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佐藤学に見えていないもの

 ミニスカ公然わいせつの男性小学校教師は,教職歴何年なのだろう。

 佐藤学は著書『専門家としての教師を育てる』の「プロローグ」の中で,次のようなことを書いている。

>教師の危機に関しても,マスメディアは実態を取り違えてきた。この一○年間をふりかえると,教師に関するメディアの報道は「不適格教師」と「民間校長」の二つに集中していた。確かに「不適格教師」の存在は由々しきことだが,「不祥事」で処分を受け「不適格教師」として退職した教師は毎年一○○名程度であり,約一○○万人の教師の一万人に一人,○.○一%である。その例外中の例外の現象がテレビや新聞や週刊誌の格好のネタにされて,教師に対する評価と統制の根拠となり,教員免許更新制が導入された。

 大学の先生や教育委員会の指導主事の中に,「私はこれだけたくさんの学校を訪問し,授業を見てきた」などと「自慢」する人間がときどきいる(現場感覚を持っている人は,反発しか生まないことがわかるので,決して口にしない言葉である)。

 しかし,絶対に見えていなかったものがあるはずだ。

 1万人の授業を見ても,99万人の授業は見ていない。

 「参観者のいない授業」は一度も見たことがないはずである。

 見ていないものの中に,問題のほとんどは隠されているという自覚をもつべきである。

 また,「不適格教師」になった人間は「割合では」わずかだとしても,「たった一○○人」と捉えるような感覚を現場の人間としては理解できない。

 「不適格教師」は退職するまで,のべ何人の児童生徒に対して,のべ何百時間の授業をしてきたのか。

 退職するきっかけの事件は一瞬でも,たった一回だとしても,

 それまでにいったいどれだけの「問題」があったかを,教師教育の研究者で明らかにしようとした人間はどのくらいいるのだろうか。

 たった一人の教師でも,毎年担任をつとめれば,30年で1000人ほどの子どもとかかわる。

 中学校教師なら,教科にもよるがこの何倍かになる。

 たった一○○人などと切り捨てるわけにはいかない。

 分かっていないわけはないが,「不適格教師」として退職させるには,犯罪行為など,よほどのことがないと難しい。

 「授業ができない」「学級を成立させることができない」程度の教師は「不適格教師」でも「指導力不足教師」でもなく,

 「悩める教師」として現場に居続けられる仕組みである。

 もちろんメディアは恣意的に公開するニュースを選別している。

 「教員の国家資格化」が検討されている現在では,

 教員による「わいせつ行為」などは(今まで報道されなかったレベルの事件も含めて)報道されやすくなるだろう。

 心を痛めるのは,その教員に現在教わっている子どもたちだけではない。

 担任教師の名前を覚えているすべての卒業生たちが,

 「こんな人だったのか」「こんな人になってしまったのか」とがっかりしたり,心を痛めたりしているのである。

 「もっといい先生に教えてもらっていたら・・・」「もっといい先生に出会えていたら・・・」

 と過去をふり返る人が増えるかもしれない。

 もちろん,「そもそも学校の先生に何かを期待する時代ではない」と言ってしまえばそれまでだが。

 「不適格教師」は「例外中の例外」という言葉は,

 おそらく佐藤学の「顧客」となる現職の教師に向けて語られているものだろう。

 私たち国民に向けての言葉ではないと解釈したい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より