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道徳教育の強化政策の何を教師は危惧するのか?

 道徳教育の教科化について,

 「道徳教育の強化」を国がおしすすめていくという「政策」に対して反対している教師のほかに,

 それが子どもの教育にプラスにならないおそれがあるとして反対している教師もいることも知っておいていただきたいと思います。

 大津で痛ましいいじめ自殺があった中学校は,文部科学省が指定した道徳教育の研究校でした。

 もちろん,道徳教育の研究をしたから,いじめ自殺が起こったというわけではありません。

 道徳教育の研究を学校をあげて取り組んでも,いじめ自殺は防げなかった,というのが事実です。

 しかし,どのような道徳教育の研究を行ったかは,報道されないのでわかりません。

 「成果」として報告される内容だけを読んでも,どのような道徳教育が展開されたかはわかりません。

 少なくとも,いじめに関与した子どもがいる学級での道徳に関する指導の記録は分析対象になってよいでしょう。

 道徳教育は,そのやり方によっては,むしろ
 
 子どもの問題を深く見えにくいものにするだけではなく,

 学校にとって最も大切な教師と子どもとの信頼関係を深く傷つける原因にもなるということを知っておくべきなのです。

 ある精神科医は,道徳は教師が(大人が,あるいは社会が)子どもを信頼しないからこそ設置されているものであり,それが存在する時点ですでに教師と子どもとの信頼関係はくずれている,と指摘します。

 そもそも「規範意識の低下が深刻」だから,道徳教育を強化しろ,という声がおこり,

 「教科化」への流れになった側面があります。

 子どもは大人から信頼,信用されていないのです。

 極論ですが,本当に教師と子どもが深い信頼関係をもとにした強い絆で結ばれている学校というのは,

 両者の合意と信頼のもと,道徳の時間をむしろ適当にやってすませてきた経緯があったのかもしれません。

 子どもがいらっしゃる親御さんに問います。

 規範意識の低下は,家庭の教育力低下も原因になっています。

 では,「しつけの強化」を行政なり,学校なりが大合唱してお願いしたら,

 子どもは今よりよくなると思いますか?

 こういうときに,さらに社会全体で虐待が増えるのではないか,という不安を抱く方は,私たち教師と同じような感性の持ち主であることがわかります。

 子どもというのは,とてもおもしろい存在です。

 うまく人間としてバランスをとり,自分探しをしていることがわかります。

 ある中学生は,家庭では「よい子」を演じきっている。

 しかし,学校に来ると,問題行動ばかり起こしている。

 保護者は言います。

 家庭ではしっかりしつけているのに,うちの子が問題を起こすのは,教師の指導が悪いからだ!

 たった1人や2人の子どもしか育てていないからというわけではなく,

 人間がどんな存在であるのかということに思いが到らない人は,

 もしかしたら「間違った子ども時代」を過ごさせられてしまった人なのかもしれません。

 あるいは,薄っぺらな道徳教育を受け,「私は良い子だ」という自己暗示にひたっていただけなのかもしれない。

 思春期時代を無風・無傷で過ごしてきた子どもが,社会から簡単に脱落してしまう情けない大人になってしまったら,取り返しがつかないのです。

 おそらくほとんどの子どもは,「良いこと」と「悪いこと」の区別はわかっています。

 だから,演じることができるのです。

 「いじめ」がよいことと思ってしている子どもはいません。

 同調して一緒になって「いじめ」をするのは,「悪いこと」ですが,別の友達との関係を深める(とてもよい関係とは思えませんが)結果になったという点では「良いこと」なのです。

 「いじめ」は「良いこと」か「悪いことか」という話をしても意味はないのです。

 人間が「弱い」存在であることを自覚して,いかにして「強さ」を身につけていったらよいのかを考えるのが,これから求められる「道徳教育」なのです。

 そういうことがわかっている教師が「道徳教育」を担当してくれたら,子どもは救われるでしょう。

 しかし,教師はよく教師のことがわかっています。
 
 それとは180度趣旨の異なる「道徳教育」を「強化」しかねない。

 そうすると,子どもの状況はさらに悪化する。

 教師と子どもの信頼関係が希薄化したり,なくなったりする事態は何としても防がなければなりません。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より