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« 教員免許の国家資格化と教員国家試験の行方 その3 | トップページ | 受験で小学生にかかる負担の重さは中高生の何倍? »

日本の教師の学歴水準は途上国並み(世界で最低レベル)

 教員の国家資格化を進めていく上で,混乱が予想されるのが

 「専門家としての教師像」をめぐる問題です。

 佐藤学は『専門家として教師を育てる』(岩波書店)で

 現在の教職大学院について,専門家としての教師ではなく実務家としての教師を育てる

 「専門学校」だと批判していますが,

 教育現場が求めているのは大学の先生が持っているような知識をもっている人間ではなく,

 「現場で使える」教師,つまり実務家としての教師です。

 ですから別に「教職大学院」という名称である必要はなく,

 「教職専門学校」でもかまいません。ただそれでは税金を投入しにくくなるのと,

 さらに人が集まらなくなるのでつぶれてしまうことになるでしょうが。

 現場では,教員採用試験に合格できない人が,「浪人先」として選択するのが

 予備校ではなく大学院である,という認識でいます。

 2年とか4年とか大学で勉強を続けたり,教育自習の期間を長くとることで,

 「よりよい教師の資質を身につけること」が可能であるほど,

 公立学校の教員の仕事は「努力で何とかなる」という性格のものではなく,

 高校までに培われたコミュニケーション能力,

 もちまえの明るさ,適応力,忍耐力,協調性,そして何よりも健康であることが,

 教師に求められる資質です。

 さすがに中学校では早すぎるかもしれませんが,高校段階では
 
 「教師に向いている生徒」かどうかはわかってしまうと思われます。

 さて,教員に求められる能力として,

 「知識をたくさんもっていること」も大切ですが,現場では

 「子どもが集中できる」

 「活動に意欲的に取り組める」

 「学習指導要領が示す内容程度の能力を身につけられる」

 授業ができる人が,年数を経るにしたがって

 「周辺技能」を身につけていきます。

 授業ができない人が身につけられる能力は,管理職になるためのものくらいしかありません。

 管理職の実務は大学を卒業できるくらいの学力があれば,だれでもできます。

 ただ管理職には教員以上の「人間力」が求められるのは言うまでもありません。

 「管理職にするにはもったいない」教員より,

 「事務仕事の方が向いている」教員が,管理職になってくれた方が現場としてはお得です。

 佐藤学が「専門家」と呼びたい教員になるには,次のような要件を満たす必要があるとのことです。

>1 私的利益の目的ではなく,公共的な利益,すなわち人々の幸福を目的とする仕事である

>2 大衆が保有していない高度の知識と技術によって遂行されていること 

>3 専門家協会を組織して,自律的に免許と資格を認定し,高度の専門性を維持し更新する研修の制度を確立していること

>4 政策や行政から独立した自律性を与えられていること

>5 倫理綱領を有していること

 実態として,教員は最初の項目以外の要件を満たしていない・・・・2番目については,タイトルに示したような惨状を示している,ということです。

 政府の国家資格化は,3番目の項目のためにできる組織を,新しい天下り先として創設するため,というわけではないでしょうが,教育委員会の仕事がなくなることも想定に入ります。

 現在でも教育委員会は4番目の項目の状態にはなっていません。

 教育委員会の機能をどうしたいのか,そういう方向性も教員免許国家資格化にはからんできそうです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より