

 本の内容は小学校の教師向けでも通用する。

 もとは日本教育新聞の連載記事であった。

 小中学校では,平成20年に告示された現行の学習指導要領で『言語活動の充実』→『思考力・判断力・表現力の育成』を要請しているのであって,全く新しい話ではないことはだれでも知っている。

 用語解説に陥りがちな高校の地歴科や公民科の教師たちへのプレッシャーとなるのが,

 アクティブ・ラーニングという言葉である。

 高校の教師たちにとっての大問題は,今まではセンター試験の対策をやっていればよかったのが,

 5年後にはそうはいかなくなったことである。

 大量の受験生をさばかなければならないセンター試験や私大の入試のようなくだらない問題づくりはもうやめて,

 しっかりと記述問題に答えさせて,本当の実力(知識だけでなく,思考力や表現力も)をはかるようにする。

 新しい対策をせまられているから,気の早い人が青ざめてしまっているのである。

 ついでに言えば,大学も同じである。

 大学の場合は,教員免許をもっていない人が「教える」仕事をしなければならないので,

 「教え方」のマニュアルさえ出版されている。

 そういうマニュアルを出版しなければならない大学の教師のレベルは当然低いことが想像されるので,

 学生になろうとする人は,心して「アクティブ・ラーニング」の主体になる覚悟をもたなければならない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より