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2015年7月

「大学入試改革は大学に行かない子どもには意味がない」と主張する大学の教員へ

 今の大学生が生まれるよりずっと前から,「大学入試が変わらない限り,授業は変わらない」という教師の嘆きがありました。

 大学入試改革は,そのまま高校の授業改革に直結します。

 公立高校で行われているセンター試験のための知識の詰め込みに終始するつまらない授業をなくすために,

 大学入試改革は大きなインパクトがあるはずなのです。

 授業が変われば,教科の内容に興味をもち,大学進学を希望する高校生が増えるかもしれないし,

 大学に進学しなくても,単なる知識を覚えているだけではなく,知識や技能を活用して自分の頭でしっかり考えることができる人として成長できるチャンスが生まれるはずです。

 ですから,「大学入試改革は大学に行かない子どもには意味はない」といった趣旨の発言は,

 教育者としてはあまりにも見識に欠けるものと言わざるを得ません。

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『いじめ』に関する聞き取り調査の難しさ

 『いじめ』の全容を知ろうとして,教師たちは必死に情報を集めようとしますが,

 そこにはいくつかの大きな壁が立ちはだかっています。

 『いじめ』の全貌理解が困難であるのは,

 子どもたちが本当のことを言うとは限らないためです。

 その理由を列挙しておきます。

1 口止めやおどしを受けているため

2 「チクリ魔」などというあだ名をつけられ,『いじめ』られたくないため

3 友達をかばうため

4 以前に自分をかばってくれた友達への「返礼」として

5 自分に都合の悪いことは言わないため

6 親に対して「よい子」のままでいたい願望が強いため

7 嘘をつくのが癖になっているため

8 もともと憎い相手を陥れたいため

9 陥れられた相手に復讐するため

10 子どもたちで口裏合わせをしているため

11 嘘をついているつもりはないが,自分の想像や他人からの伝聞を真実と思い込んでいるため

12 記憶があいまいなため

 これらは複合的に作用している場合も多く,真実を見極めることはとても困難です。

 教師ではなく,たとえ「取り調べ」のプロである警察官が聞き取りをしても,「嘘がばれにくい」ことを理由にさらに真実から遠ざかる可能性もあります。

 ここに保護者がからんでくると,さらに真実はつかみにくくなります。

 保護者は,基本的に自分の子どもを守るスタンスにつきやすいため,

 混乱を極める場合があります。

 基本的には,当事者たちの言葉なり態度なりから「想像」するしかないというのが現状です。

 少なくとも,伝聞なのか,直接見たり聞いたりしたのかの区別はつけなければなりません。

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子どもが主役,先生も主役,訪問する人も主役になれる学校

 観光立国をめざす日本では,観光地に訪れる人だけでなく,観光地で暮らす人も主役になれるような取り組みが必要だと言われます。

 観光客たちが,モノや景色だけでなく,訪問先で出会う人とその生活が魅力的に見えることが,リピーターを増やし,安定した観光収入の確保につながることになると考えることもできます。

 このように「観光」というと,「訪れる人」と「迎える人」という二分法で捉えることになりがちですが,

 「人が主役になれる場所」という観点を使って観光の振興を考えると,よそから来たかどうかにこだわらず,

 「そこで自分が主役になれる条件」をもっと前向きに追究することができそうです。

 「どうせよそものだから」「通りすがりのようなものだから」ではなく,

 自由に出たり入ったりできる場であれば,そこは「だれもが主役になれる場所」なのです。

 「楽しませることで楽しむ」という方法も,ただ「客を受け入れる側」の視点ではなく,「訪問する側」の楽しみ方として,ありなのではないでしょうか。

 たとえば,ホテルが宿泊客に対して,お土産を持参した人は,レシートを渡せばホテルが買い取ってくれる。

 そのお土産を使って,ホテルで試食会をしたり,販売を行ったりする。

 ホテルの地元の特産品が売れなくなると思われるかもしれませんが,本当によいものなら販売促進効果も期待できるのではないでしょうか。

 北海道のホテルでカナダのお土産が買える。オーストラリア人とアジアのお菓子を食べながら談笑できる。

 家族だけで楽しむタイプのホテルもあって当然ですが,人と人との交流の場になるホテルもありでしょう。

 地元の人たちも集まってこれるような「開かれたホテル」の創造は難しいでしょうか。

 
 「主役」がたくさんいる観光地の姿を想像していると,

 学校のあるべき姿も浮かんできます。

 「学校」というハコモノには,教師たちが通勤し,子どもたちが通学してくる。

 授業を見学に各所から人が訪問してくる。

 教育の場では,もちろん一人一人の子どもが主役になるべきでしょうが,

 教師が主役になるべき場面もたくさんあるはずです。

 「人に尽くす」ことに喜びを感じることも大事ですが,

 自分の「主体性」を実感できる場面が人を成長させていく原動力になります。

 授業見学に訪れる方々は,教師との交流はあっても,子どもとのインタラクティブなかかわりはほとんどありません。

 それでよいのでしょうか。

 主役との直接的なかかわりなくして,教育を学ぶ機会とすることは可能なのでしょうか。

 教師向けの教育図書を見ると,わざとらしい構図の写真が表紙に使われている本に出会います。

 自己完結型の教育や学習にならないようにするためのキーワードとして,

 「参加」と「参画」を忘れてはならないように思いました。 

 
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LINEいじめ調査は親も対象にするべき~『いじめ』が増幅・強化される環境におかれていることに気づくために

 道徳教育を通して実現されるべき人間の生き方は,当たり前すぎる話だが,小学生や中学生だけを対象としたものではない。

 教師が起こす様々な犯罪行為が報道されるたびに,「こんな人間が教育にたずさわっていいのか」という思いを強くするが,

 報道はされない子どもの問題行動についても,「どんな人間が親としての教育をしているのか」という疑念が昔からある。

 最近になって,特に深刻な社会問題になりそうなのは,

 親同士がLINE等でつながり,特定の親や子どもに対する非難の嵐で相手を追い詰める形になっていることである。

 すべての親がLINEでつながっていれば,一方的な見方・考え方を戒めて自分たちの冷静さを取り戻したり,自分たちの至らなさに気づいたりできるものだが,つながっている者同士というのは「同調性の塊」であり,「第三者的」なものを完全に排除してしまっている(排除することができる)環境にいることが問題なのである。

 学校に関係した『いじめ』問題は,親のLINE等の利用によって,過去になり「増幅傾向」がある実態を調査では明らかにしてほしい。


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人気ブログにケチをつけるということは・・・

 人気ブログだからといってケチをつけるということは,本人が自分で指摘している事例と同じように,

 自分のブログが人気を集めないことへの不満の裏返しなのだろう。

 要するにひがみである。

 ブログ村の利用規約では,多数の利用者に不快な印象を与える挑発的・好戦的な投稿や行為は禁止されている。

 ではこのブログはどうなのかと言われれば,それは「利用者」の受け止め方次第だろうから,何とも言えない。

 政治問題と比べると,教育問題は低レベルの「戦い」と思われるかもしれないが,

 未来の日本のあり方を危惧する点においては同じだろう。

 「思考停止」という言葉がよく使われるが,

 自分の文章ではなく,他人の文章にケチをつけるだけでなく,

 「このように書くべきだ」というご注文をつけられる態度はご立派である。

 世間ではこれを「厚顔無恥」と呼ぶこともあるが,それにお構いなしでどんどん自分の言葉を発信できる日本はとてもよい国だ。


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中学校教師の勤務時間を短くする方法 その1 「教科書」を革新する

 昨日の記事で紹介した「中学校教師の勤務時間が長くなる理由」に関連して,

 「中学校教師の勤務時間を短くする方法」を提案したい。
 
 しかし,残念ながら,この方法の大部分は,中学校ではできないことである。

 私は中学校教師の勤務時間が長くなる原因の多くは,小学校教育のお粗末さにあると感じながら仕事をしてきた。

 中学校教師の立場としても,

 小学校の子どもの保護者の立場としても,

 教育委員会の指導主事という立場としても,

 文部科学省が実施している調査の内容や結果を分析できる立場としても,

 小学校教育に多くの課題があることが,中学校の負担が大きくなる原因であると実感している。

 もちろん,勤務時間が終わったらすぐに帰宅する小学校教員を非難したいわけではない。

 「私はこういうやり方で仕事をしてきて,勤務時間が終わったらすぐに帰れるようになった」

 などということを紹介している本には強い嫌悪感を覚えるが,

 「勤務時間を超えてでも子どもに向き合え」などと要求する資格はだれにもない。

 あるとしたら,「教師の使命感に日本の教育の質を期待する」ことを信仰している人たちである。

 小学校教員のなかにも,夜遅くまで教材研究をしている人もいるし,

 生活指導に時間をかけてくれる人もいる。
 
 校内研修にも,中学校よりはるかに時間をさいている。

 部活動がないのだから,中学校教師よりも,担任している子どもたちと接する時間は長く確保できる。

 しかし,学力についても,生活指導の面についても,

 現行の学習指導要領に示された内容をしっかり習得していない子どもがとても多いのが現状である。

 地域によっては優秀な子どもたちが公立学校に進学しない現状もあり,

 小学校教員が抱いているイメージから,上位の子どもたちを除外した集団を想定する必要があることも忘れてはならない。

 薄っぺらな小学校の教科書の内容すら理解できていない子どもたちが,

 中学校・高等学校の授業についてこれないのは入学する以前からわかっている。

 学力調査というのは,「個人の学習状況」を主たる分析対象にするべきなのである。

 学校によっては,中学校入学時点で,小学校の学習内容の理解度を測定する検査を実施し,

 中学校卒業時点でも同じ趣旨で作成された検査を実施し,個人の発達の状況を調べている。

 その結果は,「入学時点で課題がある生徒は,卒業時点で非常に課題がある生徒になっている」というものである。

 こうした問題を解決する方法として,私が強く望んでいるのは,小学校の教科書の内容の充実である。

 「教科書」という概念の革新が最重要課題だと考えている。

 「教科書」という名称自体が,日本の公教育のレベル向上に「蓋がかかっている」状況を生んでいる。

 授業で使用する主たる教材としての「教科書」は,「学力検定図書」としての位置付けとし,

 「学力」はいわゆる「生活指導」「進路指導」で教師が語るような内容も含んだ概念とする。

 先日,宿泊行事で問題を起こした生徒に,どのような小学校時代を送っていたかを書かせたところ,

 「やるべきことをやったら,あとは何をしてもよかった」

 言葉づかいに課題がある点については,

 「担任の先生とは常にタメ口で会話していた」

 「中学校に進学したら,それではだめだということで,小6の卒業間際に敬語を使わせられた」

 このような学習指導や生活指導以前の低レベルの小学校をなくさない限り,中学校教師の勤務時間を短くすることはできない。

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中学校教師の勤務時間が長くなる理由

 もし私が「中学校教師の勤務時間がなぜ異常に長いか」と問われたら,

 20年以上にわたって中学校教育に携わってきた経験から,次のように答えたい。

 まず第一に,問題行動に対する生活指導の時間が非常に長いこと。

 今回報道されている「教員の負担の重さと勤務時間の長さ」について,「文科省や自治体の教育委員会の調査が問題」という側面が強調され,「子どもに向き合う時間を確保する必要がある」などと言われているが,

 中学校教師の場合は,生活指導などで「子どもに向き合う時間」が非常に長いことが,そのまま勤務時間の長さに直結している。

 第二は,部活動の指導をしていること。これも一部の生徒ではあるが,「子どもに向き合う時間」として教師がとても大切にしている指導のための時間である。

 第三は,学習の評価の対象が学校の規模によっては数百人という大人数であること。

 これも,実質的には「子どもと向き合う時間」である。

 ノートやレポート,テストの解答を分析したり,間接的な指導として,評価を書いて子どもに返したり,よい作品を他の子どもたちにも紹介したりするために,多くの時間を費やしている。学校で直接的に子どもと接する時間を確保したい教師は,この仕事は家に持ち帰って行うのが一般的である。

 第四は,職員全体の会議だけでなく,学年の会議,分掌の会議,教科の会議,研修の研究課題追究のための会議など,学校の教育活動を効率的・効果的に運営していくために必要な情報の共有化,運営方法や内容の検討などに要する時間が多く必要であること。

 会議の時間は直接「子どもと向き合う時間」ではないが,これをおろそかにすると,指導上,知っておくべきことを知らないまま教育活動を行い,「時間がかかるが効果がない」という結果に陥る可能性がある。

 第五は,第一~四についての「記録」「報告」のための文書を作成することに時間がかかること。

 この「記録」「報告」は,他の教師たちにとって,余分な仕事を増やさないための貴重な情報になる場合が多いだけでなく,自分の仕事を評価する上でも欠かせないものである。

 個人的な理由では,

 第六として,学級だよりや学年だよりなど,家庭に子どもたちの様子を伝えるための内容を検討,吟味,編集する時間がかかる。

 第七として,深い教材研究をするために,多くの本を読むのに時間がかかる。

 第八として,いくつかの研究会に参加し,実践を発表するための準備に時間がかかる。

 第九として,校内の研究課題があり,資料の分析,新しい実践の提案のための企画づくりなどに時間がかかる。

 第十として,主任の立場になると,校内の教師の育成にかかわる仕事が増える。

 報道によって,以上のような中学校教師の実態が伝わっているだろうか。

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親の恥を一身に背負う子どもの悲惨さ

 「こうすれば子育てがうまくいく!」なんていう本の著者の子どもの状況によっては,

 親が恥をかいているのか,子どもがかかされているのか,判別しにくい。

 「こうすれば学級づくりがうまくいく!」なんていう本の著者のクラスの子どもが

 中学校に進学すると,「その場限り」のものにすぎなかったことがわかったりもする。

 自分の都合のいいようにものを動かそうとする教師と何年かいっしょにいると,

 行動パターンがそっくりになってしまう。

 世の中に「こうすればうまくいく!」なんてことがそこらじゅうに転がっていたら,

 さぞかし住みやすい世界になるだろうが,そういうしつけ?で育った子どもたちは

 「うまくいかない」ことですぐにやる気をなくすから,結局何のために

 「うまくいったことにした」のかわからない。

 恥ずかしいのは,親なのか,子どもなのか。

 教師なのか,教え子なのか。

 私は子どもの写真を雑誌や著書の表紙に掲載することは絶対に反対である。
 
 その理由はもう説明する必要はないだろう。

 最も気の毒なのは,やはり子どもたちである。

 ある親は,

 クラスの親たちに対して,

 Aをしなさい,Bをしてはいけません,と言う。

 そのくせ自分は,

 Aはしないし,Bはするし,言っていることとやっていることが全く違う。

 親だけが恨まれるのならまだましだが,そうは問屋が卸さない。

 教育ブログには,「ブログの書き方」を指南してくれるサイトがあるようだが,

 教え子がいないことだけがせめてもの救いである。

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防衛省と都立多摩科学技術高校の共通点

 それなりに国や都道府県の「科学技術」を代表すべき場所で,

 ドローンをなくしたり,水道水を捨て続けたりする「事件」が起こった。

 いずれも「税金の無駄遣い」を絵に描いたような出来事である。

 ドローンは見つかればすむという話だろうか。

 水道水は管理者が弁償すればすむという話だろうか。

 日本という国の「科学」の水準を疑われても仕方がない。

 両者の共通点には「体育会系の人がかかわっているのでは?」という予想も成り立つ。

 自虐ネタで全身筋肉。脳みそも筋肉・・・と語る人がいるが,

 本当は体育会系でも,緻密な人はとても多い。

 でも,なぜこんな単純なミスが起こるのだろう。

 これが,一般企業だったらどうだろうか。

 風が強い日に,おもちゃを飛ばすだろうか。

 水がたまっていかないことに,全然気づかずに1週間が過ぎるということがあるだろうか。

 こういう「事件」が起きるたびに,「公的機関の緊張感のなさ」が身にしみてくる。

 自腹をきらないですむような仕組みの中にいる人間を成長させることは本当に難しい。

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「勉強やよい行いは,褒められるためにすること」と思わせる小学校教育

 このブログでは何度もふれているが,小学校教師向けの本の中には,

 「こうすれば子どもがやる気になる」系のものが多く,

 「その場がよければそれでよい」系の教師が飛びつき,

 稚拙な教育を繰り返した結果,

 「トンデモ小学校7年生」が量産されることになる悲劇が後を絶たない。

 「褒めればやる気になる」のは人間として当たり前だが,

 ろくな授業をしていないと,子どもによっては,

 「褒められるために勉強する」という頭になっていく。

 言い方を変えた方がもっとわかりやすいかもしれない。

 「褒めてあげさせるために勉強する」というパターンもある。

 「褒める」という行為は手段なのか。目的なのか。

 「勉強する」という行為は手段なのか。目的なのか。

 「せっかく発言してあげたのに,褒めてくれないなんて」

 「せっかくよいことをしたのに,褒めてくれないなんて」

 ・・・・こういう子は,発言も良い行いも勉強もしなくなっていく。

 早い話が,勉強ができない子どもにこういう傾向が強い。

 小学校の教室の風景は容易に想像がつく。

 教師は,勉強ができない子どものご機嫌をとるために,

 褒めたりなだめたり甘やかしたりして,授業を妨害させないように

 「無害化」させていただけなのだ。

 もっとずる賢い教師は,できる子どもの優越感を満足させるために,

 できない子どもの発言を最初に取り上げてから授業を展開させていく。
 
 できない子どもが変容したことを全員で実感できるような授業なら問題ないのだが,

 できない子どもはできないまま放置される。

 放置されても,「よく発言する」という理由だけで,それなりの評価を

 受けて卒業してしまうと,子どもは自分の勘違いを中学校で初めて知ることになる。

 こういう悲劇を繰り返さないためには,小学校で事実をしっかり知る習慣を子どもに持たせることが重要である。

 中1ギャップの前に,小4ギャップとか,小5ギャップとか,小6ギャップがないのがおかしなことである。

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ママ友『いじめ』を利用した子ども『いじめ』の陰惨さ

 思い起こせば,私の中学校時代,つまり,今の中学生の親世代には,校内暴力の嵐が吹き荒れていた。

 『いじめ』も多発していたが,そのころは『いじめ』られる方が弱いから悪いなんていう論理もまかり通っており,教師も「相手にやり返せ!」などといういい加減な指導?をしていた。

 三つ子の魂百までならぬ,思春期の闇を四十五十まで引きずる親が,あちこちで出現しているようである。

 ママ友『いじめ』も今に始まったことではないだろうが,

 ママ友を『いじめ』ることで,子どもへの『いじめ』への相乗効果を狙っている人間もいるようである。

 学校側が『いじめ』られている側に立つ(法律に従えば,こちらを守るのは当然なのだが)と,

 この傾向が強まりやすい。

 『いじめ』る側の人間は,「勝ち負け」にこだわる性癖がある。

 『いじめ』て相手がダメージを受ければ「勝ち」。

 ただし,教師が間に入って,両者をなだめるようなことになると,「引き分け」というより「負け」になる。

 だから,どこかで挽回しなければならない。

 母子一体型の中学生・保護者が増えているから,

 子どもが「負け」た場合は,親が「敵を討つ」。

 親は直接的に子どもに攻撃できないから,

 ターゲットは相手の子どもの母親になる。

 このような構図でダメージを受けている母親は少なくないのではないか。

 この『いじめ』問題は,「教育問題」の枠で考えるものではなく,

 深刻な「社会問題」である。

 だから文部科学省だけに任せておいてはいけない。

 国の動きが遅い。

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「下から目線」のいやらしさ

 「上から目線」を気にする人間は,自らが「上から目線」をしていることに気づきにくい,という趣旨の記事を以前に公開しました。

 『下から目線』というのは私の造語です・・・・と言いたいところでしたが,「俗語辞典」にはしっかりこの言葉の意味が説明されていました。

 もちろん良い意味で用いる方法もあるでしょうが,私がここで言いたいのは

 「嫌らしい目線」「卑しい目線」としての使い方です。

 教育者の言葉というのは,自らの実践を語るまでもなく,その言葉には実践から得られた知見がにじみ出てくるものです。

 ある校長先生は,自分が一般教員だったころの話を好んでしていましたが,その言葉にはさほどの知見は感じられず,生徒は「その程度の先生だったんだ」という印象をもったと思います。

 実践を語ることによって,世の役に立つ,という方法もあるでしょうが,

 子どもたちにとっては自分たちに語りかける言葉自体が実践であって,

 「昔話」をされても心に響きにくいことを想像できない教師には,あまり期待をかけないでしょう。

 これは「子ども目線」の教育者像です。

 教育者でも子どもでもない人間が,「下から目線」で語っている姿を見ると,

 ハリー・ポッターに登場してくるピーター・ペティグリューの姿が強く連想されます。

 ピーター・ペティグリューに関してウィキペディアにはおもしろい評価が掲載されています。

 「善悪」という基準ではかる性質ではなく,「賢愚」のうちの「愚」を象徴する人物だというもの。

 愚者が語る教育論に代表される言葉は,

 「教育者なら,さぞご立派な言葉が書けるんでしょうね」。

 これは教育論ではなく,ただ教師たちの足を引っ張る存在でしかありません。

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ひどい授業を見たことがない教師が多すぎるし,自分がひどい授業をしているという自覚のない教師も多すぎる

 最も代表的な「ひどい授業」とは,どんな授業のことだと思いますか?

 もし教員採用試験でこう問われたら,何と答えますか?

 アクティブ・ラーニングという言葉を引き出したい面接官にとって,

 誘導しやすい想定回答は,

 「先生が板書をしながら教科書の説明をするだけの授業です」

 「生徒が学習に興味を示さない授業です」

 というもので,

 「生徒が学習に能動的に取り組めるにするために,あなたはどんな工夫ができますか?」

 という質問を引き出して,模範解答が言えれば,減点はなし。

 別にアクティブ・ラーニングという言葉を自分から出す必要はありません。

 
 もしあなたが面接官に対して強烈な印象を残したいと思っている人なら,

 こんな「ひどい授業」の紹介をしてみてはいかがでしょうか。

 
 ある小学校で参観した,子どもたちが目をキラキラ輝かして発言していた公開授業の話を。

 その舞台裏の話を。

 台本通りに進んだ「劇」にすぎない授業のことを。

 
 ある中学校で参観した,さらにその上をいく授業。台本通りやろうとして,

 不規則発言が出てしまったために,論理性が全くなく,支離滅裂になってしまった授業のことを。


 授業は「見世物」ではない・・・・子どもは道具ではない・・・・ことを,切実に訴えられる受験生がいてほしい。

 

 塾の先生には申し訳ないのですが,

 私だったら,この世で最もひどい授業は,「塾で私が実際にやっていた授業」を紹介します。

 雑談だけで終わった授業。

 ただ,その後,目が死んでいた子どもたちは見違えるようになり,学習に向かう姿勢が飛躍的に向上しました。

 どんな授業をしたの?

 なんていう質問には答えられません。

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問題発生→教員非難→モティベーションダウン→問題発生の悪循環

 岩手のいじめ自殺のような子どもの不幸が報道されると,

 「いったいどんな学校なんだ!」
 
 「教師たちはどれほど能なしなんだ!」

 などという非難が集中します。

 実際にご不幸があった学校ではどうなのでしょう。

 残っている生徒は「加害者」「傍観者」「その他」です。

 保護者たちは,どのような反応をしているのでしょう。

 教師たちは,新聞を読まず,テレビを見ず,スマホをいじらなければ,

 自分たちが何をどう言われているか知らないまま,

 仕事が続けられます。

 しかし,「ニュースを見る」勇気もそうですが,
 
 「ニュースを見ない」勇気は相当なものです。

 たいてい,「見てしまう」「聞いてしまう」ことになるでしょう。

 今の公立学校で,このような非難にさらされて,

 俄然学校の取り組み強化に意欲を燃やし,指導の改善や充実に燃える教師はどのくらいいるでしょう。

 タイトルに書いたような悪循環に陥るところが多いのではないでしょうか。

 そのうち,「問題をなかったことにする」という最悪の「負のループからの離脱」を図ろうとする学校もでてきます。

 そういう悪循環の結果が,今回のような不幸を招かないように,何かを変えなければなりません。

 報道のあり方にも,変化が出てきてもよいかもしれません。

 「報道」から「報導」へ。

 学校の「道徳」も,「導徳」へ。

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『いじめ』をうけている子どもの親への『いじめ』

 栃木の小規模な小学校で起こった「ママ友連続自殺事件」では,

 親をも標的にする壮絶な『いじめ』の実態が明らかになった。

 「田舎には警察や裁判所はいらない」という古き良き日本の姿は消滅してしまったのかもしれない。

 『いじめ』の被害を訴えている子どもの親が「強い人」であれば,

 学校を介してもめにもめることになるのだが,

 今まで「泣き寝入り」していたような「弱い人」が親であった場合に,

 お腹を痛めて産んだ自分の子どもを置き去りにしてでも

 命を絶たなければならなくほど,つらい目にあっているかもしれない,

 ということを想定すべきだという教訓となった。

 『いじめ』加害者(と疑われてる)の子どもの親が,どういう方法で

 自分の子どもを守ろうとするかまで,教師たちは真剣に考えたことが

 あっただろうか。

 『いじめ』被害を訴えた子どもやその親に,どのような攻撃をしかけるだろうかと,

 考えたことがあっただろうか。

 噂や電話の声よりも,携帯画面に流れてくる文字の「威力」は強いのだろうか。

 「死んでしまったら,何にもならない」という声もむなしい。

 
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『いじめ』に関する校長の「引き継ぎ」内容

 公立学校の校長で,10年以上同じ学校につとめているという人は少ないだろう。

 私の印象では,一般の教員よりも早いサイクルで入れ替わっていく。

 私が6年勤めた最初の学校では校長は3人,教頭は3人。

 5年勤めた2校目の学校でも校長は2人,教頭は3人出会った。

 校長から校長へは,どのような情報が「引き継ぎ」されているのだろうか。

 在校生の過去の『いじめ』に関する事例は,校長から校長へ引き継ぎされる内容だろうか。

 公立学校というところは,校長がどこまで生徒指導の内容にかかわっているのだろうか。

 岩手の『いじめ』自殺に関する調査結果が報道されているが,

 一般企業と同じように,トップがすべての情報を握っているとは考えにくい。

 「隠している」というより,「知りませんでした」というのが本当のことであることが多い。

 ある議員秘書の方も,「すべて秘書がやりました」というのは,実は本当のことを言っていると教えてくれたが,なるほどと思った。

 『いじめ』の場合は,前提が「『いじめ』問題は起こしてはならない」ではなく,「『いじめ』問題は起こらない」ことになってしまっていることが課題なのである。

 しかし,当然のことながら,学校では「あり得ない事態」がしばしば発生する。

 『いじめ』などは,「あってはならないこと」だが,「あり得ないこと」ではない。

 危機管理能力というより,危機意識が足りないことが,

 公立学校ではなく,すべての組織にとっての課題であると認識すべきだろう。

 東芝の問題はまたさらに別次元のものだろう。繰り返しになるが,

 学校の場合は『いじめ』を隠すというより,「知らない」というのが本当のところなのだろう。

 聞いてないから知らない,という現状をどう改善すべきなのか。

 それは,「また事務仕事か」と思われるかもしれないが,

 「『いじめ』の指導経過報告書」などは数年分,きちんと作成し,保管しておくべきである。

 『いじめ』の問題が発覚したら,評価が下がるから,隠蔽する,という悪循環を断つには,

 『いじめ』はどこでいつ起こるかわからないというスタンスでいる必要がある。
 
 大切なのは,『いじめ』に関係した生徒への指導であり,経過観察も怠ってはならない。

 『いじめ』は癌と同様,早期発見を心がけて,手を打つべき問題である。

 子どもに「これは『いじめ』ではないよね」と語るような教師ではなく,

 「これは『いじめ』だよ」と認めさせる教師が増える環境をつくるべきだろう。


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エセ・アクティブ・ラーニング論者の見抜き方

 アクティブ・ラーニングというキーワードをタイトルに入れればとりあえず読んでくれると思っているのか,内容のない記事が散見される。

 注目されるべき言葉であることは確かだが,「なぜそれが求められているのか」については,教育現場の人間ならだれでもわかっている。

 国がどうとか言う以前に,生徒がどうなのか,自分の教え方がどうなのかを問わない人間は教育の世界に必要ない。

 そもそも小中学校の教師が研究授業をするとしたら,教育基本法が改正させるずっと前から,アクティブ・ラーニングでないと話にならない。

 問題は高校や大学の授業のあり方に焦点があたっているのであり,

 たとえば産業能率大学の小林昭文教授(元は高校の先生)の『アクティブラーニング入門』の帯には,

 「すべての高校教員必携!」と示されている。

 中には,みんなを満点にする確認テストといった,どこかの大学の医学部で大量留年の危機があったことを知っているのか?と突っ込みたくなるものも紹介されているが,

 本の内容は小学校の教師向けでも通用する。

 もとは日本教育新聞の連載記事であった。

 小中学校では,平成20年に告示された現行の学習指導要領で『言語活動の充実』→『思考力・判断力・表現力の育成』を要請しているのであって,全く新しい話ではないことはだれでも知っている。

 用語解説に陥りがちな高校の地歴科や公民科の教師たちへのプレッシャーとなるのが,

 アクティブ・ラーニングという言葉である。

 高校の教師たちにとっての大問題は,今まではセンター試験の対策をやっていればよかったのが,

 5年後にはそうはいかなくなったことである。

 大量の受験生をさばかなければならないセンター試験や私大の入試のようなくだらない問題づくりはもうやめて,

 しっかりと記述問題に答えさせて,本当の実力(知識だけでなく,思考力や表現力も)をはかるようにする。

 新しい対策をせまられているから,気の早い人が青ざめてしまっているのである。

 ついでに言えば,大学も同じである。

 大学の場合は,教員免許をもっていない人が「教える」仕事をしなければならないので,

 「教え方」のマニュアルさえ出版されている。

 そういうマニュアルを出版しなければならない大学の教師のレベルは当然低いことが想像されるので,

 学生になろうとする人は,心して「アクティブ・ラーニング」の主体になる覚悟をもたなければならない。

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「おもてなし制服」「新国立競技場」で五輪期待ムードがだいなしに?

 5年後の東京オリンピックで外国人観光客をご案内をするボランティアが着用する

 「おもてなし制服」の評判がすこぶる悪い。

 ネットではネガティブな反応が伝染・伝播しやすいものだが,

 ヤフーの意識調査では8割の人が「良くないと思う」に投票している。

 オリンピック関連ニュースでは,新国立競技場をめぐる動きでも,

 「どうなっているんだ!」という怒りを呼び起こしている。

 あの制服のデザインになった背景には,

 よほど深い理由が隠されているのか?と頭をひねってしまうが,

 そもそも「制服が必要なのか」という議論はなされたのだろうか。

 競技場の「白紙」の最初の1文字は何だろうか。

 モニタリングなど,普通の企業ならやりそうなことができない組織の

 責任の所在は明確にしておかなければならない。
 

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エセ・アクティブ・ラーニングの見破り方

 アクティブ・ラーニングという宣伝文句をつかって公開授業を行っている学校を参観される方に,本物と偽物の区別をする方法を一つ提案しておきたい。

 たとえば社会科の授業の場合は,教師がワークシートの資料を日常的に使っているかどうかを確かめる。

 ワークシートは教師が選んだ資料なり,教師の視点での要点などが記載されているもので,

 子どもが主体的に学ぼうとする姿をそこから想像することは難しい。

 基本的には教師が教えたいことを,そのまま注入される子どもができる。

 私が参観した授業では,年間を通しての「教育の成果」からか,

 疑問を感じることなく,ただワークシートで教師が大事だと考えていると思われる内容を鵜呑みにして,

 「自分の意見」と称して教師の考えらしきものを淡々と述べている生徒が教室のほとんどを占めていた。

 グループでの発表なのに,みんなが同じことを言っていた。 

 それでは議論にはならない。

 どこかの国の政治と全く同じであり,民主主義的な社会を形成する子どもを育成しようとしている姿には見えなかった。

 子どもが発表しているからといって,それでよい,というのは小学校レベルであり,

 そもそも社会科という教科の目標自体が実現されないままであろう学習を「ラーニング」と呼ぶこと自体が誤りである。

 ただそういう問題授業や問題教師に対して堂々と「これでは民主的な社会をつくる人間ができるとは考えられない」と研究協議で言える自信のある方は少ないだろう。

 そういう方は,どの生徒でもいいから,「社会の勉強は何をしているときが一番おもしろい?」あるいは「社会科の勉強は何をしているときが一番充実感をおぼえる?」と聞いてみるとよい。

 その答えは,案外,授業者は知らないことが多い。
 
 看板の偽りを最も明確に証明してくれるのは,生徒の「証言」である。
 
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小さい町の中学校のいじめの根は小学校にあり

 「いじめはないことにする」という方針の町なりそこの教育委員会には,きっと真の教育の専門家は存在しないのだろう。

 「いじめゼロの町」という目標は決して悪くはないが,そういう実態だと公言するにはよほどの自信がなければならない。

 「不登校の原因はいじめではない。なぜなら親を交えて話し合いをして解決しているから」という論理は,教育では成立しない。

 とても幼く見える中学生が増えている。

 小学校が保育園化しているところでは,教育の専門家を入れた小学校をつくりだすべきである。

 
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「加害者の名前を言わないルール」をつくった小学校の考え方は?

 20年の中学校教師生活のなかで,驚くべきことを知るのは中1の指導をしているときに多い。

 いじめの訴えがあり,関係者に話を聞いているとき,

 「先生,いじめている生徒の名前を言ってもいいのですか?」

 と質問してくる生徒がいた。

 一瞬,何を質問されているのか意味がわからなかったが,

 小学校時代には,こういう聞き取り調査のときに,加害者の名前は言わないルールがあったようなのだ。

 それでは聞き取り調査にはならないはずなのだが,要は

 ことを曖昧にすませる習慣があったらしい。

 一応,事情は聞いたことにするが,本気で解決する気ははじめからない。

 
 私の方で理解が可能なのは,「話したくない」という子どもの心理である。

 「チクった人間」としていじめを受けるのは想像するだけで恐ろしい。

 ただ,こういう恐怖は,「隠した人間」として学校の教師全体から評価されることの重大さを認識させたり,

 聞き取りの対象者が多いときには,すぐに「取り越し苦労」だったことがわかる。

 みんなが同じことを話していることを知れば安心できるから。

 
 中には,隠していることや嘘をついていることが見破れない子どももいるが,

 その子どもが怪しいということがわかるのは,保護者の対応をみたときである。

 
 保護者が異常に子どもをかばっている場合は,保護者によって口止めをされているケースがある。

 
 いじめの問題が難しいのは,保護者間でも偽の情報が飛び交っていることで,

 ことの真偽については,いじめの被害者の言葉が頼りである。

 
 そういう意味で,いじめの被害を訴えることができる子どもや保護者は,とても貴重な存在である。

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授業における「主体性」の発揮のさせ方

 子どもは学校で主体性を発揮することができない,と主張している人は,よほど惨めな学校生活を送ってこられたのだろう。

 部活動を選ぶときに,友達に誘われた方に入ってしまう,という「主体性のなさ」は個人的な問題としてあるかもしれないが,

 基本的には自分が入りたい部活動に入れるという意味で,主体性が重視されている。


 授業においても,こうした形での主体性の発揮をイメージできれば,

 課題を選択する場面を設けることによって,より主体的な授業への取り組みが期待できる。

 たとえば,日本の歴史を学ぶ上で,「時代が移り変わっていく様子を最もよく表しているものは何か?」という問いに対して,いくつかの答えが出されるとする。

 ある生徒は,戦乱に注目し,別の生徒は,対外関係に注目する。

 権力者に焦点をあてたいという生徒もいれば,社会的,文化的な面に注目したい子どももいる。

 自分なりに追究したい視点を選ばせ,調査と考察を行い,発表する。

 「発表」を嫌がる子どもは,「主体的ではない」と言えるかもしれないが,

 少なくとも視点を選ぶ段階では,生徒の主体性が頼りである。

 このような学習では何が大切かというと,同じ課題を追究していた生徒と,自分の結論が違っていたら,

 なぜそうなったのか,分析しようとする態度を身につけることができるからである。

 あるいは,自分と同じような考えをもっている生徒がいることで,安心感をおぼえたり,

 自分と異なる視点で考える生徒がいることで,新たな発見をしたり,議論をしてより適切な考えに修正したりすることができるようになるからである。

 異なるテーマで追究をしながらも,同じ結論に向かって近づいていたことを発見するときの喜びもある。

 「違い」に寛容になり,「同じ」では単純に満足したりしない,本当の「追究の鬼」ができあがる。

 こういう授業でも「主体性は発揮されていない」というのであれば,また別の話をしなければならない。

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学力調査の学校別結果を,評価・評定(内申点)の信頼性の担保に使う方法は考えられる

 「国のペットじゃない」という発言は,何とも頼もしい。

 大阪府では,中学校における適正な観点別学習状況の評価の実施が遅れていたと聞く。

 今回の「学力調査の入試への活用」については,次のような方策が効果的であると個人的には考えている。

 観点別学習状況の評価は,教師や学校によるブレが大きすぎて,本当は入試の内申点としての扱いは不適当であると考えている教師が少なくない。

 そこで,学力調査の学校別の結果と,各学校でつけられた評価・評定と,その学校の生徒の入試得点との間の相関を調べる。

 あやしいのは,学力調査の結果が思わしくなく,入試得点も低いのに,なぜか評価・評定だけが高い生徒が多い中学校である。

 こういう中学校を「ブラック中」と名付け,入試の総合得点を算出するときに,評価・評定の比率を下げることで,入試の公平性を増す,という方策はどうだろうか。

 なお,生徒にとっては,入試のずっと前に実施されたテストの結果が,中学校最後の時期に使われることには,反発があるはずである。

 最後の追い込みがきいている生徒には,不利な材料となるから。

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教師の「子どもへの接し方」を見習った子どもの「教師への接し方」

 学級づくりに悩む教師は少なくないのだろう。

 そういう教師向けの本がたくさんある。

 これらの本に書いてある通りの教育を受けた子どもなのだなあというのが,よくわかってしまう出来事がときどき起こる。

 結局は,「自分をよく見せたい」という自己顕示欲の塊のような人間ができあがっていることが興味深い。

 そういう本を読んでいる教師が考えていることと,全く同じようなことを子どもがしている。

 子どもは,教師にそっくりになっていくのである。

 だから,学級づくりに関係する本は,よほど精選して読んだ方がよい。

 小手先の技でできるようなことばかり書いてある本だけを読んでいるような教師は,

 「子どもに気に入られたい教師」というのがみえみえになる。

 とてもみっともないことである。気の毒なのは子どもで,みっともない先生そっくりの生徒になっている。

 「しかけ」も時と場合によれば,効果を発揮するが,偶然を装って決まり文句を言う臭さを,

 子どもは簡単に見抜く。優れた子どもの心は,教師から離れていくだろう。

 教師そっくりになっていくのは,たいてい自分の考えを持たず,周囲に流されていくたよりない子どもたちばかりである。

 どこかに「秘するが花」の美徳を教えてくれる先生はいないだろうか。

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アクティブ・ラーニングという名の詰め込み学習

 生徒たちが教科書に答えが書いてあることを必死にまとめ,発表する。

 これをアクティブ・ラーニングとは呼べないことは,だれでもわかるでしょう。

 なぜそれが重要かをわかる機会もなく,重要語句を覚えさせられている子どもたちがいます。

 覚えただけの内容でも,どこかに活用の機会があれば,

 自分が本当に理解しているかどうかはわかります。

 「自分がわからないことは何か」を知るのがアクティブ・ラーニングの良さであるはずなのに,

 「みんなわかった?」「はーい」という小学校レベルの授業が中学校で広がらないように,

 注意したいものです。

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子どもを利用して「覚え込ませる」狡猾さ

 『学び合い』で授業を行った後も,どのような実力がついているかを確かめる場面があるだろう。

 記憶だけで解けてしまうような単純なテストでは,「覚えているかどうか」だけで得点が上がったり下がったりする。

 『学び合い』で,「どこがテストに出そうか」「何が(テストに出そうな)大切な言葉か」を話し合っている生徒がいるとする。

 当然,テストを前にして,生徒は「これがテストに出ますか?」とたずねる。
 
 ずるい教師は,「みなさんが大切だと思った内容を,テストに出すようにします」と指示する。

 そうすると,「教師から教え込まれている」「教師が覚えさせている」という実感をもたずに,

 「自分たちが選んだものがテストに出る」という意識で学習するようになる。

 こうやってテストの点を高くしていくことが,『学び合い』の理想なのだろうか。

 受験の世界ではなく,教育の世界で求められているのが『学び合い』だとしたら,

 決してそうではあるまい。

 「教え込む」「覚えさせる」という教師の嫌な役回りを,ただ子どもになすりつけているだけ,

 というのが私の『学び合い』のイメージだが,反論してくれる人がどこにもいないので書きっぱなしで終わるだろう。

 私が最近実施したアンケートでも,授業で大切にしていることは何か,

 という問いに,小学校時代は「覚えること」が主流だった子どもも,

 中学校に入って「考えること」「理解すること」が大事だと答えるようになっている。

 それは,「ただ覚えているだけではだめ」

 「覚えていても,使えないと意味がない」

 ことに中学校1年生でも気づくことができるからである。

 教育基本法でも,学校教育法でも,学習指導要領でも,口を酸っぱくして言っている。

 「覚える」という意識で漢字を学ぶのは,つらいだけだろう。
 
 それは「活用する場面」で生きてくるのである。

 だから,「活用する場面」がない授業では意味がないのである。

 今までは,「活用する場面」が定期テストや受験のときしかなかった。

 それを授業で実現しようとしているのが,アクティブ・ラーニングの基本的な考え方である。

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アクティブ・ラーニングの道徳授業で『いじめ』は絶対に扱ってはならない

 『学び合い』やアクティブ・ラーニングが,いじめの温床になっていく可能性を示唆するために,

 これから私のブログでは,いじめを『いじめ』と表記することとする。

 よほど学級の人間関係を掌握し,だれが何を考えているのか,寸分違わぬ生徒理解をしているのなら,

 『いじめ』をしている人間を「罠にはめる」ことができるので,実践してもかまわない。

 しかし,普通の教師が道徳で『いじめ』を扱う・・・・しかも,ロールプレイングなどを行わせると,どうなるのか。

 子どもは『いじめ』の場面を喜々として演じるだろう。

 その場面を見ているだけで,教室から出て行きたくなるような子どもの心を想像することはできるだろうか。

 昔話のような,単純な勧善懲悪の発想で,『いじめ』が撲滅できると思ったら大間違いである。

 『いじめ』の発生メカニズムは,非常に複雑である。

 中学校1年生で起こる『いじめ』の原因が,小学校低学年のいざこざにある場合もある。

 さすがに小中連携がうまくいっている学校でも,中学校の教師に小学校低学年のときの問題が報告されることはない。

 なぜわかるかというと,問題が起こって,個別の面談をしているときに,子どもや保護者から耳にすることになるからである。

 道徳授業での『いじめ』の扱いは,とても慎重に行うべきである。

 なぜなら,今その教室で,実際に『いじめ』が進行しているかもしれないから。

 『いじめ』は,基本的には教師に絶対に気づかれないように行う。

 背後で脅しがかかっており,教師に本人がチクらないことを前提として行われている『いじめ』もある。

 こういう環境の中で行われる『いじめ』のアクティブ・ラーニングは,『いじめ』を受けている生徒にとっては地獄そのものである。

 単細胞の人間は「感動させれば何とかなる」と思っているかもしれないが,

 人間の心が,100万本のバラを贈られて単純にだまされる程度のものだと達観しているのなら,

 「感動は危険だ」という大切なリスクコントロール能力を身につけさせるという趣旨で,

 新しい道徳授業を築いていかなければならない。
 
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『いじめ』を認めない人間の心

 『いじめ』の解決が難しいのは,『いじめ』を受けている側が,その事実を認めない(脅しをかけられているわけではないのに)場合も多いからである。

 『いじめ』を受けていることを認めない子どもの心が崩壊の危機に瀕するのは,自分が受けてきたことは『いじめ』であったのだということを自ら認めてしまうときである。

 さんざん『いじめ』を受けていながら,『いじめ』られる側は,「これは絶対に『いじめ』ではない」と言い張ることによって,自分の心をコントロールしてきてしまったのである。なぜなら,『いじめ』を受けていることを自分が認められば,自分の心が壊れることを強く危惧しているからである。

 こういう子どもに「あなたは『いじめ』を受けていますよ」と認めさせることが,教師の役割だろうか。

 段階をおって考えれば,あるべき指導法がだれでも想像はできる。

 『いじめ』を受けている人間に理解させたいことがある。

 あなたが『いじめ』を受けているかどうかには,ふれない。

 『いじめ』をしている人間というのは,だれかを『いじめ』ることによって,他の人間との協調性を実感したり,「(ばらさないという)約束を守る」という高い規範意識があることを自覚して満足している面がある。

 『いじめ』を受けている人間を同じ世界の人間としてみなさない空間では,自分たちは完全なる「理想の生徒たち」なのである。

 だれかが真実を明かしてしまうと,その「理想像」は崩れ去る。
 
 だから,「善人」が「悪人たちの閉じた空間の中で,善人になれずに埋没させられる」のが『いじめ』社会である。

 無理に「善人」になろうと,その生徒が世界からはじきだされ,『いじめ』の対象となる。

 こういう『いじめ』社会を根絶できるのは,だれか。

 それは,『いじめ』を受けている人だけである。

 ここまで聞いてもらって,「自分にできること」を自覚し,『いじめ』の事実を認めてくれたとしたら,話は先に進む。

 しかし学校ではそう簡単にいかない。

 『いじめ』を受けていながら『いじめ』を認めない人間は,実際にはだれかを『いじめ』ている可能性があるからである。

 自分自身も『いじめ』社会の人間であり,そこに「安定感」なり「自己充足感」をもっている可能性がある。

 そして,だれか特定の子どもに対する『いじめ』はなくなっても,すぐ次のターゲットを探すのが『いじめ』社会の住人なのである。

 ある『いじめ』問題の解決は,次の『いじめ』問題のスタートとなる。

 学校における『いじめ』問題の解決には,生徒一人一人が,『いじめ』をしなくても協調性なり団結心を実感できる環境をつくる必要がある。

 それは,『学び合い』のように,協調することが強制される空間であってはならない。

 アクティブ・ラーニングは生徒が自ら進んで学習に向かうことが大切なのであって,

 グループで必ず話し合いをしなければならないという強制がはたらくことによって,

 あるいは事細かに教師が決めた状況の中に放り込まれることによって,

 非常に大切な機会・・・・主体的に問題解決をするという動機をもつ場面を失ってしまう。

 小学校では,「ただ活動的なだけ」の学習が山のようにある。

 これをアクティブ・ラーニングと勘違いすると,日本の教育は根から腐っていくだろう。

 今は,根っこの生えていない子どもたちが大量に中学校に進学している状態である。

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道徳でアクティブ・ラーニングを進めることの危険性

 いじめは,教師に気づかれないように,陰でねちねちと行われるのが普通である。

 このいじめをさらに助長しかねないのが,

 「道徳でアクティブ・ラーニングを行う」という方針である。

 いずれ,「道徳の時間が嫌だから,学校を休む」という生徒が増えてくるかもしれない。

 道徳の時間に起こるであろういじめのパターンはいくつも想像できる。

 いじめの標的となる生徒が発言した後,わざとしーんとする。

 賛成も反対もしない。

 「無視された」と思わせるタイプのいじめである。

 みんな,考え込んでいるふりをすれば,「いじめと断定されないかたち」でいじめができる

 議論するかたちに持ち込んで,最終的にいじめの標的とした生徒が孤立する方向へもっていくという,レベルの高い「いじめ戦略」も考えられる。

 発表の中で,教師には気づかないような,いじめの標的を連想させる何かを言葉の中にはさみこんでいくといういじめ。
 
 とにかく精神的な圧迫を加えるチャンスが増えるのがアクティブ・ラーニングであり,

 多くの発言の中で,いじめられていると感じている生徒の心がどんどん切り刻まれていく。

 それに気づけない教師が担任であれば,生徒は助長する。

 「ばれる寸前」まで手をゆるめないおそれがある。

 直接攻撃ではないいじめは,

 「私にはそんなつもりはなかった」と言い逃れが可能なものであり,やっかいである。

 

 「いじめを許さない」というスローガンを掲げた道徳の授業でいじめが行われていく・・・しかも深く傷をつけるタイプの・・・・可能性が否定できない。

 いじめに関する専門的知識と対処技能が教師には強く求められている。


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尾木ママは名誉毀損の罪を犯したか?

 生活記録ノートに書かれたことが教師の指導のすべてではないことは,前の記事で書いた。

 このノートは,交換日記ではない。

 特にいじめに関連した内容が書かれていたら,すぐに本人を呼んで事情を聞くのが当然である。

 あるニュースでは,担任教師がいじめた生徒に指導をしていた(効果があったかなかったではなく)ことが報道されている。

 生活記録ノートだけを頼りに,激しい非難の声を上げた人たちに言っておきたい。

 生活指導には,記録に残っていないものがたくさんある。

 それらをすべて確かめて知ってからならば,教師への非難は好きなだけしていい。

 ただ,公にはできない事情が生活指導にはいくらでもある。

 担任教師が毅然とした態度で反論できないことを見越した報道は,控えるべきだろう。

 「ダメ教師」の烙印は,生活記録ノートだけではまだ早い。


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なぜ生徒の声は担任に届かなかったのか?~生活記録ノートは「交換日記」ではない~

 なぜ生徒は見殺しにされたのか?

 そもそも「生活記録ノート」とは,何のためにあるのか?

 教育現場で実際にかつてノートを使っていた立場から,コメントしておきたい。

 私の場合は,学年主任をしていたころ,「生活記録ノート」に記された内容のうち,良いことも悪いことも,「気になること」「全体に周知したいこと」に付箋をつけてもらって,各担任からその日のうちに預かり,毎日の学年だよりの原稿に使っていた。
 
 学年だよりはその日のうちに保護者に届くようになるが,必ず管理職のチェックを受けていた。

 また,「すべての生徒をすべての教師が育てる学校」という経営上の共通理解があったので,学年だよりは全教員にも配布している。

 気になることが書かれていた場合は,すぐに生徒を呼んで事情を聞くというのが教師として当たり前の仕事である。

 いじめにかかわる内容ならなおさらだし,冗談半分とは言え,「死」にかかわる言葉が出たら,即刻面談という流れになるのは当然のことである。
 
 生活記録ノートは,一日の学習と生活の反省を記入させるもので,「ふりかえり」の機能の重要性を認識する教師が活用すると効果的なツールである。

 基本的に教師は「励まし」の言葉を記入してその日のうちに返却する。

 ただし,空き時間があっても,すべて生活記録ノートへのコメント記入のために使うわけにはいかないから,判子を押しただけ(中学生なので,コメント入りの判子をたくさん用意していた)で返すこともある。

 

 重大な悩みを抱えていることがわかった生徒には,むしろコメントよりも面談・直接指導を優先する。

 生活記録ノートだけを見ても,担任が生徒にどのような指導をしたのかはわからない

 だから校長には担任から指導の経緯を聞く義務がある


 すでに教育委員会には報告されているかもしれないが,2チャンネルの炎上を招く原因は情報がすぐに出ないことにある。

 担任はすぐに病休に入ったらしいが,校長の指示でそうしたのか,教育委員会の指示なのか,といった「勘ぐり」も起こっている。

 しかし今回のようなことになると,「時間稼ぎ」など役には立たないし,やってはいけない。

 警察が直接担任教師に聞き取りをすることがあるのかどうかはわからないが,情報は学校経由で公開されるべきだろう。


 繰り返すが,明らかにすべきことは,生活記録ノートの内容ではなく,直接どのような指導が行われてきたのか,ということである。


 そしてどのような人間が教師になるべきではないかを明らかにすることが重要なことで,

 あわせてどのような人間を校長にすべきではないかを教育委員会が再確認するこ必要もある。


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「かまってあげる」ことによる非行の防止とその限界

 奥さんが出稼ぎ先への出発時に見送りをしてくれなかったことが,放火の原因だったと今朝のラジオで耳にした記憶があります。

 このニュースを耳にして,まず頭をよぎったのが,

 「では,かまってもらっていたら,問題は起こらなかったのか」

 ということです。

 私は決してそうは思いません。

 よくある話ですが,荒れた学校の中に,先生方が

 問題行動を繰り返す子どもたちを「かまってあげている」ところがあります。

 「かまってくれない」ことを理由に問題を起こすと考えているからで,

 問題の発生を防止する手段として,普段から

 「かまってあげる」「気にかけてあげる」態度をとってしまう。

 しかし,これは誤った指導です。

 そういう態度で生徒に接している先生がいる間は,「荒れ」は解消しません。

 問題行動を起こしている生徒と教師の「馴れ合い」の図式が,

 本来,学校で力を発揮すべき優れた生徒たちの「やる気」をそぎ,

 「活躍の場」を奪ってしまうという弊害もあります。

 「普段はどうしようもないやつだけど,運動会のときだけ張り切ってくれる」

 なんてことを理由に,ろくに練習に参加しない生徒がリーダーになることを認めてしまうような腐った学校では,絶対に「荒れ」はなくなりません。

 問題行動を起こす子どもに「かまってあげる」ことは,一切しない。

 問題行動を起こした場合は,毅然とした態度をとり,十分な時間を割いて反省を促す機会とする。
 
 こういう生活指導の基本が通用しない学校では,

 中3になっても「赤ちゃん」がいなくならず,そのまま乳児を高校に送り出すことになる。

 「子殺し」の親に情状酌量の余地はありません。

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「全国学力調査」を入試で活用すると,何が起こるか?

 私の娘が通っている小学校では,学力調査が行われる前に,密かに(?堂々と?)「練習問題」を解かせて,結果がよくなるように「指導」してくれています。

 もし「全国学力調査」の結果が入試得点に反映されるようになると,何が起こるのか。

 容易に想像できることです。

 中学校はまだ,練習をさせるほど暇ではないので,不正が起こりにくい場所だとは言えるかもしれませんが・・・。


 かつては,答えを教えてくれる「やさしい」先生がいました。

 疑心暗鬼が拡大し,やがて「本当にテストの信頼性が低い」ことがばれてしまうかもしれません。

  
 実施日が一日遅かった学校はどうなのか。

 当日欠席した生徒はどうなるのか。

 受験の直前にぐーんと学力が伸びた生徒はどうなるのか。

 
 心配の種は尽きません。


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あまり知られていない成績を上げる方法

 たとえば算数の学力を向上させようとする場合,

 子どもの理解度に合わせて,難易度の異なる問題を解かせる必要がある。

 四則演算も満足にできない子どもに,難関中学の入試問題を解くことは最初から不可能であることは言うまでもない。

 逆に,難関中学の入試がスラスラ解ける子どもに,100マス計算をさせる意味はない。

 子ども1人1人の学力を向上させるためには,

 それぞれの学力に応じた「骨があってぎりぎり解けそうな問題」に取り組ませることが最も効果的である。

 ICT機器が,このような学習に対応できる日が来るのを待ちたい。

 このような学力向上策は,進学塾では何十年も前から行っている。

 ただ,進学塾の場合,テストが終わった後に,簡単な解説を行うところはあっても,

 その解説部分に相当の時間なり力を入れているところはあまり多くはないかもしれない。


 普通の学校でもできる学力向上策は,「テスト後」の学習をできるだけ充実させることにある。

 こういう指導を行っている学校が少ないことは,そもそも学力向上関係の調査でその有無を問う質問項目がないことからもわかる。

 普通,学力向上関係のアンケートは,「それをやっている学校(生徒)は得点も高い」といった相関をとって,対策を立てやすくすることがねらいである。

 アンケートで問われていないことを,わざわざ自ら行おうとする「創意工夫」が見られる学校はほとんどないはずである。

 繰り返すが,学力向上策としてお金がかからない最良の方法は,

 テスト後の学習をしっかりと行わせることにある。

 
 すぐにでもできる方法は,テストの解き直しをさせるノートをつくらせることである。

 できれば全教科,解き直しノートをつくらせたい。

 
 子どもによっては,このノートを仕上げるために,テストの前よりも勉強しなくてはならなくなる。

 
 長文で答える問題などが時間がなくてできなかった場合は,

 このノートに自分なりに考えて書くことができる最良の答えをしたためて提出する。


 教師は,その答えも真摯に受け止め,総括的な評価に生かすべきである。

 同じ問題を解いて,少しでもできるようにしていくことが,受験のときの力を左右していく。

 ただテストをして,ダメでした。次はがんばりましょう,では,学力は向上しない。

 次とは,同じ問題をきちんと解けるようになることを指すようにしたい。

 そして,実際に繰り返し解かせてみることが大事である。

 特に算数・数学はこれを実践してほしい。

 基礎・基本の徹底とは,こういう取り組みを行ってこそ,「やっています」と言えるのである。

 全部の問題を繰り返させる必要はない。

 「繰り返し」だけで学力が伸びるはずの子どもが,
 
 「やらせっぱなし」で終わっていることが気の毒でならない。

 
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道徳の教科化で強化してはならない「ゆがみ」「ひずみ」「ねじれ」

 東京都教育委員の乙武さんが,今朝のテレビ番組で,教育現場に立った経験から,

 「道徳の授業の難しさ」を次のように語っていました。

 国語や算数の学習では,わからないものがわかるようになる喜びがある。

 道徳は,はじめから答えがわかっていることを扱うので,教師も子どももつらい。

 道徳と「教科」との違いがはっきりとわかる教師目線の言葉です。

 「教科」には,「教科学習」や「教科教育」という言い回しがありますが,

 道徳には「道徳教育」という言葉はあっても,「道徳学習」という表現はありません。

 これから必要になってくるのは,「道徳学習」を創造することだ,

 と言ってしまえばそれまでかもしれませんが,

 人間の生き方について,最も心が揺れ動き,苦しみながら成長するその時期に学習対象として本人が扱うことが,本当に子どもの成長にとってプラスになるのかどうか。

 こんなことを言っては失礼かもしれませんが,

 道徳の教育政策がこんなことになってしまった以上,

 今までの道徳教育の専門家や,道徳教育に関連する雑誌は役に立っていなかったことが証明されました。

 もちろん,新しい政策が必要だと訴えていたのなら,話は別ですが。

 道徳が教科化されると,「専門家」が求められる。

 今までだれもしてこなかった「専門家」づくりができる人が,どこにいるのか?

 しかし,そもそも道徳教育というのは,学校の教育活動全般を通して行うものであり,そういう意味ではすべての教師が「専門家」でなければならなかったはずです。道徳の授業を担当しない,学級担任ではない教師たちも含めて。

 ただでさえ「ゆがみ」「ひずみ」が問題だった道徳教育に,

 さらに「ねじれ」「ずれ」を付け足すような教科化の動きは,

 新しく出た学習指導要領をしっかりと読み込んでもらって,実践していくことで

 解消していくしかありません。

 
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道徳教育の強化政策の何を教師は危惧するのか?

 道徳教育の教科化について,

 「道徳教育の強化」を国がおしすすめていくという「政策」に対して反対している教師のほかに,

 それが子どもの教育にプラスにならないおそれがあるとして反対している教師もいることも知っておいていただきたいと思います。

 大津で痛ましいいじめ自殺があった中学校は,文部科学省が指定した道徳教育の研究校でした。

 もちろん,道徳教育の研究をしたから,いじめ自殺が起こったというわけではありません。

 道徳教育の研究を学校をあげて取り組んでも,いじめ自殺は防げなかった,というのが事実です。

 しかし,どのような道徳教育の研究を行ったかは,報道されないのでわかりません。

 「成果」として報告される内容だけを読んでも,どのような道徳教育が展開されたかはわかりません。

 少なくとも,いじめに関与した子どもがいる学級での道徳に関する指導の記録は分析対象になってよいでしょう。

 道徳教育は,そのやり方によっては,むしろ
 
 子どもの問題を深く見えにくいものにするだけではなく,

 学校にとって最も大切な教師と子どもとの信頼関係を深く傷つける原因にもなるということを知っておくべきなのです。

 ある精神科医は,道徳は教師が(大人が,あるいは社会が)子どもを信頼しないからこそ設置されているものであり,それが存在する時点ですでに教師と子どもとの信頼関係はくずれている,と指摘します。

 そもそも「規範意識の低下が深刻」だから,道徳教育を強化しろ,という声がおこり,

 「教科化」への流れになった側面があります。

 子どもは大人から信頼,信用されていないのです。

 極論ですが,本当に教師と子どもが深い信頼関係をもとにした強い絆で結ばれている学校というのは,

 両者の合意と信頼のもと,道徳の時間をむしろ適当にやってすませてきた経緯があったのかもしれません。

 子どもがいらっしゃる親御さんに問います。

 規範意識の低下は,家庭の教育力低下も原因になっています。

 では,「しつけの強化」を行政なり,学校なりが大合唱してお願いしたら,

 子どもは今よりよくなると思いますか?

 こういうときに,さらに社会全体で虐待が増えるのではないか,という不安を抱く方は,私たち教師と同じような感性の持ち主であることがわかります。

 子どもというのは,とてもおもしろい存在です。

 うまく人間としてバランスをとり,自分探しをしていることがわかります。

 ある中学生は,家庭では「よい子」を演じきっている。

 しかし,学校に来ると,問題行動ばかり起こしている。

 保護者は言います。

 家庭ではしっかりしつけているのに,うちの子が問題を起こすのは,教師の指導が悪いからだ!

 たった1人や2人の子どもしか育てていないからというわけではなく,

 人間がどんな存在であるのかということに思いが到らない人は,

 もしかしたら「間違った子ども時代」を過ごさせられてしまった人なのかもしれません。

 あるいは,薄っぺらな道徳教育を受け,「私は良い子だ」という自己暗示にひたっていただけなのかもしれない。

 思春期時代を無風・無傷で過ごしてきた子どもが,社会から簡単に脱落してしまう情けない大人になってしまったら,取り返しがつかないのです。

 おそらくほとんどの子どもは,「良いこと」と「悪いこと」の区別はわかっています。

 だから,演じることができるのです。

 「いじめ」がよいことと思ってしている子どもはいません。

 同調して一緒になって「いじめ」をするのは,「悪いこと」ですが,別の友達との関係を深める(とてもよい関係とは思えませんが)結果になったという点では「良いこと」なのです。

 「いじめ」は「良いこと」か「悪いことか」という話をしても意味はないのです。

 人間が「弱い」存在であることを自覚して,いかにして「強さ」を身につけていったらよいのかを考えるのが,これから求められる「道徳教育」なのです。

 そういうことがわかっている教師が「道徳教育」を担当してくれたら,子どもは救われるでしょう。

 しかし,教師はよく教師のことがわかっています。
 
 それとは180度趣旨の異なる「道徳教育」を「強化」しかねない。

 そうすると,子どもの状況はさらに悪化する。

 教師と子どもの信頼関係が希薄化したり,なくなったりする事態は何としても防がなければなりません。


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教育では何が語られるべきなのか

 教育を語っている人間をみるときに,重要な視点になるものは何か。

 それは,「この人は何のために教師になったのだろう」

 「教師になって,この人は何がしたかったのだろう」というものである。

 この視点で教員採用試験の面接をしてくれたら,

 「間違った採用」が激減するはずである。

 たとえば,なぜ音楽が学校の教科として採用されているのか。

 その理由を小学校の教師には説明できるようにしておいてほしい。

 音楽のすばらしさとは何なのか。

 感動するからいいのか。

 ただそれだけなら,親にCDを買ってもらえばよい。

 家で音楽が聴ければそれでよいではないか。

 音楽に興味がない子どもがいる。

 その子どもになぜ興味を抱かせることができないかがわからないような人間は,教師には向いていない。

 「私は国語を教えていますが,なぜ興味をもってくれないのか,わかりません」

 という教師がいたら,すぐにでもやめさせるべきである。

 「音楽に興味をもっていない人間がそもそもおかしい」

 といって逆に子どもを責めるような人間は,親になってはいけない。

  
 
 どんなに力がない教師にでも,子どもを集中させることができる場面がある。

 始業の挨拶のとき。

 全校での集会での挨拶。

 運動会での100m走などのスターター。

 合唱発表会での指揮。

 これで集中できない子どもはいない。

 
 子どもが集中して当たり前の状態で,その教師の力量は図れない。

 
 教師は教育のプロとしての技量を求められる存在である。

 
 子どもを前にした教師は権力者である。

 権力を欲する者は,ときとしてその使い途を誤る。

 子どもを言いなりにさせることに快感を覚えるようになる。

 その方法を教える本が小学校教師を対象としてたくさん出版されている。

 そこに,教師としての本当の「技量」が書かれていないことが深刻な憂慮のもとである。

 
 子どもを「操る手段」として教育を語ることはもってのほかである。

 「子どもを操る手段」で教師を操ろうとしている「言葉」が語られることは残念でならない。

 「相手が望むような返事をするな」(自分の意に反して)

 教育で語るべき言葉である。

  
 教師向けの本は,何が書かれているべきなのか。

 教育では,何が語られるべきなのか。

 
 なぜそれを教えるのか,なぜそれを学ぶのかという問いの答えである。

 完全正答など存在しない。

 問い続けることが,人間の使命である。


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アクティブラーニングが教育を劇的に劣化させる理由

 小学校における社会科の歴史の授業では,どんな内容を扱っているか,ご存じの方はどのくらいいらっしゃるだろう。

 今日は雑誌の編集者の方からご相談があったので,思っていることをそのままお伝えしたが,

 「形だけのもの」や「雑多な寄せ集めのもの」ではない内容重視の編集を基本にしている会社だったから,話がかみ合ってよかった。

 小学校6年生の子どもをおもちの方なら,すぐにわかることだと思われる。

 「織田信長はどういう人だった?」という質問に,小学校6年生はどんな答えを返してくれるだろう。

 事実だけを羅列してしまうようでは,全く意味がない。

 参考書に出ているような知識を注入しているだけの小学校があるかと思えば,

 いまだに「三段打ちのすごさ」などを教えたり,子どもに実演させたりして,

 「アクティブラーニングだ」なんていっている小学校もある。

 両極端ではあるが,共通点がある。

 何のために歴史上の人物の働きを考えさせるのかがわかっていないことである。

 えせアクティブラーニングの出現は,これまで以上に学力低下に拍車をかけることとなるだろう。

 学習の「ねらい」が何であるのかを子どもが「わかる」状態になるには,

 そもそも「学習」とは何なのかがわかっていないといけない。

 「それを学習とは言わない」と中学校教師が思うようなことが,

 「それこそが学習だ」と小学校教師は言い張る。

 アクティブラーニングの本質を理解しないで義務教育に導入すると,

 中学校は「小学校化」する。

 下手をすると,大学までもが「小学校化」することになる。

 大学教員の中には,もともと小学校の先生だった人が少なくない。

 実践の場をどこで過ごしたかが大事である。

 他校種の授業参観など何千回していても,学級担任をもっていなければ何もわかるまい。

 学校教育が劇的に劣化する原因になる改革への歯止めは何によって可能か。

 アクティブラーニングの「方法」を紹介した本など,もう必要ない。

 「方法」だけを頼りにする,「内容」知らずの教員が増殖するのを食い止める手立ては何か。

 最後の砦は教員採用試験なのだが・・・・。
 

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にわか仕込みの知識からは知恵は感じられない

 学習意欲が高いことは悪いことではないが,

 にわか仕込みの知識を活用するレベルまで達してない人が,新しく知りかけたことをひけらかすような授業をすると,結局自分が「不勉強だった」ことを思い知らされ,恥をかく。

 自分なりに消化しきれているかどうかを自分だけで知ることは難しい。

 これが通信制の教育の最大の欠点である。

 ある課題について多面的・多角的に考察しようとするとき,

 自分なりにA,B,Cの面から考えることはできても,

 D,E,Fの面から考えた方がより実際的であったことに気づくのは難しい。

 それは,授業の中で複数の優れた考察が発表されないとわからないのである。

 鵜呑みですませるつもりなら問題ないが,

 他人の実践に抽象的なケチをつけるのではなく,

 せっかく新しく得た知見を通して自分の実践を見直して,

 なぜ~より~がよいのかを説得力のある根拠をもって語れるようにならないと,

 お話にならない。

 ある研究会で目にした授業をそのまま再現しても,うまくいかないのはなぜか。

 そのおもな理由を3つ,学習指導要領の総則に示されている内容をもとにして説明しなさい。

 採用試験の問題として,いかがでしょう。

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個性のない新入社員たち

 ある商社の顧問が,社員の同質化を嘆いているが,
 
 教育現場でも「顔のない教育実習生たち」が増えていることを危惧していることをお伝えしておきたい。

 教育現場の「顔なし」の正体は何なのか。

 「ただの優等生」が増えているのである。

 「ただの優等生」とは何かをお伝えするのは難しい。

 「去年も,一昨年も,似たような人がやってきたな」という気がするのは,

 実習生たちがあまりにも「従順」だからだろうか。

 免許更新講習で学びに来る先生たちにも同じようなことが言える。

 「こんな話,去年もしたばかりだ・・・」

 人が違っていても,何も変わらないような気がする一年。

 真面目さは感じられるが,

 「意気込み」が感じられない。

 こちら側の反省としては,

 課題を難しくすると何も準備できなくなるため,

 ハードルを下げているのも原因かもしれません。

 実習生だけでなく,子どものためを思って

 リスクを避ける傾向が出てきているのかもしれない。

 「ああ,こういう先生,うちの学校にほしいな」

 と心から感じられる人材を3週間でつくるのは困難かもしれませんが,

 そこまで信頼できるようになるように育ているという意気込みが減ってきてしまったのか。

 反省しなければなりません。


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「ゆう活」は教員の勤務実態を実感してもらうよいチャンス

 国家公務員の人たちに,教員の場合は午前7時30分に通勤することなど当たり前のことだということを知ってもらうチャンスになる。

 帰りも定時で帰宅する人よりも教員はずっと遅い。

 教員の場合,生徒より遅く来る人も少なくはないが,

 教頭(副校長)は7時出勤くらいが普通だろう。

 管理職は「超朝型」の生活を送っている。

 夜早く帰れるわけではないところがかなしい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より