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教員免許の国家資格化と教員国家試験の行方

 教員採用試験の問題をつくっている人たちにとっては,たいへんな仕事がやがてなくなることに安堵の感覚を抱いているかもしれません。

 以前に採用試験問題の分析の仕事をしたことがありますが,基本的に公開が原則ではないためか,つくりが雑で,単なる知識の有無を問うようなものが多く,「いい授業ができる教員を求めている」とは思えない実態がありました。

 国家試験を作問するとなると,それはすなわち「国家は教師に対してどのような資質を求めているのか」を明示することになります。それが単なる知識では各都道府県が行っている採用試験と同じになってしまうので,大学入試の新テストと同様に,「今までになかったような,どんな力がついているのかが明確に試されている問題」であることがわかるような工夫が必要になります。

 ただ,そういう問題づくりは容易ではありません。

 ですから私の考えですが国家試験のペーパーテスト自体に求める期待は,それほど大きなものではありません。

 大切なのは,「国家資格」を得るための「最終実地試験」にあるというのが私の考えです。

 大学在学中に実施している3週間の教育実習で,「教師になるための十分な資質」を育てることは困難です。

 教育実習の指導にあたっている教員の質も様々であり,3週間が本当にためになる経験になっていない学生がいるのも事実でしょう。

 では「最終実地試験」はいつ,どこで,どのように実施すべきなのか。

 私の考えは,各公立学校での50分授業・2本勝負です。

 1本は教科。2本目は道徳。

 時期は,夏期休業期間中。児童生徒にとっては,実質的には「補習」のような形になります。

 授業の「採点」は,採点官はもちろん,児童生徒,また保護者や地域の方々にも参観してもらい,

 「こういう人に先生になってほしい」という受験生に点数が入れられるしくみとする。

 眠っている公共施設である公立学校の「教室」が有効活用できる。

 児童生徒は塾に行かなくても(質はともかくとして)ただで授業(補習)が受けられる。

 地域が先生を育てているような印象が強くなるような,

 公立学校らしい教員採用のかたちではないでしょうか。


 私はこれまでの教員経験で,大学を出て教員になっている人と,

 大学院を出て教員になっている人で,大きな違いを感じたことはありません。

 大学院に進んだ人は,実際の教員生活は短くなるわけで,気の毒に感じるくらいです。

 教員国家試験が,大学院に進まないと合格しにくくなるような仕組みだけはつくらないでほしいと思います。

 
 教員国家試験対策の予備校のようになる大学も増えるでしょうが,

 本当の「予備校」は,実地の授業ができるところであり,知識を詰め込まれるところではいけません。
 
 
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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