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総合的な学習の時間がアクティブ・ラーニングになっていない学校には何も期待できない

 アクティブ・ラーニングという「新語」の意味は,小中学校の教師なら理解できないわけがない。

 なぜならそれを進めることになっているのが「総合的な学習の時間」だからである。

 もちろん高校でも実施されているだろうが,大学入試には関係ないから,「総合的な学習の時間」を真面目にやらなければならないのは,研究指定を受けている高校くらいかもしれない。

 さて,アクティブ・ラーニングの大切さをわかっている教師がいるとしても,

 実践できるか

 という課題と,

 保護者や生徒に歓迎されるか,

 という課題が残される。

 さらに言えば,期待された能力や態度が身に付くかという課題である。

 『小学4年生の世界平和』(角川書店)で紹介されているアメリカの教師の実践をご存じの方も多いだろう。

 少し長い引用になるが,総合的な学習の時間やアクティブ・ラーニングは,決して大人数のクラスではできないことや,その準備には相当の時間がかかること,教師の卓越した指導力が必要であること,そしてそれ以上に,教師の「忍耐強さ」が求められることがよくわかると思われる。

 教師は,パブロという子どもに,首相の大役を任せた。

 しかし,子どもたちからは,

>ああ,ハンター先生,なんてことをしてくれたんですか?

 という「頭の中の言葉」が聞こえてくるようだったという。

>通常ワールド・ピース・ゲームは八週間ほどかけて行うが,五週目になってもパブロは後れを取っていた。部下の閣僚たちもしびれを切らしていた。ほかの国の首脳たちもうまく対応するしかないとあきらめ半分だった。生徒たちは優しいから何も言わなかったが,私にはみんなが心配していることがわかった。このゲームは全員が力を合わせなければならない。誰がひとりでもやるべきことをやっていないと,全体がぽしゃってしまう。しかも首相がやるべきことをできていないとしたら・・・これにはちょっとばかりイライラせずにはいられないとでも言っておこう。

 そして,六週目に,「その日」がやって来た。

>その時私の目の前には,何週間ももたついた末に,ついに「わかってしまった」生徒がいた。複雑な問題の実に多様性に富んださまざまな部分が一気に収斂し,明快な驚くべきひとつの全体になるのを見抜いた,そんな生徒がそこにいた。ついに本当の自分の力に気づこうとしている生徒がいたのだ。

 パブロは,何週間もの混沌と困惑の末に,ゲームを勝利へと導く準備を終えていた。

>ハンター先生,ボクには全部見えています!

 教育者としての醍醐味を著者が味わっている様子がよく伝わってくる。

>もちろん「理解」の瞬間は,実際は何週間か前から集まりつつあった。時には暗く絶望的に見えていたが,ついにあのまばゆい稲妻の一撃が沈鬱を切り裂いた。ゲームの最後にパブロが自分の考えたことを順序立てて説明すると,そこには突然の飛躍ではなく,着実で,徐々に積み上がっていく発展の過程があって,最後に跳躍を生んだことがわかった。

>問題に向き合ったその瞬間に,完全な形の答えが浮かんでくることなどほとんどない。しかし私は教師として,時としてそのことを忘れてしまう。そんな場合,私はしびれを切らし,生徒たちにほんの少し時間を与えれば答がわかるはずだと思ってしまう。より素早い解決を求め,すぐ次へと進みたくなる自分の内なる欲望と,私はしょっちゅう格闘している。

 教師に大切なものは「待つ」ことである。

>自分なりの洞察を得られるように,彼には彼なりに混迷する時間を与えてやる必要があった。

>常に,混迷に秘められた価値を忘れまいと意識しなければならない。ある方法から別の方法へ,じっくりたっぷりと試してみる時間を与えられた子供は・・・ひとつ試すたびにいっそう混乱し困惑するかもしれないが・・・決して時間を無駄にしているのではなく,必ずしも教師の手助けも必要としない。

>パブロのように,取り組んでいる問題の本質に迫る材料を集めているだけかもしれないし,問題の内なる力学に関する洞察を得つつあるのかもしれないのだ。そうした混乱を正してやろうとするのではなく,ただ単純にそうさせてやることも教師の技量のひとつだ。

 この続きは,「読書編」でご紹介します。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「楽毅」第二巻より