ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月

ムダなことをするゆとりが教員には必要

 一見,ムダなことをしているようでも,とても大事な意味をもってくることがある。

 そんな経験をしている教師は多いはないでしょうか。

 最近は,いかにムダを省くかということにエネルギーが注ぎ込まれ,

 ムダがないのにムダを省こうとするというムダな時間も使われるようになっています。

 国立大学をめぐる議論もそれに近いでしょう。

 残す気がないならばっさりと斬った方が時間のムダが省けます。

 斬れないのであれば,余計な作文を書かせるのは時間のムダです。

 そう考えると行政の仕事というのはムダの塊みたいなもので,

 ムダではなかったことを説明することの方が難しい。

 私が指導主事時代につくった「Q&A」のうち,全く利用されずに終わったものも少なくありません。

 しかし,このムダこそが,今の力になっている,という考え方もできなくはないわけで,

 冒頭の話に戻ります。

 授業の中での無駄話。

 これが意外とムダではなかったりする。

 廊下での無駄話。

 これがないと大きな判断ミスを犯す原因になったということも。

 無駄な読書。

 実は,目的もなく読んでいる本の中から,仕事の参考になるヒントが得られることもある。

 ムダを大切にしようというムーブメントを起こすために,だれか本を書いてくれませんか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教員を元気にするムダもある

 日経ビジネスの6月29日号のテーマは『全業種対応 今どきカイゼン100』。

 学校現場に取り入れることができるカイゼンを探してみました。

 私が2校目の中学校に勤務しているとき,総合的な学習の時間の移行期間に何をどのように進め,平成14年度からの完全実施にどう備えるか,その検討をした場所は職員室でした。

 小規模化が進む公立学校の場合,職員室には,教員の人数分の机があるのですが,クラス数が減って教員の数が減ると,机も撤去してしまうことが多いでしょう。
 
 しかし私が勤務していた学校では,その机を集めて,4人程度がいつでも職員室内で会議ができるスペースをつくっていました。

 そのスペースで生まれたのが,現在になっても受け継がれている,学校独自の特色がある総合の時間でした。

 もちろん,学年会や分掌部会を開くこともできます。

 わざわざ会議室に移動しなくても,少人数の会議を短い時間でできるようになった学校の変化はめざましいものがありました。

 フリーアドレスでも座席は減らさない・・・・もちろん,「荷物置き場」になるなどは,もっての他です。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

30年以上前の指導観から先に進めない人

 中高でアクティブ・ラーニングに日常的に取り組んでいる教師は多くはないだろう。

 ましてや試験の直前まで,自主的に課題を解決させるような授業ができる学校は少ない。

 先日,ある学校で教育実習を終えたばかりの大学4年生と話をする機会があったのだが,

 実習校は私立だったので,「解説型」授業でよかったようだ。

 これほど楽な教育実習はない。

 公立の教育現場では,観点別学習状況の評価によって評価・評定を出すようになってから,

 「解説型」授業ではすまされなくなった。

 だから「講演会」と「授業」を同列に見なすような授業観は,少なくとも20年前には姿を消している。

 「講演会」とは真逆の極端なタイプが『学び合い』である。

 『学び合い』が大嫌いで,『講演型』授業に魅力を感じるタイプは,10年以内にみんな退職し終わる時期を迎えている。

 プレゼンソフトや電子教科書が使える環境が広がり,

 『講演型』授業はだれでもできるような時代になった。

 しかし,そんな授業では十分な力がつかないことは,歴史が証明してしまっている。

 その最もわかりやすい例が,実は退職間際の教師たちだというのは哀しい皮肉である。

 なぜ生徒の「理解」が深まらないのか,という問いへの答えが出てこない。

 「選択式のテスト問題」ではだめなんだ,という危機意識が希薄である。

 生徒が自ら課題を設定することが苦手なのはなぜか,という理由が説明できない。

 すべて自分にもあてはまってしまっていることだからである。


 教育ブログの世界はすばらしい。

 具体的なサンプルが日常的に公開されることは,ある意味,非常に貴重である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

思考が浅いと詐欺に引っかかる

 人生経験の浅い人間には,よい教師が必要だ。

 人をだまそうとする人間は,まず相手を信用させるという手段をとってくる可能性がある,

 という「知識」をもっているべきである。

 感動を与えてくれる人間は,すべてよい人とは限らない。

 本当に恐ろしい悪魔は,天使の姿をしてやって来る。

 「天使」と「悪魔」,善人と悪人といった100点と0点のような両極端な存在しか想定できない思考の浅い人間には,「世の中は単純ではない」ことを自ら噛みしめるための「失敗」が欠かせない。 


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

知恵袋で答えを求める生徒の話

 ある生徒が,授業での課題の答えを「知恵袋」で得ようとした人がいる,という報告をしてくれた。

 確かめてみると,適切な答えは得られないでいるようだが,

 私が提示した課題であった。

 授業づくりをするとき,どんな工夫をしていますか?

 という質問をされたとき,かつて

 「知恵袋」には答えが載っていないものにする

 と答えたことがあった。

 まさか,自分の課題が載せられてしまうとは思わなかったが,

 逆に,適切な答えが寄せられてくるのかを見るのも楽しみになった。

 生徒の思考力を鍛えたいからそういう課題を出しているのだが,

 「答えが早く知りたくてしかたがない」という生徒の気持ちもわからないではない。

 テスト前に,直接,質問しにきてくれた生徒もいた。

 もちろん簡単に解説してあげている。

 「知恵袋」への書き込みが,もしも保護者のものであったとしたら,

 とても情けない気持ちになる。 


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

テストで評価できない教師たち

 大学入試ですら記述式がないテストではあんまりだと言われ始めている時代に,

 「客観性が大事だ」という理由だけで,選択問題オンリーのテストを行っていた教師がかつていたようだ。

 短い時間で採点が終わったと「自慢」している。

 要は,採点が面倒くさいだけではないか。

 「問題の適切性」についての分析はしっかりしていたのだろうか。

 選択問題は,何も考えずに選んでも,4択だったら25%の確率で正解となる。

 だから,「勘でたまたま当たったか」どうかは,

 「他の多くの生徒ができている問題を正解できているかどうか」などを指標にして判断することになる。

 合計点が何点であるかによって,正しい学力が測れないことは明らかである。


 正答率が70%の問題を間違えた場合と,

 正答率が30%の問題を間違えた場合とでは,意味が異なってくる。


 選択問題といえど,教師は自分の手でしっかりと○をつけていく過程で,

 「力がついているかどうか」を判断している。


 もちろん,誤答のパターン分析等は,エクセルなどを活用する方が便利だが,

 それなりに熟練した教師なら,解答用紙全体を見ればだいたいわかるものである。


 選択問題だけのテストなど,味気なくて話にならないことは,評価を真面目に考えている教師ならだれでも気づくだろうが,一方の「書くのが面倒くさい」と考えている生徒にとっては,「もってこい」のテストになる。


 せっかく生徒全員が全く同じ条件で教師の出す問いに答えることができる場で,

 生徒なりの言葉で表現させないテストなど,教育上,何の役にも立たない。

 こういう問題で教師から生徒に伝わるメッセージは,何だろうか。

 想像力のない人間に教師をする資格はない。

 
 学力向上を支えるのはテストである。

 業者プリントばかりを使っている小学校の教師には,このことがどうも理解できないようだ。

 
 私の場合は,記述式の問題の採点の基準を明確にするために,

 何人かの生徒の実際の解答をプリントにして配り,それぞれの良さや課題を具体的に示すことで説明責任を果たしている。

 より「望ましい」解答を書き直させて,そこに自分の考えがどのように変わったかをしっかりと記述させることで,

 ようやく「テスト」は終わりである。

 
 さらに,「テスト」で「次の資料から,クラスで討論するのにふさわしい課題をつくりなさい」という問題を出したら,

 実際の答えを課題として討論を行う。

 
 「テスト」は学習の始まりでもある。


 中学校の教師なら知らない人間は一人もいないはずだが,

 社会科の場合,

 関心・意欲・態度

 思考・判断・表現

 資料活用の技能・表現

 知識・理解

 の4つの観点に基づいて,評価を行い,それを総合して評定を決めている。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

女性教師が苦手な女子生徒の指導

 私は男性なので,言葉で実際に聞いているほどの苦手意識をお持ちなのかどうかわかりませんが,

 よく耳にするのが「女子の指導が苦手」という女性教員の声です。
  
 「お互いに腹の探り合いをしているような気がする」そうで,自然体で指導しにくいということ。

 原因究明に取り組んだ方もいらっしゃると思いますが,具体的な処方箋・対処法はあるのでしょうか。

 女子同士のいじめの方法として,「目で話す」「にやっとする」という表情合図タイプのものがあり,

 男性と違って表情だけで意思を伝達し合うことが女性は得意なのか,

 私が話をうかがう方も,表情に感情がわりとストレートに出てしまうタイプなのを自覚されているようで,

 「本当にやりにくいときがあるんだな」と思ってしまいます。

 もうすでにここまでの時点で,「性差」が語れることの不愉快さを抱いている方もいらっしゃるでしょう。

 私は自分の体験の範囲で,「傾向」を述べているだけです,と申し上げても「下らぬ言い訳」ととられてしまうかもしれませんが,話をもちかけられるのは女性の先生からなので,とりあえずそちらに責任転嫁しておきましょう。

 中学校の女子は(もちろん経験の範囲内での話ですが)集団をつくり,強く結束を固め,「一揆」を起こす場合があります。

 「一揆」は同じ意見であることが重要で,「ちょっと感じが違う」だけで「村八分」にされたり,「社内左遷」みたいな境遇に置かれたりと,わりとわかりやすい「いじめ」が発生します。


 男子は暴力に走る傾向がありますが,女子は陰湿な無視,にらみ,笑み,こそこそ話でいじめの対象に精神的プレッシャーを与え続ける「粘り強さ」がある。


 もちろん全員ではなく,教師になるようなタイプは基本的に「優等生」でしょうから,いじめに荷担した過去はなくても,いじめの傍観者であった経験はあるのでしょう。


 元「優等生」女子には,現役「いじめ集団」のボス女子は「嫌悪」の対象になり,

 それが相手にはストレートに伝わってしまったりするから,指導がやりにくい。

 では「男性教師に任せる」のが良策かというと,それは自分の立場をさらに悪化させる原因になりかねないので,結局は直接対決しかないでしょう。

 私のおすすめは,言いたいことは言い合う,・・・もちろん,教師側には「奉仕者」としての心構えが必要ですが・・・一度「本当にダメだな」と思うくらい,どうにもならないところまで落ち込む。

 そこからスタートすれば,案外すんなりと先に進める場合もあるでしょう。

 危険を冒すことへのためらいがあるのでそれが生徒に伝わり,ぎくしゃくするのです。

 もうやるしかない。

 「苦手」とか,「得意」という分野,ジャンルをつくる癖をやめることが,
 
 教師の側の基本的スタンスであることも付け加えておきます。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

テストの採点に24時間

 2日間,テストの採点の最終チェックのために徹夜となりました。

 土日も採点していたのですが,2つの学年の400人分が終わらず,返却日の直前にやっと完了しました。

 どこかの教育委員会が,

 「残業をしないですむ」ようなしくみを作りたがっているようですが,

 それをしないですむためには選択問題だけとかマークシートを使うようなつまらない問題にせざるを得ません。

 結果として子どもの学力は向上せず,ますます公立学校が「しかたないから通わせられるところ」になってしまいます。

 学力向上のためには,テストが終わった後も大事であることは言うまでもなく,

 今週末は自主課題のチェックに追われることになります。

 今回のテストでは,中1と中3が同じ問題に取り組むという箇所があり,3年間で培った力を中学校入学間もない中1と比較されるというちょっと残酷な面もありますが,今度は2年後のテストがまた楽しみになってきます。

 「戦争のない世界をつくるためには何が必要か?」を8つの面から考える問題で,

 テスト中には2つ答えればよく,テスト後に別のプリントで残りの思い浮かべられるものをすべて書いて提出,という手続きになっています。

 中3になると,現実的な課題を想定してしまうためか,記述がためらいがちになり,楽しく読めるのは中1の作品です。

 生徒が挙げてくれた方策を実現するためにはどうしたらよいか,という課題意識をもちながら,通常の地理,歴史,公民の学習を進めていく予定です。
 
 中3には,「国連が世界を変える60の方法」(国連広報センター)という資料を配布してあるのがハンディキャップですが,知識を十分に活用できるかどうかは,個人差があるでしょう。

 ある生徒にはこう言われました。

 「戦争をなくしていいんですか?」

 今回のテストには,「~が戦争をやめられない理由」という副題がついた本のイラストを活用していました。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

総合的な学習の時間がアクティブ・ラーニングになっていない学校には何も期待できない

 アクティブ・ラーニングという「新語」の意味は,小中学校の教師なら理解できないわけがない。

 なぜならそれを進めることになっているのが「総合的な学習の時間」だからである。

 もちろん高校でも実施されているだろうが,大学入試には関係ないから,「総合的な学習の時間」を真面目にやらなければならないのは,研究指定を受けている高校くらいかもしれない。

 さて,アクティブ・ラーニングの大切さをわかっている教師がいるとしても,

 実践できるか

 という課題と,

 保護者や生徒に歓迎されるか,

 という課題が残される。

 さらに言えば,期待された能力や態度が身に付くかという課題である。

 『小学4年生の世界平和』(角川書店)で紹介されているアメリカの教師の実践をご存じの方も多いだろう。

 少し長い引用になるが,総合的な学習の時間やアクティブ・ラーニングは,決して大人数のクラスではできないことや,その準備には相当の時間がかかること,教師の卓越した指導力が必要であること,そしてそれ以上に,教師の「忍耐強さ」が求められることがよくわかると思われる。

 教師は,パブロという子どもに,首相の大役を任せた。

 しかし,子どもたちからは,

>ああ,ハンター先生,なんてことをしてくれたんですか?

 という「頭の中の言葉」が聞こえてくるようだったという。

>通常ワールド・ピース・ゲームは八週間ほどかけて行うが,五週目になってもパブロは後れを取っていた。部下の閣僚たちもしびれを切らしていた。ほかの国の首脳たちもうまく対応するしかないとあきらめ半分だった。生徒たちは優しいから何も言わなかったが,私にはみんなが心配していることがわかった。このゲームは全員が力を合わせなければならない。誰がひとりでもやるべきことをやっていないと,全体がぽしゃってしまう。しかも首相がやるべきことをできていないとしたら・・・これにはちょっとばかりイライラせずにはいられないとでも言っておこう。

 そして,六週目に,「その日」がやって来た。

>その時私の目の前には,何週間ももたついた末に,ついに「わかってしまった」生徒がいた。複雑な問題の実に多様性に富んださまざまな部分が一気に収斂し,明快な驚くべきひとつの全体になるのを見抜いた,そんな生徒がそこにいた。ついに本当の自分の力に気づこうとしている生徒がいたのだ。

 パブロは,何週間もの混沌と困惑の末に,ゲームを勝利へと導く準備を終えていた。

>ハンター先生,ボクには全部見えています!

 教育者としての醍醐味を著者が味わっている様子がよく伝わってくる。

>もちろん「理解」の瞬間は,実際は何週間か前から集まりつつあった。時には暗く絶望的に見えていたが,ついにあのまばゆい稲妻の一撃が沈鬱を切り裂いた。ゲームの最後にパブロが自分の考えたことを順序立てて説明すると,そこには突然の飛躍ではなく,着実で,徐々に積み上がっていく発展の過程があって,最後に跳躍を生んだことがわかった。

>問題に向き合ったその瞬間に,完全な形の答えが浮かんでくることなどほとんどない。しかし私は教師として,時としてそのことを忘れてしまう。そんな場合,私はしびれを切らし,生徒たちにほんの少し時間を与えれば答がわかるはずだと思ってしまう。より素早い解決を求め,すぐ次へと進みたくなる自分の内なる欲望と,私はしょっちゅう格闘している。

 教師に大切なものは「待つ」ことである。

>自分なりの洞察を得られるように,彼には彼なりに混迷する時間を与えてやる必要があった。

>常に,混迷に秘められた価値を忘れまいと意識しなければならない。ある方法から別の方法へ,じっくりたっぷりと試してみる時間を与えられた子供は・・・ひとつ試すたびにいっそう混乱し困惑するかもしれないが・・・決して時間を無駄にしているのではなく,必ずしも教師の手助けも必要としない。

>パブロのように,取り組んでいる問題の本質に迫る材料を集めているだけかもしれないし,問題の内なる力学に関する洞察を得つつあるのかもしれないのだ。そうした混乱を正してやろうとするのではなく,ただ単純にそうさせてやることも教師の技量のひとつだ。

 この続きは,「読書編」でご紹介します。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

読者に気に入られたいから・・・子どもに好かれたいから,感動させたい?

 50分の授業で起こったことを文字で起こそうとすると,3時間以上はかかる。

 だから,6時間授業があった日は,それを行うとまる1日の作業となる。

 こういうことは,時間のある大学の先生とか大学院生しかできない。

 40人の生徒が書いた内容をすべて打ち込み,それまでの思考の過程も含めて整理して分析すると,さらにその倍の時間がかかる。

 授業研究とは,それくらいきついものである。

 ブログで教育実践を紹介している人がいるが,

 書いているものを読めば読むほど,その人がどういうタイプの人かがよくわかる。

 実際の指導を具体的に書く場合,その内容を知って関係者が読むと,「いいことしか書いていない」ことがばれてしまう。

 「書けないこと」が山ほどあるのが教育現場である。

 気づいていないから「書けない」ものもあり,プライバシーにかかわるから

 「書けない」ものもある。

 こうした「書けないこと」が山ほど起こるのも,教育現場である。

 いつも実践のことを書いていると,書く量や頻度が減っていると,

 「書けないことが頻発している事態が起こっている」などという勘繰りを招きかねない。

 
 「いいことをしたつもり」で,自分の指導を具体的に書いてしまっている愚かな人もいる。

 裸の王様が最後に味わう屈辱は,私には想像できない。

 自業自得と笑えるゆとりはない。

 

 教師の中には,「受け身の人間」ばかりをつくるのが好きな人がいる。

 それなのに,「指示待ち人間が増えている」と嘆いている。

 自分がまいた種であることに気づけない。

 こういう「勘違い」に敏感であるためには,常に冷静に状況を観察することが大切である。

 

 子どもを感動させるのが大好きな人がいる。

 子どもに感動を与えることが好きだと,口先だけで言うのは簡単である。

 たとえば全国大会で最優秀賞をとり,感動を味わうことができるためには,何が必要か。

 映画や音楽を聴いて感動するのは,家でもできる。

 金を払えば,それを仕事にしている人から「与えらえる」。

 教育はそれではダメなのである。

 感動が大切だなどと公言するタイプの教師は,実は自分がそのことに酔うことが目的だったりする。

 
 まさか,「子どもに気に入られたいから感動させる」などと書ける教師はいないだろうが・・・。

 そう。教師なら書けない。

 エゴの塊のような人間に,教育公務員である資格はない。


 「本心」が見透かされてしまっている教師は,子どもの近くにいない方が,子どもは本当の感動を手にできる。


 受け身の人間ばかりをつくる「原動力」は,

 教師による子どもに対する「評価」である。

 逆を行うだけで,教育のあり方は一変する。

 ただ,それに耐え得る教師があまりにも少ない。

 教師が教育を語れない理由がそこにある。


*この記事は,2012年12月24日『受け身の人間ばかりをつくる教師が語る決まり事』を加筆し修正したものです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

再々掲 「感動させる」ことを目的にしたとき,「音楽」の「魂」は消える

 太平洋戦争時,戦局が悪化すると,

 最後の頼みの綱は,「魂」のみとなった。

 人間も,物資も,すべてが欠乏していた。

 技術も,すでに追い抜かれていた。

 「玉砕戦」で亡くなった方々の魂を

 慰めるために,私たちがしなければならない

 ことは何か。

 野球でも,「魂を込めて投げろ」なんていう

 「精神論」は,過去のものとなった。

 音楽の世界では,最悪の時代の

 「亡霊」が,まださまよい歩いているようである。

 「音楽家」は,人を「感動させる」のが仕事だろうか。

 そんな「必死さ」が伝わってきたら,それこそ「興ざめ」である。

 「音楽家」が「音楽」に酔っている場面を見て,

 「興ざめ」になる人はどのくらいいるだろうか。

 私はそれで「興ざめ」はしない。

 いい演奏をして,自分で満足をしている姿を見て,

 「すばらしいです」と讃えたい気持ちになる。

 私には,人を感動させようと必死になっている中学生の姿は,

 想像しにくい。

 自分なりに満足がいくことをやる,それだけで精一杯でも,

 よいのではないか。

 「聴衆を感動させる演奏を心がけなさい」という指導は,

 音楽の人間なら一般的なのだろうか。

 私はここに,小学校の教師の醜い典型を見る。


 「参観者を子どもの発言で感動させることが,よい教師と子どもの姿である」・・・

 こういう盲信を抱いている大会参加者が多い場に出ると,

 本当に辟易とさせられる。

 名人とやらの「道具」にさせられている子どもたちが気の毒でならない。


*****************

 何度繰り返し読んでも,考えは変わらない。

 「感動してしまう」ような話なら,かまわない。
 
 「感動させられる」子どもたちは気の毒である。

 
 気の毒な授業を参観したことがある。

 教師が教材に感動して泣いていた。

 子どもはきょとんとしていた。

 子どもたちには,教材の良さは伝わらなかった。

 しかし,教師の人間性には感じるものがあったかもしれない。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教師は子どもに育てられる

 指導主事は,教師に育てられる。

 教師は,子どもに育てられる。

 子どもは「見た目」だけではわからない。

 「見取り」などという偉そうな言い方を教師はするが,

 子どもは生きている。

 そして自己形成のために常に揺れ動いている。

 「この辺だろう」という読みも,あっけなくはずれることが多い。

 がっかりする。傷つく。残念がる。

 そういう教師を姿を見て,子どもは教師との距離をせばめていくとともに,

 心の揺れもコントロールできるようになっていく。

 子どもが期待に応えてくれるから,教師はやりがいをもてるのではない。

 子どもが期待に応えてくれないことが,教師としての仕事のやりがいを高めてくれるのである。

 こうすればうまくいく,などという簡単な仕事が教育だったら,

 世の中のすべての親の苦労もなくなるだろう。

 仕事を甘く見てはならない。

 何よりも,教育という仕事を。

 子どもという存在を。

 人間というものの存在を。

 問い続けている教師だけが,子どものおかげで成長できる。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

使える国立大学・使えない国立大学

 権力をもっている人間には,自分が動かそうとしている人や組織を

 「従ってくれる」か「従ってくれないか」だけで判断するようになってしまう癖があるらしい。

 ある代議士は,~法案を理解してくれたから,別の~法案にも賛成してくれると思った・・・・・

 という発言をしているが,これはつまり権力の側として「使える人間だ」と誤解してしまったという意味である。

 教育の世界でも,同じようなことが起こっている。

 「使える学校」とは,どんな研究指定でもハイハイと素直に引き受けてくれるところ。

 「適切な判断を」と教育委員会に言われたら,教育委員会の言うとおりに動く学校。

 「使える人間」が,本当に意義のある仕事をしているかどうか。

 やがて,権力が「使える国立大学」と捉えているところから人材は去っていくだろう。

 「人件費を削る」というねらいを実現させる手段としては,有効的かもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

トップはだれに育てられるか

 校長や指導主事は教師たちに育てられる。

 そういう実感を持っている人がトップにいる組織は強い。

 一方で,自分はトップなのだから,部下が言うことを聞くのは当たり前だ,という程度の認識しかないただの公務員がトップにいる組織は気の毒である。

 国のトップや国の教育のトップは,自分たちの権威を自ら下げようと躍起になっているように見える。

 国立大学がそのへんの公立小学校と同じレベルに見えてきた。

 ある地方の国立大学にたまたま学会で訪れたら,とんでもない老朽施設だった。

 ある国立大学が科研費をとって研究している大学院生の指導案を見て愕然とした。

 教育実習だったら「不可」をつけざるを得ない代物だった。

 こういう場所には人材は集まらないだろうから,見捨てられるときの口実をせっせと生産しているようにみえる。
 
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

安倍内閣の支持率を急上昇させる方法

 自民党の人たちも皆さんわかっていらっしゃることでしょうが,

 もし現政権が支持率を上げることが第一だということになると,

 簡単に実現できる方法がありますね。

 国民の声,憲法学者の声,少数派の声を「尊重する」ことプラス,

 法案の見直しを行えばよいわけです。

 しかし,一見すると,支持率は下がったとしても,

 法案を通すことが最優先だと考えているように見えます。

 「数で押し通す」という方法が,短期的には「悪い選択肢」だとしても,

 法案を通すことは,将来のための第一歩であって,

 長期的な戦略のための「一部分」に過ぎないのかもしれません。

 もちろん憲法改正などは「通過点」の一つなのでしょう。

 戦争は,人間の生命を無残に奪っていきますが,

 安全なところにいる人間には経済成長や技術革新という恩恵だけが降ってくる。

 「その先」もなにも,あるべきなのは終わることのない経済成長だ,

 というスタンスでいれば,「戦争」に手を染めないわけにはいかないのかもしれない,

 というのが中学生が到達できる社会認識です。

 与党と野党,どちらが近視眼的なのかは,何を見ようとするかによって複雑に変わってきます。

 将来への展望がきく人は,今の安倍政権の動きをどのように見ているのでしょう。

 戦後70年談話の日も刻々と近づいており,政治からはしばらく目が離せません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

国立大学はすべて文部科学省の附属学校になった

 国立大学の学長の「上」が,文部科学大臣になっているらしい。

 だから国旗国歌の要請など,当たり前のように来る。

 かつての国立大学は天国だったかもしれないが,今や下界に降りた。

 チェックが入り,要請されたら断る理由がない。

 「困惑」してもしょうがない。

 業界用語で,「要請」とは「命令」のことである。

 今や,高校で言えば,教員経験のない事務長がいきなり校長になってもおかしくない時代である。

 お金のことだけを考える経営者が求められている。

 国が「お荷物」を捨て始めようとしているのは見え見えである。

 民主党政権になったときも教育にはほとんど変わらなかったから,

 もはや「公教育」に期待できる時代は終わったということである。

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

自分自身は社会科の歴史で何を学んできたのか?

 戦後の歴史教育の歴史を「学校で何を重点的に学んだか」という問いを柱に聞き取り調査して,各世代ごとの特徴を知るような遊びをしてみたい。

 教科書をそのまま読むような薄っぺらな学習では,おそらくほとんど記憶に残っていないだろう。

 「ほとんど何も残っていない」にしても,「何かの役に立っている」感覚があれば,まだ救いはある。

 教育実習のために社会科教育法などの勉強にとりかかって,

 授業を行うには,「指導案」を書くことが求められることを初めて知る者も多い。

 というのは,自分が受けてきた授業には,解説をするための「指導書」が教師には必要なんだなということはわかっても,「指導案」なるものが必要だとは感じられなかった経験をしている学生が多いからである。

 順番通りに教科書を読んで,大切そうなところに線を引き,くわしい解説を教師がする。

 少しやる気のある教師だと,黒板に丁寧にまとめてくれる。

 こんな授業でも成立しない学校があるのだから,「それ以上に何を求めるのか」と怒られてしまうかもしれないが,

 生徒が頭を使う歴史の授業は,授業をする教師の方も,受けている生徒の方も,お互いに充実感を覚えることができる時間であり,そういう授業をつくりたい,という気になってくれれば,話は早い。

 まずは,教科書がとても学習の役に立つものであることに気づく一方で,学習の邪魔になってしまうものでもある理由が実感をともなって理解できれば,「教材づくり」への意欲もわく。

 資料はたくさん集めることができるが,どの資料を最初に提示することが最も効果的かはいろんなシミュレーションをしてみる必要がある。

 さらに,その資料を見せて,何(発問)を投げかけるのか,あるいは,生徒の疑問の解明から学習を始めるのか,どちらの方が次の資料が生きるのか,などと考えていく。

 中世の歴史について,絵巻物を題材とした授業を受けたことがない生徒は気の毒である。

 中世が「宗教の時代」と呼ぶのにふさわしい資料は何か,思い浮かべられない教師はかなしい。

 現代の歴史について,国際連合と冷たい戦争の関係を考えていく上で,どのような資料が最も生徒の課題意識を高めることができるのか。

 どのような風刺絵は読み取りやすいのか。あるいは読み取りに知識を活用しなければならないのか。

 「引き出しが多い」教師がつくる定期考査の問題は,同じ範囲の内容が出題されていても,いつも新鮮な匂いがするものである。

 どのようなテスト問題が最も印象に残っているかを聞いてみてもよい。

 何をどこからどのように学ぼうとする姿勢が身に付いたのか。

 端的に,歴史で「何を」学んだのか。

 「国際連合」という組織を題材にして,過去に学んだ歴史の流れを総合的に表現できる中学生がもっともっと増えてよい。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

退屈なアクティブ・ラーニングの本と講演

 以前に参加したある学校の研究大会での講演があまりに「残念」だったので,直後に記事にした記憶があるが,あらためて記しておきたい。

 今後,アクティブ・ラーニングに関する研修の機会が増えていくことになるだろう。

 そこで講演する講師の評価をするための視点を提供しておきたい。

 これらは,教師が自らの授業をふり返るためのチェックリストにもなる。

○他人の言葉の寄せ集めになっていないか。

  文字ばっかりで見えもしないプレゼン画面を提示してくるセンセイがいる。

  授業でこれをやったら生徒の評価は最低ランクに位置付けられる。

○退屈しのぎのペアワークを強要しないか。

  いきなり隣の席の人と自己紹介をさせられたり,意見交換の時間をとられる場合がある。

  その必然性と効果が見えないで,ただ場つなぎというか退屈しのぎというか,

  重苦しい雰囲気をかわすためだけの時間になっていないか。

○そもそもアクティブ・ラーニングをしたことがない人間に伝わるものがあるか。

  絵に描いた餅をいくら提示されたところで,お腹はいっぱいにならない。

  食欲をそそる絵ならまだしも,興味が引かれない題材ばかり紹介していないか。

 
 「退屈な授業」と受け止められるのは,単に教師の話がつまらない授業とは限らない。

 「退屈なアクティブ・ラーニング」の話ほど,自虐的なものはない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

学校における「次の不祥事」「次の大事故」を防ぐために

 何か問題が発生すると,原因を特定するために調査を行う。

 この原因究明の過程で,実はもっと重大な問題が起こりかねないことに気づいてしまうことがある。

 このとき,「今の仕事の目的ではないから,気づかなかったことにする」のか,

 「今の仕事の目的は,このような問題が起こらないようにするためだから,きっちり気づいたことを報告する」のか,

 自分ならどちらが選択できるかと考えてみてほしい。

 実は,組織で仕事をしていると,後者よりも前者の方が都合がよいことに気づく場面がある。

 「組織」とは,仕事を効率的に行う集団としては優れた面があるが,

 「組織内の問題点を明らかにする」機能は十分にはたらきにくい。

 学校という職場では,この「組織」が生活指導部だったり,学年だったりする。

 もちろん,学校運営の観点からすれば,学校全体だったりもするし,教育委員会も含めての「組織」だったりもする。

 保護者の立場で見てみると,どこかで「組織内部を守る」ための壁があることを感じざるを得ない。

 本当の意味で「開かれた学校」にするためには,暇をもてあましている校長が学校だよりをしたり,PTAの接待をしたりしている場合ではないはずである。

 何が問題になり得るか,できれば議員がそれなりの役割を果たしていただきたい。

 少なくとも,学校を子どもが安全・安心に暮らせる場にするための,耐震工事の徹底など,できることはいくつでも見つかるはずである。

 学校内部で今,最も求められているのは「リスクをコントロールする技法」に関する知識を習得できる研修ではないか。

 「いじめ防止」「セクハラ防止」などせまいテーマの個別的な対処法ではなく。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

小学生をバカにするのはやめよう~「小学生以下」という侮辱語

 教師が批判されることに対しては敏感に反応する一方で,

 子どもの学力問題に対しては何の配慮もできないというのが「ダメな教師」の典型である。

 「小学生以下」という侮辱語は,小学生をも侮辱していることを忘れてはならない。

 昔のドラマでは,「お前は女以下だ」「女の腐ったような人間だ」という台詞があった。

 今では考えられない侮辱の仕方である。もちろん,あからさまな女性蔑視が表現されているからである。

 「子どもだまし」という言葉があるが,子どもでも見抜けるような「見え透いたごまかし」をすることを薦める「教師用マニュアル」が小学校向けにたくさん出版されている。

 これも小学生をバカにする教師を増やす原因になっている。

 小学生だから,このレベルだ,この程度の作為で,どうにでもなる,などと決めつけている人たちに,読んでもらいたい私の過去の記事がある。

***************************

 教え方が「上手い・下手」以前に正しい情報・姿勢が必要(2012年3月9日)

 子どものことがよくわかっている教師と,わかっていない教師との間には,決定的な差があります。

 たとえば,あることがらについて強烈な拒否感をもっている子どもがいたとします。

 そこに,「指導技術ナンバーワン」の教師がやってきて,授業をする・・・・。

 どんな失敗が待ち受けているかは,ご想像にお任せします。


 中程度の経験をもつ教師の落とし穴は,「技術」によって子どもを動かそうと考えてしまうことです。

 まるで小学生を相手にしているような,露骨に「こうすればできる」ことを訴える本のタイトルが散見されますね。

 そういうのに飛びつく教師は小学生レベルなのです。

 一人一人の子どもを知れば知るほど,教師によっては身動きができなくなりますが,「ブレ」なく,一定の態度で接してさえいれば,無意味に子どもを刺激したり混乱させたりすることはなくなります。

 絶対にブレてはいけないのは,教師たちは自分たちをことを「知ろう」と思ってくれている,そう実感させることです。

 子どもを知ることが,授業をする上では大前提で,たとえば教育実習などで初めて子どもと接する大学生などにとっては,最初に指導教諭から与えられる情報が,「生命線」となる場合すらあります。

 授業を通して,子どもを知る。

 子どもの考え方を知る。

 子どもの理解度を知る。

 子どもの関心の方向性,傾向性を知る。

 子どもと子どもの関係性を知る。

 こういうことを「知ろうとする」態度,姿勢,意欲,言動が,子どもを変えていきます。

 ある子どもが「強烈な拒否感」を抱く事例の一つが,「言っていること,やっていることがコロコロ変わること」。

 しかも,それが,正しい情報を根拠とせずに,感情のまま,変化すること。

 こういう大人に育ててはいけません。

 この記事は,以下の本の一節をヒントに書きました。

******************

 中西輝政著『情報を読む技術』サンマーク出版

 「交渉や戦いの巧拙よりも,情報の有無が勝負を決める」

 ・・・ロシアの送り込んだフランスの記者が,日本でつかんだ情報を,ロシアに伝えていた。もしこの情報がなければ,乃木軍が苦戦することはなかったかも。

 ・・・イギリスから,「ロシア皇帝の気が変わった」という情報が入らなければ,「日本はもう戦えないから,どんな不利な条件でも合意せよ」といった当初の命令に従って,南樺太も得ることなく,小村寿太郎は帰国することになったかも。

******************
 
 ・・・・私の記事でも「小学生レベル」の部分は訂正する必要がありそうですね・・・。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

知識軽視がもたらす「失敗の山」~アクティブ・ラーニングの「次」が大事

 アクティブ・ラーニングによって,活用可能な良質の知識がたくさん身に付くようになれば,一挙両得である。
 
 そこで忘れてはならないのが,

>二兎を追う者は一兎をも得ず

 という失敗への教訓である。

 知識を軽視することによって起こっている社会問題を整理してみればわかる。

 知識があれば絶対にしないミスをしたために,個人情報流出とそれに伴う被害が拡大する。

 足りない知識は,危機管理についても同様である。

 入試問題づくりでミスが起こるのは,出題者とそれをチェックするメンバーの知識不足と,調べて確認するというチェック機能が働いていないためである。

 アクティブ・ラーニングは,「今の自分に何が不足しているか」を知ることを大きなねらいの一つとするべきだろう。
 
 這い回った議論になるのは,何か決定的な情報なり知識なりが欠如しているために起こる,というごくごく当たり前のことを教師が指摘できなければ,教育として成立しない。

 とても重要な課題がスルーされてしまい,どうでもよいことでああでもない,こうでもないと繰り返す時間の無駄をなくす努力を教師はするべきである。おめでたいことに,小学校ではそれを放置していても,薄っぺらい教科書が学び終えてしまうので力がついていないことに気づけないまま子どもが卒業していってしまう。

 中学校には,小学校における知識の軽視がここまで悲惨な学力の実態を引き起こすのかという「実験による検証の結果」を示す子どもたちが大勢いる。

 中学校で,「失敗の山」は噴火することがある。

 本当の「知識欲」に芽生えるという,よい意味のエネルギーの創出。

 もう一つは今までの「自己肯定感」の崩壊という悲劇。


 何も知らないふりをして,教師の話に耳を傾けたり,話し合う必要のない内容を楽しそうにわいわいやっていたりすることで,教師が満足することを知っている子どもたちは,

 ゆがんだ「社会性」だけを学ばされて中学校に進学してくる。

 こういう子どもたちも被害者である。


 学校には,たとえば地域の自治会に参加して,地域の諸問題を解決しようとするという,将来のための能力をつけるという使命も与えられているが,国際的な問題まで含めたもっと広い視野で,さまざまな角度から社会についての諸問題を考える力を身につけるためには,自分から進んで多くの知識にアクセスしようとする態度を身につけさせなければならない。

 アクティブ・ラーニングを推進する上で重要なのは,より汎用性の高い諸能力を身につけていくための教材選択であり,何よりも良質な知識を基盤した思考なり話し合いなりが行われることが欠かせないのだという自覚を育てようとする教師の意識である。

 だからアクティブ・ラーニングの「次」にどんな学習を展開するかが重要なのであり,教師の指導力とはそこで評価されるのである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

学校が失ってはならない大きな役割

 児童生徒が人とどのようなかかわり方ができるようになるかは,学校生活の中でどのような場を用意するかで決まってくる面があります。

 予定外ではあっても想定内であるのは突発的な「生活指導」の場面です。

 社会生活や会社での仕事がうまくいかないという人のうち,「学校ではよい生活ができていた」人はどのくらいの割合でいるのでしょう。

 私は生活面での経験不足,失敗のトラウマを抱えた人が,社会生活でもそれを引きずっている傾向があるのではないかと考えています。

 学習面にかなりの焦点があてられてしまっていて,高校などは大学進学実績で左右されるかのように見えていますが,受験のための学力は高校に通わなくても,「一人」でつけられてしまうという面が強い力です。

 むしろ焦点をあてるべきなのが,「学校でなければできない経験」「集団生活の中で自分なりの居場所だったり役割だったりを見いだせる経験」がしっかりできているかどうかではないか,と多くの教師も考えているのではないでしょうか。

 校種が上がるごとに,その意識が薄らいでいってしまうのが今の学校の現状のように思います。

 日比谷高校をはじめとした学校が,「かつての伝統校らしい姿」を失っているという「内部の声」を耳にしたことがあります。

 原因は,「生き生きとした学校生活を送りたい」と願う生徒たちへの教師の「無関心」にあるのではないでしょうか。

 「無責任」というのは少し違います。

 「関心」の向く先が,偏りすぎている・・・・・そもそもそういう「関心」しかなかった人,もてない人が,教師になっているのではないか,というのが私の心配事です。
 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

だれが言うかが重要

 生徒に指導のための言葉が入っていかない・・・・つまり指導が指導になっていない状況を,多かれ少なかれ,教師になると経験します。

 どうして生徒はこの先生の言葉なら耳を貸そうとするのか・・・その理由を知りたいけれど,直接聞くわけにもいかない・・・・そんな悩みを抱えているであろう方が,このブログを訪問されているようです。

 生活指導を試合にたとえるのは不謹慎かもしれませんが,教師としての自分と生徒とのやりとりを,試合のどのような場面と位置付けるでしょうか。

 長いペナントレースのうちの1試合の,初回の攻防ととるのか,

 1回で決まるじゃんけんのようなものととるのか。

 極端な例ですが,教師はたった1打席しかない場面で勝負をかける代打専門の選手ではありません。

 何度も何度も正面から向き合い続けなければなりません。

 中学校なら,3年間。

 ペナントレースの3倍以上です。

 生活指導に限らず,「だれが言うかが重要」という格言?があります。

 全く同じ言葉をかけるにしても,だれが言うかによって子どもの反応は全く違ったものになることがある。

 「こんな言葉をかけてみたら」というアドバイスを聞いて,使ってみるような状況では,

 子どもの鋭い目に見透かされて,ますます信用を失うことになるでしょう。

 「正しい言葉」でも,「だれが言うか」によって,意味や受け止められ方が,180度異なってしまう場合がある,それほど「人」の価値が高いのが,教育という世界です。

 単なる「言葉」ではありません。

 教育は「人」です。

 教師や政治家は,叩かれるのが専門の仕事であると肝に銘じておきたいものです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

何が分かりやすい授業が多いか?

 「分かりやすい授業の条件」を知りたい方に訪問していただきましたが,

 私がまず第一に言いたいことは,授業において,

 「何が」分かりやすいことが最も大切なのかを自問してほしいということです。


 授業参観していると,「何をしようとしているのが不明」であることが分かりやすい授業というのがあります。

 また,「教師が不勉強であること」が分かりやすい授業もあります。

 「子どもに何を言わせたいのか」が分かりやすい授業もあります。

 こういう授業が通用するのは,せいぜい小学校中学年くらいまででしょう。

 もちろん小学校高学年にもそのレベルの教師に「ついていく」よい子もたくさんいるでしょうが。

 今は,「子どもが何ができるようになるか」が分かりやすい授業が求められています。

 観点別学習状況の評価は,そういう授業づくりを考える上では参考にすべきです。

 ただし,小学校レベルでも,「子どもが何をどこまでできるようになったか」を40人ほどの集団を相手に1人の担任教師が把握するのはなかなか困難です。

 だからかなり昔から,子どもの自己評価能力を高め,自学自習の必要性に応じた家庭学習を促すことの意義が唱えられてきました。

 「分かりやすい授業」を言い換えると,子ども自身が「何をどこまでできるようになることが求められているかが分かりやすい授業」ということになります。

 そして,1時間でそれが完結するのは容易ではありません(容易ではないようなことをしないと意味がありません)し,1か月後にできなくなってしまうようでは意味がありません。

 だから「定期的な学力の診断」が必要なのです。

 小学校でもいくつかの単元をたばねた範囲から出題する「定期考査」を実施してみてはいかがでしょうか。

 これで中1プロブレムの一部が解消されるのと同時に,本来出現させておくべき小6プロブレム,小5プロブレム,小4プロブレムなどが起こってくるでしょう。

 そういう問題は,「知らせる側の負け」「知る側の勝ち」になったとしても,起こるべき問題です。

 学校教育には,常に負け戦をいさぎよく戦い続けることが責務であるという自覚が欠かせません。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

読む価値のある記事になっているかどうか

 ブログを書く目的は様々でしょう。ただ自分の考えを垂れ流しているだけのつもりの人もいれば,収入を増やしたいために宣伝している人,本当に読んでもらいたい人に向けて書いている人など。

 私の場合は,ココログの「リアルタイム足あと」でどのような検索語から訪問され,どの記事を読まれたのかをときどきチェックしています。

 今日の場合は,

>向いていない 教員

>たいみんぐ やめる 教師

>子どもに指導が伝わらない

>分かりやすい授業の条件

>心構え 教員

>休みがち担任

 などから訪問されています。

 読者の方には,教員を目指している人,教育に嫌気がさしている教員,頼りない担任に困っている保護者などが想定されますが,基本的にこのブログは,そういう人の不安を取り除くよりも,なぜダメなのかを納得してもらうことをねらいとして書いていますから,読者の方の満足度は高くはないでしょう。

 下手ななぐさめよりも,とにかく実態を受け入れてもらって,よりよい対処を目指した方がよいというのが基本的なスタンスです。

 まずはどこがどの程度「ダメ」なのかを自覚したり,しっかりと把握してもらうことが大切です。

 そして,あてにできない教育界に,「予備校に通う」という対症療法的な発想では何も変わらないことを政治家の方々にわかってもらうことが欠かせません。

 人を前にして,ダメなものはダメと言えるような文化の国ではない以上,こんな方法が次善の策ということになってしまっています。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「おもてなし」の科学的分析と授業改善

 東大とANAによる「おもてなし」の共同研究が始まるらしい。

 将来は,「マニュアル通り」の「おもてなし」が一般化するのだろうか。

 研究では,「おもてなし」の源泉が

>相手に対する「気付き」

 であると仮定して,客室乗務員の機内における行動やチームワークなどを研究して,

>「気付き」の能力習得プロセスや予測行動

 などをモデル化することを目指すそうだ。

 「おもてなし」の心は,型どおりに動くロボットのような人間からは伝わってこない。
 
 また,ロボットのような人間からは,「気付き」が得られにくい。

 「お互い様」の感覚が共有できるからこその「おもてなし」であると私は考えるので,

 一方的な「サービス」の技術の一環としての研究が進んでいきそうな雰囲気は,残念である。

 小さい頃に祖父母に面倒をみてもらった人が,高齢者に対する気付きができるなど,

 客室乗務員の生育歴なども研究の対象になるのだろうか。

 職業人としての適性は,子ども時代までさかのぼって考えるべきである,という研究成果は出てこないだろうが,特定の分野への「気付き」には敏感な人は,別の方面には全く鈍感であるといった

 個人差ではなく個人内格差は研究の過程で見えてくるかもしれない。

 同じタイプの客室乗務員を同じ便では働かせないという指針が得られる可能性もある。

 少し目先を変えるだけで,
 
 「おもてなし」の科学的分析は

 教員の指導力育成や授業改善にそのまま応用がきくように感じるが,

 先に書いたように,人間社会には「おもてなし」の前提として「お互い様」の気持ちが必要だと思うので,

 子どもに「先生,気付きの力が弱いですね」などと「評価」されてしまう教員が出てくるのは気の毒である。

 余談だがGoogle翻訳で「おもてなし」はホスピタリティと訳せていたが,

 「お互い様」の翻訳はなかった。

 「悪いのはそっちも同じだ」という用法での「お互い様」はあるようだが・・・。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「ブラック塾」と学校の未来

 朝日新聞デジタルに,厚生労働省が塾のブラックバイトに対して,違法な例を示し,改善を要請したというニュースが配信されている。

 私も塾でアルバイトをしていた経験があるが,授業開始の20分前に出勤するのは当たり前で,早く到着した時間に打ち合わせがあっても,給料が支払われる対象にはならないのは当たり前だと思っていた。

 勤務時間ぴったりに通勤する教員などほとんどいない。

 時給3000円で,だいたい1日3時間授業があるから,9000円手に入る。大学の授業に出て,夜に出勤することで,8時間コンビニやファミレスでバイトする以上の収入が得られる。

 こういうのが塾の仕事だと考えていたが,「ブラック」と言われるのだから,少し事情が違うのだろう。

 記事で紹介されている「違法例」を見て,最低賃金法以外は,普通の学校に通う教員たちも全く同じだろうと感じた人は多いだろう。

 ただ,教員は自ら進んでやっている,と言ってしまえばそれまでだし,

 「教育への使命感」を持ち出されると,勤務時間が終わるとささっと帰宅してしまう人の方が白い目で見られてしまうのが学校現場というところである。

 教員の仕事が長時間にわたって体力・精神力を要するものであることは,現場に立てばすぐにわかるものではあるが,「1分でも長く教えて,勉強ができるようにしたい」「1分でも長く指導して,部活動を強くしたい」という強い熱意が学校の原動力になっていることを知らない教員はいないので,「意欲的な教員」の足を引っ張ることはやりにくい。

 アルバイトの世界と単純に比較することは難しいのだが,仮に将来,教員を目指している大学生がブラック塾につとめているとしたらどうだろう。

 子どもがどこを苦手にしているのか,何ができないのか,何に興味をもちやすいのかを知る機会となる塾講師の仕事は,「お金を払ってでも」したい・・・・なんて学生は皆無だろうか。

 バイト先として,コンビニよりも塾の方が理想的だと単純に言うつもりはないが,経営者としては少しでも優秀でやる気のある学生には長く働いてもらうように配慮するだろうし,逆に「やめてもいい」と思う学生にはつまらない仕事を押しつけるかもしれない。

 塾では能力に応じた給料が得られるのに対して,学校ではほとんど一律,だれでも同じになる。

 両者にはメリット・デメリットがあり,法による規制がデメリットを抑えるのであれば,どちらかに統一すべきだと言うわけにもいかない。

 塾の経営も決して楽なものではないだろうことは,短期間,生徒集めに苦労していたところで働いたことがあるのでよくわかる。

 教員の大量退職がこれから続くが,昔の寺子屋のように,授業料のかわりに米とか野菜をもってくれば教えてもらえる,なんていう個人塾も出てくるかもしれない。あるいは,自治体が塾を経営するような時代も来るかもしれない。

 大学の削減によって,いつの間にか大学だったところが学習塾になってしまう時代が来るかもしれない。

 逆に,駅前にある予備校が,大学になったら,どれだけ便利なことか。

 余計な想像しかできないようになってしまった。

 厚生労働省の要請を受け入れた塾から廃業に追い込まれる,というシナリオは,

 文部科学省の方針を素直に聞いた国立大学から朽ち果てていくという未来と重なって見える。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

ピーターパン=衰退する「権力」がしがみつこうとする夢?

 日銀総裁が世界の中央銀行に向けて,「疑った瞬間に永遠に飛べなくなる」というピーターパンの言葉を引用し,ぶれることのない金融政策の実行を呼びかけたことがニュースになっていました。

 これにあきれたかのような反応ばかりと思いきや,そうでもない受け止め方もされているようです。

 あたらめてピーターパンの物語を読み返してみると,「冒険心を育てる」という作風が,いかにも時代の閉塞感を映し出しているような気がしたので,

>ピーターパン 帝国主義

 で検索してみると,

>『ピーターとウェンディ』における帝国主義とブルジョア・イデオロギーの崩壊(岩井 学)

 というタイトルの論文が見つかりました。

 衰亡する大英帝国とピーターパンが重なって見えたことが,

 余計に金融政策への不安を煽られてしまう結果となりました。

 「信じて疑わない」ことの逆効果を痛いほど知っている日本人にとって,

 ピーターパンのたとえは有効的だったのでしょうか。

 円安が続いています。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

教師は現場では死ねない

 週後半に体調を崩してしまい,38度近い熱と腹痛で苦しんだが,金曜日は教育実習生の最後の授業もあり,多少無理して出勤した。

 自分の授業も3時間あったのだが,話をしているうちに体調は回復してしまった。

 体調悪化を感じたのは,実習生の授業を参観していたときだけである。

 教師にとって良薬は生徒の前に立つことである・・・・なんて主張したら,

 「感染拡大の危機をもたらす元凶」などと非難されるだろう。

 授業になると元気になってしまうことを裏返しにすれば,

 授業がなければ床に伏せっていただけということになる。

 私などは,退職したらすぐにお迎えがくるタイプかもしれない。

 健康を回復するための明確な目的があるかないかは,人間の寿命をも左右するかもしれない。

 実は,金曜日には重要な仕事がいくつもあったほかに,生徒指導に関するこれまた重要な情報がいくつも入ってきた。

 休んでしまっていて,そのナマの情報が入っていなかったのと,出勤して知ることができたことの違いは,天と地ほどのひらきがある。

 学校に限らず,特にグローバル企業においては,「欠勤」が致命的なダメージになる場合があるだろう。

 もちろん私の学校でもいくらでもカバーしてくれる同僚がいるし,体力のある企業なら,急な欠勤への対応は可能だろう。

 しかし家内の職場では週初めから体調不良で3連休してしまった人のために,他の職員に多大な負担がかかり,休日出勤をさせられる事態に陥った。

 特に感染性の高い病気にかかった場合には,出勤してしまうことの方がリスクが高いが,欠勤によるダメージも決して少なくない。

 私のように「風邪などは学校に行けば治る」なんていう人は少数派かもしれないが,きっと体内から特殊な物質が分泌されてしまう体質なのだろう。

 負傷兵が無理して戦場に復帰して,何もなかったように体を動かせる,なんていう状態に近いのか。

 昨日の女子サッカーでは,澤選手が延長戦で足を痛めてしまい,相当の苦痛に顔を歪めていた。

 しかしピッチに戻るとそれまで通りに走り回り,決勝点のアシストを出した。

 選手にとって,まさに「最高の戦力」であり,「鏡」のような存在である。

 2日間,水分しかとれなかったために,健康診断前のよいダイエットにはなった。

 今は短期リバウンドを警戒するのみである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

『授業を磨く』ための本があまりに物足りないのはなぜか?

 今私の手元に,『知性を磨く』という本と,『授業を磨く』という本があります。

 前者は『知性』を感じるのに対して,後者には『内容がない』という印象しか残りません。

 『スキル』だけはある,という教育実習生をたまに見ますが,もちろんそれが悪いと言いたいわけではなく,

 もっと大事なものを身につけていこう,という思いを正面からぶつけようとしています。

 後者の本が非常に貧弱というか,教育界のレベルの低さを感じてしまうのは,前者に後者のような本の問題点がはっきりと指摘されているからかもしれません。

 後者の本を読んで,勉強した気になる人は,おそらく小学校の先生に多いと思います。
  
 中・高の先生は,30分くらいで読み終えてしまって,「だからどうしたというの」という印象を強くもつでしょう。

 これが,日本の初等教育のレベルと,中等教育のレベルの違いといってしまえばそれまでなのかもしれませんが。

 大学での教育はどうなのでしょう。

 少しだけ恐ろしいのが,今日,検討を依頼された大学院生の指導案です。

 大学院になると,大学4年の教育実習生よりも,指導案のレベルが一気に低下するのはなぜなのだろう・・・という疑問の答えは,実ははっきりしています。

 大学院には「指導案の書き方」が教えられる人がいないからでしょう。

 教職課程をもつ大学を,今の3分の1くらいに縮小すれば,相対的に学生の質も向上するはずです。

 市民感覚では当たり前の話ですが,一律に規模を縮小するのではなく,課題が多い(教育効果がほとんど見られない)ところからなくしていくのが一番です。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

最も「教育」が必要なのが「教員」であるということの哀しさ

 指導主事としてかかわった経験がある研修のうち,初任者研修,10年経験者研修というのは,基本的に「やるべきこと」が決まっているので内容的なおもしろみは欠けるものの,人としてのかかわりはそれなりに深くなるので「熱意」も傾けられます。

 それに対して,「かたちだけのために行われる」研修も少なくなく,うまく内容を調整しないと,管理職研修や教務主任研修,生活指導主任研修,道徳主任,進路指導主任などの研修は本当につまらないものになります。

 これだけたくさん研修を実施しても,なかなか力量が上がっていかない,かかった時間に見合う成果が出せない,積み残しの問題が増えてばかりいる,などという悩みはなくなりません。

 研修とは,むしろ「何が課題か」を明確に自覚するための時間だと考えれば,少しは気が楽になるかもしれません。

 犯罪行為に限らず,教員の起こす問題は多岐にわたっており,市民の方々からは

 「教員の教育をしっかりやれ!」というお叱りの声が多く寄せられます。

 私が勤務した2番目の学校では,校長先生がこの「教育」にそれなりに熱心でした。

 飲み屋に行けと,明らかに教員が管理職の愚痴を言っている場面に出くわすことがあります。

 親と同じような意味で,「ほっといてほしいのに・・・」というタイプの愚痴を言われる管理職はまだましかもしれません。

 年配の先生に対しても,叱責することができる管理職は貴重です。

 「教員への教育」ができている学校か,そうでない学校かは,以前から書いていますが,

 夕方の時間に電話をかけてみるとよくわかります。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

効率重視の社会への違和感

 日経の記事によると,アメリカでは成人の約7割がサプリメントなどの栄養補助食品を使っているそうだ。

 マルチビタミンからビタミンD,カルシウム,ビタミンC,食物繊維などなど。

 日経HPの映像記事『食と農』では,ブロッコリーの新芽を栽培している工場(静岡県焼津市)の様子を見ることができたが,「体によいもの」を生産者が効率よく生産し,消費者が効率よく体内に入れていく仕組みについて,

 どことなく「違和感」を覚えることができる人は,どのくらいいるのだろう。

 年代別に見るとどうなのだろう。

 テレビのコマーシャルでは,「一日分の野菜を食べるのはこれだけたいへん」という様子を示し,

 「たった3粒で・・・」という「楽な方法」を紹介する。

 もちろんお金はかかるわけだが,「つくる」労力,「食べる」労力は減っていく。

 効率重視の社会では,労働しないで(咀嚼しないで)すんだ時間を使って,別のことができるようになる。

 しかし,果たしてこういう生活で人間の「健康」は本当に保障されていくのだろうか。

 私は教育関係者だから,これと似たような違和感を教育現場で抱くことがある。

 解法が問題集に示されているようなものはどんどん解けるが,

 新しい課題となると,全く歯が立たないというより,課題を解決しようという気にならない子どもがいる。


 教育実習生でも,予備校的レベルの大学で効率よく採用試験の勉強だけをしてきた学生に似たような傾向が見られる。


 受験のための塾による指導を「教育」と勘違いしている子どもや親から見れば,

 「そんな課題を出す先生が悪い」ということになる。

 その理由は,「塾の先生でもわからないと言っている」から。

 効率よく「いい成績がとれる子ども」「志望校に合格できる子ども」をつくっている人には想像できない力が「学校教育」にはあるはずである。

 そういう信念を教師自ら抱いていた学校も,たとえば都立高校なら,進学実績重視の高校が出てきたあたりから,怪しくなってきた。

 長くその現場にいる人からは,「学校が全く変わってしまった」ように見えるらしい。

 教育庁幹部は,「都民の期待」に応えているのだから,「いい仕事」をしているとも言える。

 それは,「行政マン」「事務方」としては,正しいのかもしれない。

 内田樹は,日本全体の「株式会社化」が進んでいると警鐘を鳴らしている。

 新自由主義路線は,小泉首相時代から変わっていないようだ。

 行政では,その時代に力をつけてきた若手が,今,幹部に昇進しようとしているから,

 ますます行政の「株式会社化」は進んでいくだろう。

 税金の無駄を減らすために,効率重視という考え方も必要である。

 しかし,一方で何を犠牲にしているか,そのことのリスクが何であるかも周知された状態で,改革を進めてほしい。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

ICT教育の落とし穴

 弘中勝さんのメルマガ『ビジネス発想源』は何年か前から購読させてもらっていますが,「今日の発想源」はもう3859回に達しています。

 「イメージだけ膨らんでも」というタイトルに示された内容は,ICT教育に力を注ごうとしている人たちにとって,頭に入れておいた方がよいものだと思いました。

 情報にあふれている現代では,たとえば職業についても,イメージがつくりやすい。

 そのイメージは,受け手の都合のよいように形成されていく。

 だから「3年までに3割が仕事を辞める」ような事態になる。

 インターネットなどで検索してわかる情報は,

 「たんなる一面にすぎない」ことが自覚できずに,

 スマホやパソコンの画面だけを見て,自分の都合のよいイメージだけを膨らませていた若者が,

 「現場」の「真実」にふれると急にやる気をなくしていく。

 こういう事態を防ぐことが学校教育にとっても重要であって,

 ただわかりやすい,興味をもたせやすい,という理由だけからICT機器の導入を進めていかないように,心しておくことが大切です。

 今までは,個人で勝手につくったイメージで失敗していた人たちが,

 「学校でこう習った」「学校で学習させられた」ことを理由に失敗していくことがないように。

 学校でしかできないこと。

 それは,たとえ効率は悪くとも,どこかに出かけていって,実物に触れること。

 本人に取材して,確かめること。

 そういう活動こそが「特別活動」らしいものの代表であり,

 修学旅行のような宿泊行事が単なる「観光」で終わらないための工夫が必要なのです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より