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教員の意識改革~「伝える」ではなく,「伝わる」生徒指導にするために

 子どもがうんざりする教師の「お説教」・・・・お坊さんには失礼ながら,生徒指導のことをこう呼んで忌み嫌う経験は,教員でも子ども時代にしているのでは・・・・を例に,

 教師はどうしたら子どもに「言いたいこと」「伝えたいこと」を「伝えること」ができるのか,を考えます。

 「お説教」の場合は,子どもはすでに教師の「言いたいこと」「伝えること」がわかっていることが多い。

 子どもからしてみれば,そのわかっていることができないことを責めるのが「お説教」であって,

 教師から「伝わってくる」のは,「~することが悪い」という内容ではなく,

 「お前が悪い」「お前が嫌いだ」という感情にすぎないことが多い。

 では,「挨拶をすることは大切なことだ」という内容を「伝える」には,どうしたらよいのか。

 「挨拶をすることは大切だ」と直接言葉にしてみたところで,

 「挨拶の大切さ」は伝わらない。

 教師は,何かの大切さを伝えようとするとき,

 子どもには「押しつけがましさ」「ダメだ子どもたちだ」という感情的なものしか伝わっていかないことが多いようです。

 どうしたらよいのか。

 『研究を深める5つの問い』(宮野公樹著)では,伝達やプレゼンの技術の極意として,

 「伝わってしまう」ような伝達をめざすべき,と指摘しています。

>相手を操作するのではなく相手の立場に立ち,共感による伝達をめざすこと

 という伝達の大前提を理解し,たとえば

 挨拶では「相手の望み」を出発点として指導方法を考える。

 子どもが「先生に認めてもらいたい」という「望み」をもっているのならば,

 「挨拶をする」場面で,教師は「子どもを認める」発言をする。

 その繰り返しによって,廊下ではただの「挨拶」がかわされるだけの日常が自然に生まれてくるわけです。

 ただの「挨拶」が,実は「お互いを認め合っている」というサインの交換になっていることに,子どもが気づく。

 こうして,「子どもの立場」になってみて,指導方法を改善していくことは,

 大げさに言えば教員の意識改革につながります。

 子どもの立場になってみて,「なぜ先生方はお互いに挨拶をしないの?」という疑問が浮かぶことが想像できれば,教員がお互いに子どもの前で自然に挨拶ができ,ときには簡単な子どもの情報交換をしたり,お互いの部の成績を確かめ合ったりするようになるでしょう。

 もちろん職員室でやってもよいのですが,「子どもの前で」教師どうしが仲良く言葉を交わし合うというのは,絶大な影響力がある,というのが私自身が実感していることです。

 「伝えようとする」態度はもちろん大事ですが,

 「伝わってしまう」ような「伝え方」ができるようになるために,「子どもの立場で」考える,という習慣を身につけておきたいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より