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教員免許の国家資格化と教員国家試験の行方 その2

 家内には,「国家試験で実技試験は難しいのでは」と批判されました。

 もっともなことですが,国家が日本の未来をつくるのは教育だ,と腹を決めて,

 根本から「教員」の質を上げようと考えているのであれば,ぜひとも実施してほしいのが

 「実技検査」です。

 都道府県の採用段階でやるのではなく,むしろそこでは国家試験の成績で振り分けるというので十分でしょう。

 ペーパーで資格を出してしまうのも悪くはないのですが,

 教員というのはたいした知識はなくてもつとまってしまうものであり,

 逆にコミュニケーション能力なり環境適応力がなければ本当に現場で使えないお荷物になってしまうので,

 「だれの目から見ても(できれば子どもの目から見ても)現場で通用する」と判断されて資格ありとしてほしいものです。

 
 安倍総理は,なぜ教員免許の国家資格化をかたちにしようとしているのでしょう。

 「教員の国家資格化」は,ある集団のスイッチを入れるきっかけになりうると考えているのは私だけでしょうか。

 「国家資格」という肩書きに憧れる人は,一定程度存在すると思われます。

 特に,ただ「偏差値が高い学校」に入ろうとして進学した人にとっては,

 「何となく頭がいい人しかなれそうもない」という匂いに誘われて,「国家資格取得」に向けて動くかもしれません。

 逆に,教育産業が明示してしまっている「偏差値」で劣等感を植え付けられてしまっている大学の学生たちにとっては,心理的なハードルがさらに上がってしまうかもしれません。

 今までは都道府県別のパターンが決まっている教員採用試験の対策をしておけば学生が集まっていた大学などは,淘汰されていく可能性があります。

 
 国家としては,大学の予備校化によって,だれでも教員になれてしまう現状を解消し,

 教員の「ハク」を向上させようとするねらいがあるはずです。

 医師や裁判官のように,それなりに偏差値が高い人間でないと,取得できない「資格」をもっているのが学校の先生である・・・・・教員の犯罪防止がこれでできるかどうかはわかりませんが,まず医師や弁護士,裁判官なら犯さないような犯罪を実際に犯している(・・・・最近,医師の犯罪が続けて報道されていますが・・・)ので,こういう教員を何とかなくしたいという思いもあるのでしょう。

 しかし,先に記したように,「コミュニケーション能力」なり「問題解決能力」の偏差値が高くないと,教員はつとまりません。

 ですから国家資格をもちながら,現場で役に立たないというタイプの人間は,今と変わらず消滅させることはできないでしょう。

 しかし,資格を取得する段階で判断できるなら・・・という願いは,ぜひともかなってほしいものです。

 
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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
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  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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