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『いじめ』を認めない人間の心

 『いじめ』の解決が難しいのは,『いじめ』を受けている側が,その事実を認めない(脅しをかけられているわけではないのに)場合も多いからである。

 『いじめ』を受けていることを認めない子どもの心が崩壊の危機に瀕するのは,自分が受けてきたことは『いじめ』であったのだということを自ら認めてしまうときである。

 さんざん『いじめ』を受けていながら,『いじめ』られる側は,「これは絶対に『いじめ』ではない」と言い張ることによって,自分の心をコントロールしてきてしまったのである。なぜなら,『いじめ』を受けていることを自分が認められば,自分の心が壊れることを強く危惧しているからである。

 こういう子どもに「あなたは『いじめ』を受けていますよ」と認めさせることが,教師の役割だろうか。

 段階をおって考えれば,あるべき指導法がだれでも想像はできる。

 『いじめ』を受けている人間に理解させたいことがある。

 あなたが『いじめ』を受けているかどうかには,ふれない。

 『いじめ』をしている人間というのは,だれかを『いじめ』ることによって,他の人間との協調性を実感したり,「(ばらさないという)約束を守る」という高い規範意識があることを自覚して満足している面がある。

 『いじめ』を受けている人間を同じ世界の人間としてみなさない空間では,自分たちは完全なる「理想の生徒たち」なのである。

 だれかが真実を明かしてしまうと,その「理想像」は崩れ去る。
 
 だから,「善人」が「悪人たちの閉じた空間の中で,善人になれずに埋没させられる」のが『いじめ』社会である。

 無理に「善人」になろうと,その生徒が世界からはじきだされ,『いじめ』の対象となる。

 こういう『いじめ』社会を根絶できるのは,だれか。

 それは,『いじめ』を受けている人だけである。

 ここまで聞いてもらって,「自分にできること」を自覚し,『いじめ』の事実を認めてくれたとしたら,話は先に進む。

 しかし学校ではそう簡単にいかない。

 『いじめ』を受けていながら『いじめ』を認めない人間は,実際にはだれかを『いじめ』ている可能性があるからである。

 自分自身も『いじめ』社会の人間であり,そこに「安定感」なり「自己充足感」をもっている可能性がある。

 そして,だれか特定の子どもに対する『いじめ』はなくなっても,すぐ次のターゲットを探すのが『いじめ』社会の住人なのである。

 ある『いじめ』問題の解決は,次の『いじめ』問題のスタートとなる。

 学校における『いじめ』問題の解決には,生徒一人一人が,『いじめ』をしなくても協調性なり団結心を実感できる環境をつくる必要がある。

 それは,『学び合い』のように,協調することが強制される空間であってはならない。

 アクティブ・ラーニングは生徒が自ら進んで学習に向かうことが大切なのであって,

 グループで必ず話し合いをしなければならないという強制がはたらくことによって,

 あるいは事細かに教師が決めた状況の中に放り込まれることによって,

 非常に大切な機会・・・・主体的に問題解決をするという動機をもつ場面を失ってしまう。

 小学校では,「ただ活動的なだけ」の学習が山のようにある。

 これをアクティブ・ラーニングと勘違いすると,日本の教育は根から腐っていくだろう。

 今は,根っこの生えていない子どもたちが大量に中学校に進学している状態である。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より