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教師が「評価」を伝えることができる生徒は1日何人までか?

 1人の教師で,生徒たちの日常的な行動の評価は何人くらいまでできるだろうか。

 5時間授業がある日は,授業だけでも200人の生徒と接する。

 部活動があれば,さらに人数が増す。

 委員会活動があれば,学年を超えて対象生徒が広がる。

 長い準備期間を要する委員会を指導している場合は,毎日,どこまで仕事が進んでいるか気になる。

 教師は無意識的に多くの生徒を「評価」している毎日であるが,

 その結果を本人に,あるいは担任や学年の教師に伝えることができるのは,1日何人までが可能だろうか。

 クラスの場合でも,1人に対して10分以上の話ができるのは,年間で1~2回しかない。

 前任校では学年主任として約100人の生活ノートに目を通していたが,全員にコメントを残す時間はなかった。

 評価したいことがらは,個人内評価的なものから,全体のどこかに基準があるタイプのものまで,様々である。

 教科から,生活指導から,部活動まで,様々である。

 苦手な分野での発言ができるようになるまでには,相当の決意が必要だったのだろうという思いを込めて,指名する。

 全体の生徒に向けて驚きを示してしまわないように気をつけるのも忘れてはならない。

 評価をすべきときとすべきではないときがある。

 授業でひらめきが多く見られるようになったことと,

 野球の試合で敵の作戦が見破れるようになったことが重なったりすると,

 学校生活全体を通して成長してくれているのだなという満足感を覚える。

 残念ながら,それらを「いちいち」言葉として伝えられないのは,少しもどかしい気もする。

 教師というのは,異常な「記憶力」をもっているものである。

 20年前の卒業生の顔と名前は一致するし,

 何回戦の何回の裏の攻撃でサインミスをした,なんてことまで覚えている。

 「声をかけた記憶」よりも,「声をかけ損ねた記憶」の方が鮮明に残っていたりもする。

 そういう未練がましい思いは,生徒の方に何となく伝わるようで,

 卒業して何年も経ってからでも,何かを感じて思い出したように近づいてきてくれる。

 今日は,どうしてそんなことを考えてしまったのかというと,

 野球の対戦相手の監督の話が長かったからである。

 ある回は,ミーティング中に3アウトチェンジになってしまった。

 人によって,いつ,何を,どのくらい話すのかはまちまちだが,

 長すぎるのは生徒にとってよいことなのか,どうなのか。

 教師による「評価」といっても,それが常に正しいとは限らない。

 経験上,多く語った記憶があり,それが大きくは謝っていないと自覚できているような言葉を発する。

 ある程度,いい加減な性格でないと,教師は務まらないような気もしてきた。

 今日は100回くらい声をかけたかった場面があったが,多くはそのタイミングを逸してしまった。

 半分くらいはかけてもかけなくてもよい内容だったが,かけてあげるだけで効果があったかもしれない場面もあった。

 内容にも正解はなく,かける・かけないにも正解はない。

 ただ心残りだけは年を重ねるにつれて増えていく。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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