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学校に見捨てられた教師が語る「部活動論」

 少し前に,部活動関係の記事を書いたのだが,刺激が強すぎると思ってお蔵入りにした。

 中学校における部活動の指導者の問題については,

 私のような部活動の指導をしてきたことで「中学校教師をしている」と胸を張って言える人間から見れば,

 問題だと言っている暇な人間がいること自体が問題だというのが正直な話である。

 外国ではどうこうという話になるが,ここは外国ではない。

 自分たちが生徒のときはその恩恵を受けるだけ受けて,自分が教員になったときに

 「この仕組みはおかしい」という発言をよくも平気で言えるものである。

 若い教師が採用されなくなった20年以上前から,問題となっているのは,

 採用試験のときは「部活動の顧問をよろこんで引き受けます」といっていた

 人間が,現場に立ったとたんに「都合が悪くてできません」と拒否する事態である。

 PL学園のように,校長が顧問をつとめたりする学校もある。

 顧問の持ち手がいない部活動はつぶれ,学校選択が自由である地域なら生徒が集まらなくなり,

 極小規模化していく。こんな悪循環を経験している子どもも少なくないだろう。

 解決策は,学校規模を適正にするしかないのである。

 たとえ片道1時間歩く距離に学校があっても,やりたい部活動がある子どもは平気で歩いて通ってくれる。

 これが中学校風の「だれも見捨てない」教育である。

 「私は吹奏楽部の顧問しかできません」というわがままは許されない。


 部活動にはさまざまな問題があるが, 

 勉強ができない生徒が部活動の実績だけで進学できるような仕組みがあることについては,

 ごく一部の学校のごく一部の生徒が対象だから,「どうでもいい」というのが私の考えである。

 とうてい「すべての子ども」にあてはまる話ではない。

 また,「名前を売る道具に生徒を使う」のは私立高校の自由である。その片棒を担ぐのが良いか悪いかを判断する立場にはない。


 中学校という教育現場には,巨人に新加入したある外国人選手のような立場の教員がいる。

 「仕事は何もできないが,部活動の指導だけは一級品」という人である。

 こういう人が,仕事はおろか,部活動の指導に失敗するケースもある。

 教師だけでなく,生徒にも見放され,見捨てられる教員というのはさびしい存在である。

 教育現場でDH制をつくるとしたら,どんな仕事のことだろうか。

 守備をしないですむ仕事が教育にあるとは考えにくいのだが,

 こういう教員は「何もしないでくれること」でまわりの教師から感謝される存在となる。

 学校はこういう「守り」に入ったとたん,急激に荒れ始めるのは,言うまでもない。


 露骨に,「部活動の成績」より,「学力調査の成績」が大事だ,とふれまわっている教育委員会もあるようだ。

 部活動の指導よりも,補習の方が「やりがい」を感じる人が多くなっているのが,やるせないところである。


 やがて,「部活動論」など,だれも聞いてくれない時代がやって来るかもしれない。

 しかし,「外部指導員」に主導権を奪われるような事態を望んでいる人間が多くなるのは,やむを得ないことかもしれない。
 
 自分のような「生き残り」が減っていく様子を今後しばらく,眺めていくことになるのだろう。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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